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やっぱり今日もひきこもる私(226)「居場所のつくり方マニュアル」のつくり方マニュアル

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 by ぼそっと池井多

 

おととい2月21日は、東京・池袋で「未来の居場所づくり」シンポジウム東京で講演登壇をさせていただいた(*1)。

 

 

集合から解散まで8時間におよぶ長いシンポジウムであった。

私の講演のなかでも申し上げたのだが、「居場所のつくり方」「居場所の手引き」「居場所マニュアル」というものをひきこもりたちに与えるという事業は、根本的な問題をはらむと思う。

なぜならば、ひきこもりは

「人生のマニュアルを拒否した人々」

という側面があるからだ。

 

「その歳になったら学校へ行く」

「その歳になったら就職して働く」

「その歳になったら結婚して家庭をつくり、子どもをつくる」

といった、所属社会における「人生のマニュアル」を拒否した結果がひきこもりになっている、と考えることができる。

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その拒否は、意識的なものではない。

たいていは、自分でも何だかわからないままに、無意識や潜在意識によって拒否を選択している。

しかし、無意識は意識よりも自分のことをよく知っているものである。

そして、「そうか、自分は拒否していたのだな」と、何年も経ってから意識の上でも気づく。

 

このような「人生マニュアルの拒否」をした人々に対して、「居場所の作り方」などという新たなマニュアルを与えるとは、いったいどういうことであろうか。

しかも、ひきこもりになり、一般社会から差別され、追い詰められ、ようやくたどりつく居場所という存在が、これまた「マニュアル」として迫ってくるのである。

それでは、

「冗談じゃない、もういいかげんにしてくれ」

と言いたくなるだろう。

 

そのように「居場所のつくり方」などと教えられたら、私などはかえって居場所など作らないと思う。

 

 

このたびは、VOSOT(チームぼそっと)で開催している「ひ老会」が本事業のなかで居場所の先駆的モデルの一つとして選ばれたのであった。

それ自体、たいへん光栄に存じているが、何度も申し上げるように、私は「ひ老会」を居場所としてつくったのではないのである。自分のニーズのために作ったところ、そこを居場所を感じてくださる参加者の方が増えてきた、という結果であるにすぎない。

 

このように、「ひ老会」にかぎらず、

居場所はつくろうと思ってつくれるのか

という点がはなはだ疑問である。

 

すなわち、

「居場所をつくろう」

と思ってつくった場所は居場所にならず、

「居場所のつもりなどサラサラない」

とつくったものが結果的に居場所となる、ということが多い。

 

となると、居場所に関しては、

つくるためにはつくらない

という逆説が成り立つ。

 

「居場所をつくるにはどうしたらよいですか」

という質問には、

「そうですね、居場所をつくろうとは思わないことです」

という答えが意味も持つ。

 

そして、「居場所のつくり方マニュアル」をつくりたい人は、その最初の項目に、

 

第1条 居場所をつくろうと思わないこと

 

と書くとよいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり今日もひきこもる私(225)本日、「未来の居場所づくり」東京シンポジウムで講演・登壇します。

by ぼそっと池井多

 

昨年の7月から、私は厚生労働省からKHJ全国ひきこもり家族連合会への委託事業である「居場所づくり事業」委員会(*1)のメンバーとして、地方の居場所へ視察にうかがったり、会議に出席してきたり、いろいろ慣れない仕事をやってきたわけであるが、今日はいわばその総決算の一つ(*2)ともいえるシンポジウムである。

 

*1. 居場所づくり事業 正式名称は「社会福祉推進事業
『地域共生を目指すひきこもりの居場所づくりの調査研究事業』」

*2. 総決算の一つ まだ報告書の発行という総決算も控えている。 

 

じつに長いシンポジウムである。

厚生労働省はもちろんのこと、内閣官房やら国会議員やら大学のセンセイやら、さまざまなお偉い方々がつぎつぎと出てきて講演をし、始まってから5時間近く経ったころ、ようやく最後の最後にひきこもり当事者として何人かが出てきて講演する。そのなかで最後から2人目が私である。

しかも講演の持ち時間は短い。

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わずか12分ほどの時間内で、いったい何が言えるか、ということなのだが、私としては、この「居場所づくり事業」という流れに水を差してでも、やはり私の持つ疑問を述べようと思う。

すなわち、はたして「居場所」とは、上から下へつくって与えるものなのか、また、「居場所の作り方・手引き」といったかたちでマニュアル化するものなのか、という根本的疑問である。

 

たとえば「公民館」といった公共施設であれば、これはやはり行政が上から作る必要があるだろう。

しかし「居場所」という、主観的思い入れが強く働く空間はどうなのか。

 

集まっている本人たちがそこを「居場所」と感じるのであれば、カフェでも居酒屋でも公園でも橋の下でも、はたまたネット上のページでも、あるいは想う人の心の中でも、みんな「居場所」になるのではないか。

建築的な空間の建設は必ずしも必要ないのである。

 

また、「居場所」は上から「つくる」ものではなく、ほんらい参加する者たちのあいだで自然に「できる」ものなのだと思う。

 

たとえば今回、私がここの委員に選ばれたのも、VOSOT(チームぼそっと)で開催している、中高年のひきこもり当事者のための当事者会「ひ老会」が「居場所」として評価されたからであった。

 

しかし、始まりを振り返れば、私は「居場所」として「ひ老会」を始めたわけではない。

あくまでも中高年のひきこもり当事者のための情報交換の場がなかったため、そういう場として「ひ老会」を開催したところ、回を重ねるにつれて、それを「居場所」と感じる人が増えてきた、というだけなのである。

もし、始まりにおいて、「居場所の作り方・手引き」のようなものがあったり、行政のような「上」から「居場所を作れ」と言われたりしたら、私は「ひ老会」を作らなかっただろうと思う。

 

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せっかくみんなが官民一体で「居場所づくり」ということで和気藹々と盛り上がっているところへ、また私がこんな水を差すことを言えば、物議をかもし、二度と行政や社協からお呼びがかからなくなるかもしれないが、この根本的な疑問点をなかったことにして、ひきこもりの居場所支援なるものを先へ進めていくわけにはいかないだろう、と私は思うのである。

 

 

 

 

やっぱり今日もひきこもる私(224)「地域で支えるひきこもり」運動の危険性 その3

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 by ぼそっと池井多

 

昨日に続いて、「地域で支えるひきこもり」へ高まる気運のことを考えている。

これまでのお話はこちら。

vosot.hatenablog.com

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これだけひきこもりと「地域」は相性が悪いのに、なぜ「ひきこもりは地域で支えていく」などということが、さかんに語られるようになったのだろうか。

 

その発端には、昨年の初めに「8050問題の象徴」などとして報道された札幌母娘餓死事件(*1)があるように思う。 

 

あの事件は、「8050問題」の象徴などではなかった、ということを、上記の記事「やっぱり今日もひきこもる私(22)」では述べさせていただいた。

 

そして、札幌母娘餓死事件が人々の涙を誘ったとき、あの事件は

「地域に見捨てられた貧困層が孤立して餓死した」

といったイメージで広まっていったと思う。

 

そのため、人々は、

「これは何とかしなければ」

という焦りに駆られたのだ。

 

しかし、それは本当だろうか。

あの事件を冷静に振り返ってみよう。

 

悲劇が起こる何日か前に、近所の銭湯のご亭主が、やがて餓死することになる娘さんに声をかけていたことが、事件後の取材で明らかになっている。

また、近所の人も、その母娘に生活保護の申請を勧めていたこともわかっている。

つまり、彼女らはけっして「地域から見捨てられて」亡くなったのではないのである。

「彼女ら自身に周囲に助けを求める力がなかった」

ということが、悲劇の直接の原因であることは明らかだ。

 

また、餓死という亡くなり方は、お金も食べるものもなくなって、困窮のうちに亡くなった、つまり貧困死といったイメージに直結しやすい。

ところが実際は、亡くなった母娘の部屋からは9万円の現金が見つかっている。

9万円があったからといって、彼女たちが貧困層でなかったことにはならないが、「所持金が尽きて亡くなった」といったような、画に描いたような貧困の悲劇ではないのである。

 

では、なぜ彼女たちは餓死しなければならなかったか。

おそらく理由は、彼女たちの「権利意識のなさ」といったものに求められるのではないか。

少なくとも「地域の冷たさ」よりも、その方が格段に切実だろう。

 

しかし、それを解明するのは至極むずかしいことだ。だから、人々はわかりやすいイメージに走りたがる。すなわち、

「地域に見捨てられたかわいそうな貧困層孤立死

といったイメージである。

 

 そして、このようなイメージが、

「それぞれの地域にいる(にちがいない)生活困窮者を助けよう」

といった運動につながっていき、その延長として

「孤立しているかわいそうなひきこもりは地域であたたかく支えてあげよう」

といった思考に結びついているのである。

 

言い換えれば、「地域で支えるひきこもり」といったスローガンは、もともとが事実誤認から始まっているのである。

 

ひきこもりの長男を父親が刺殺した、練馬事件などを見ても、

「地域で支えるひきこもり」

などという運動が起こっていれば、あの元農水次官の父親が家庭の中の恥を捨て近所に助けを求めるようになったとは、ちょっと現実的には考えにくい。

 

結局、求められるのは人々の意識改革である。

意識の変革は、たとえば「地域」といった、日常的に顔を突き合わせるような近い人たちから働きかけられるのが効果的だとは限らない。いや、むしろそれが逆効果に作用する場合の方が多いだろう。

私だって、「近所のおばさん」に意識変革を求められたら、即座に反発するかもしれない。それが良いこととか悪いこととか価値判断を超えて、そうすると思う。

 

 

けっきょく「地域で支えるひきこもり」などということを提唱している人たちは、ひきこもりの気持ちを何もわかっていないのだ。

 

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(223)「地域で支えるひきこもり」運動の危険性 その2 あえて地域の外へ

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やっぱり今日もひきこもる私(222)」からのつづき・・・

 

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by ぼそっと池井多

 

 

昨日は「やっぱり今日も引きこもる私(222)」において、最近とみに言われるようになってきた「地域で支えるひきこもり」という気運が、ひきこもり当事者にとっていかに危険なものであるかを、私個人の感覚を基にして語らせていただいた。

 

それでは、これは私が一人で言っているかというと、そうでもない。

私がこの件について話したことのある当事者仲間12人のうち11人までもが、

「地域で支えられるなんてとんでもない」

と言っている。

 

もちろん、すべてのひきこもりが同じ意見であるなどとは逆立ちしても言わないが、これを聞いて、私は自分のひきこもりとしての感覚がかなりの一般性を持っているのでは、と思った。

 

私たちは、例えば当事者会へ行くにしても、自分の地域でやっている会ではなく、わざわざ電車に乗って、自分の地域以外でやっている会に行くことがよくある。

5分に1本、電車が走っているような都会のひきこもりだけではない。交通の便が悪い地方のひきこもり当事者の方からも、そういうお話はよく聞くのである。

 

これは、もし自分の地域の当事者会に参加すると、地域の人たちにそこへ通っていることがバレるのが嫌だから、わざわざ遠くの当事者会まで通うのである。

 

当事者会ではないが、私が一般市民の方々の生活を学ぶために、おそるおそる商店街へ「留学」することを考えたときも、自分が住んでいる最寄りの駅ではなく、わざわざ一駅行った隣町の商店街を選んだことも、それと同じ気持ちが底に流れている。

 

これらは何を物語っているだろうか。

まず第一に、そこまでして自分の住んでいる地域の人には知られたくないというひきこもり当事者の心である。

知られたくないから、支えて欲しくもない。

 

第二に、社会におけるつながりというものを考えた時に、ひきこもり当事者にとっては、地域のつながりなどよりも、同じ当事者としてのつながりの方が、はるかに優先するということである。

地縁ではない。もちろん血縁でもない。 事縁(じえん)による絆(きずな)が、もっとも心の支えになるのだ。

 

そういった現実があるなかで、

「地域がひきこもりを支える」

ということを推し進めるのは、ひきこもりのことを何もわかっていない、まるで見当違いだと言わなくてはならないのではなかろうか。

 

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やっぱり今日もひきこもる私(222)「地域で支えるひきこもり」運動の危険性 その1

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by ぼそっと池井多

 

「地域で支えるひきこもり」

とでも言うべきキーワードが、このところ急浮上している気がする。

 

そのうちに

「みなさんで 地域で支えるひきこもり」

といった標語のポスターでも貼りだされるのではないか、といった勢いである。

 

昨年4月の厚生労働大臣による通達、さらに昨年末に一部のひきこもり当事者団体が首相官邸へ行ったときの安倍首相の談話。

それらに基づいて、いま上から下へ大規模な伝達がおこなわれている。

 

ひきこもりは地域で支えましょう

 

おそらく年度が明けることには、各自治体レベルにまで浸透するのではないか。

 

 しかし現実問題として、

「地域でひきこもりを支えていく」

という政策は、どれほど有効なのだろうか。

 

私は、東京郊外に住む独り暮らしのひきこもりだが、「地域」、すなわち自分が住んでいる町内や近所で支えられるのは、まっぴらゴメンである。

 

私がひきこもりだからということで、もし「近所のおばさん(*1) がズカズカと私の生活領域に入ってくるようになったら、もうこれを撃退するべく、箒(ホウキ)を矛に、チリトリを盾にして戦うと思う。

 

*1. この場合「近所のおばさん」とは象徴的な表現である。だから男性の「近所のおばさん」もいる。

 

「地域で支えていくひきこもり」という概念がスローガンのようになっていった暁には、そういう住居侵入やおせっかいが社会風土として正当化されるようになるだろう。

 

なかには、すでに「おせっかい」ということの価値を再評価して、復活させようという恐ろしい動きもチラホラ見受けられる。

 

それはなにも、私のひきこもり部屋にまで入ってくるという、住居侵入罪が成立するレベルまで行かなくても同じである。

事前の約束も何もなく、

トン、トン

と玄関のドアをノックされることさえ、私は全身の毛がよだつほど嫌いなのである。

 

人が訪れてくるのがいやだから、私はちょっとやそっとでは人が訪ねてこないような、貧民窟の奥の奥のような場所にひっそりと暮らしている。

 

「そのわりには、お前はテレビだの何だの、メディアの表によく出てくるではないか。

ほんとうは人と会うのが好きで好きでたまらないのではないか」

などという、あらぬ疑いをかけられることもある。

 

しかし、メディアに出るということは、「人と会う」とはまったく別の行為なのである。

 

たしかに私は、ひきこもり当事者の立場から発言することが必要だと考えるから、そういうメディアの表にも臆面もなくノコノコと出ていくことが多い。

だが、スタジオのような設備でテレビ番組を収録する場合でさえ、せいぜいその場にいるスタッフさん4~5人と名刺交換するだけであり、それ以外の人と会うことはない。

会話もしない。会話をするのはせいぜいディレクター一人だ。ましてや視聴者の方々とは、誰一人会わない、話さない、人間関係を結ばないまま、すべては終了するのである。

 

私は、現在のボロアパートに引っ越して以来、ご近所とは二十年にわたって交渉はない。一部、ひょんなことからふと近所と生じた交渉については、以前書かせていただいた。

 

vosot.hatenablog.com

 

逆にいえば、こんなことが記事になるくらい没交渉なのである。

いまも「近所づきあいをしたい」などとはまったく思わない。

ましてや、もし私がひきこもりであるとカミングアウトしたうえで近所とつきあうとなると、たちまち「近所のおばさん」たちの好奇心の餌食となって喰いつくされるだけだと思う。

 

心配そうな表情を一時的に顔に貼りつけてやってくる「近所のおばさん」は、心の底では私に関する情報を獲得する触手をダイオウイカのように伸ばしている。

ひきこもりの私生活に関する情報をゲットすれば、たちまち防災無線さながらの音量と伝達度で町内へ放送するだろう。

そうされるのはまっぴらゴメンなのだ。

 

自分の人生には向き合いたくないために、どこか他の家に話題を求めてさまよっている、こうした「近所のおばさん」たちの「おせっかい」に正当性を与えるような「地域で支えるひきこもり」運動には、断固として反対していかなくてはならない。

 

 

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治療者と患者(324)麻布の患者たちの洗脳が抜けきらない苦しみ

by ぼそっと池井多

 

前回「治療者と患者(323)」からの続きである。

vosot.hatenablog.com

 

 

あほばいざー

ホーッ、ホッ、ホゥ!(笑ゥ!)

リカモリング・アホバイザー講座に
ダマされてお振り込みしませんか?

ご費用は60万円です。
ホーッ、ホッ、ホゥ! (笑ゥ!)

港区麻布十番さいおうクリニック
ピアカウンセラー式詐欺のマルチ商法です
ホーッ、ホッ、ホゥ!(笑ゥ!)

アホみたいにカモられちゃいますよ〜
ホーッ、ホッ、ホゥ!(笑ゥ!)

ドーン!!!!!!!!!!催眠
(あヒーッッ!!悲鳴)

 

蹌浪

この分野って物理的な証拠が無いから医療事故とかの立証とかなかなか難しいですよね。
これが事故と言えるかは疑問ですけど…
強権国家なら拘束して指をへし折れば自白してくれんですけど

ぼそっと池井多さんや他の患者の人も他の病院に並行して治療を受けるとかはやらなかったのですか?
私は病院に行くときは可能な限り2箇所以上に行ってました。

「怪我よりも、リスクを負ってまでお前を信んじんとならんのが何よりも苦痛だ」
こんな声が聞こえてたような気がします。

 

ぼそっと池井多 

蹌浪さま コメントをどうもありがとうございます。

物証がないから、被害に遭った患者たちがワシを告発することはできん

と、治療者がタカをくくったうえでおこなってきた確信犯です。

二か所以上通うことは、理論的には可能だったことでしょう。

保健所にかけあって、自立支援医療費の書類を整えればよかったのです。

しかし、そういう手続き的な問題をさておいて、なにしろ強力な吸着力なので、さいとうクリニックの患者は二か所以上通うといった心のエネルギーがあまりありません。

そのことは、なかなかおわかりいただけないと思います。

洗脳された側にいる者たちの苦しみや問題点が、その外側にいる一般人の方々には、どうしても通じにくいのです。

ところが、この通じにくさも、齊藤學が数々の所業を犯すうえで織り込み済みにしているところが、なんとも始末が悪いです。
粘り強い戦いが求められる所以です。

 

つつもたせ被害

蹌浪さまも、ぼそっとさまも おっしゃる通り、洗脳詐欺の「物証が無い」のがこの医療型カルト問題の現実です。
でも、そう言って共感して下さり、ホッとしております。
あの当時はまだ現実が怖くて、訳が判らず、僕の手がブルブルと震える日常でしたので。

僕は途中から他院に同時通院をしだしながら、斎藤に「ハメられた」ことに気付いて、死に物狂いで指定のマンションから引っ越して逃げ出しました。
そして警察に相談に行ったり、保健師にも何度か相談しました
弁護士にも何名か相談したところ、洗脳問題を専門的に扱う弁護士からは
「でもあなたはまだクリニックに通っている、という事は君はまだクリニックを信じている事になりますよ。」
と伝えられ、洗脳からまだ身動きずにいる自分自身に重いショックを感じたことを思い出します。
それからは、臨床心理士との定期面接を30回ほど続けていき、僕はカウンセリングを受けながら、なるべくクリニックとは距離を置くように努めながら、長年の「クリニックへの信仰」を泣きながら解いていったのです。

洗脳で気が狂いそうになりながらも、医療カルト問題を患者の立場から法的に扱う事の難しさを、経験とともに痛感しております。
斎藤学は、そうした患者の立場の弱さを見抜いた上で、医療型カルト運営をしようとしているのは間違いありません。まったく厄介な奴です。ご注意を。

ご高覧をどうもありがとうございます。


医療カルトをぶっ壊す!

ぼそっとさん、こんにちは。

つつもたせ被害さんのコメントを読んで、改めて齊藤学への怒りがこみ上げてきます

私も齊藤学に疑問を持つようになってから、他のカウンセラーに相談することで齊藤学の洗脳を指摘されて脱会しました。
現在でも洗脳の後遺症は残っていて、カウンセリングを続けています。

齊藤学は患者同士のカップリングを推奨していた時期がありました。
酷い例になると、女性に「デキ婚」を進め相手の男性は齊藤学の説得で結婚したという話も聞いたことがあります。

彼は家族全員が麻布村の患者になるように仕向けていました。
家族メンバーは齊藤学に疑問を持ちにくくなるし、クリニックの売り上げは上がるし、麻布村にはいいことばかりですよね。
(信者になった家族は最悪ですが)

齊藤学は証拠が一切ないからと元患者達をなめ切っていますが、リカバリングアドバイザーの詐欺商法の話はまだサイトに掲載されていること、あと以前クレプトマニア(窃盗癖)の患者が麻布十番の商店で万引きをしていたことで地元商店会が迷惑していたこともありますから、麻布村を壊滅させる方法はあると考えています。

そういえば私がさいとうクリニックに繋がったばかりの頃、先輩患者から「地元の人はここはサティアンと呼んでいる」と聞いたことがあります。
地元の人は、かなり早い時期から麻布村の異常性に気付いていたのかもしれませんね。

 

ぼそっと池井多

つつもたせ被害さま コメントをどうもありがとうございます。

 

「だって、お前はまだそこに通っているじゃないか」


「いやだったら離れればいいじゃないか」

 

とは、おそらくすべての「部外者」がおっしゃることでしょう。


齊藤學による麻布村というカルトの中に取りこまれた経験のない人は、すべてそのように言いますね。

私も、この問題を取り上げてほしいと頼んだメディアの人たちには、みんな口をそろえてそのように言われました。

 

ところが、それができれば苦労はないのです。

 

なぜ離れられないかを、麻布村と関係のない人にわかるように説明するのは、とてもむずかしいです。

しかし、それができるようにならないと、この問題は社会問題として取り上げてもらえないと考えています。

 

 

 

医療カルトをぶっ壊す!さま コメントをどうもありがとうございます。

たしかに、齊藤學は患者同士のデキ婚を勧めたり、あとは女性患者が、だれか外部に高収入の男とお見合いをすると、しきりに結婚を勧めたりする傾向があると思います。

 

なぜならば、あなたもおっしゃっているように、家族ぐるみで麻布の患者になり、斎藤のカモになるからですよね。

 

麻布の女性患者が、麻布の外のまともな高収入な男性と結婚すれば、その男性の高収入が齊藤學の新たなターゲットになっていました。

そして、齊藤學は、

「結婚してしまえば、なかなか別れられないから」

とも言っていますね。

つまり、麻布の女性患者が、一般社会のまともな男性に愛想をつかされて、別れ話を切り出される前に、「早く結婚してしまえ」と煽っているわけです。

 

夫も、結婚してはじめて、妻がそんな高額な精神科の「治療」をしていることを知るのでしょう。

しかし、知ったときにはもう遅い。

結婚してしまったから、もう簡単には別れられないし、妻の「病気」を「治療」するという名目をつきつけられれば、夫はお金を出さないわけにいかない。

 

こうして、夫は妻を通して齊藤學の財源となり、反論すればたちまち妻に

「あなたも病気よ」

などと言われて、しまいには自分まで「病気」にされて麻布へやってくる。

ほんらいはどこも悪くない夫が、こうして麻布の新しい患者となっていました。

 

こうして夫婦ともども齊藤學の財布の肥やしとなり、齊藤學がJUSTを通じてやっているプロジェクト「赤ちゃんの舟」で生まれた子どもには、齊藤學の一字をとって「学」などと名付けたりするのです。

 

春日局などは、夫婦の財産をほとんど齊藤學につぎこんだだろう、と思います。
春日局の夫がかわいそうで仕方ありません。

ほんとうにおぞましい世界ですよね。

 

こんなものが「精神医療」としてまかり通っている現実を、なんとかしなければなりません。

患者は無力だけれど、私たちのような患者が社会へ訴えていくしかないのだと思います。

 

 

 

 

やっぱり今日もひきこもる私(221)続・「ひきこもりの定義」問題を考える ~ 人間関係の遮断

by ぼそっと池井多

 

以前、本ブログの「やっぱり今日もひきこもる私(193)」において、「ひきこもりの定義」問題を取り上げ、

 

完璧なひきこもりの定義

を作ることは不可能である

 

という仮説を述べた。

vosot.hatenablog.com

 

そこでは、「ひきこもりの定義」の最有力候補であった

ひきこもりと自認する人がひきこもり

という定義案の落とし穴について考察させていただいた。

 

すなわち、昨年5月の川崎登戸通り魔事件の加害者である岩崎容疑者が、

「ひきこもりとは何だ」

と、自分がひきこもりと呼ばれることを拒否し、ひきこもりを自認していなかった、という事実である。

 

これと並んで、私が今まで出会ったなかで「ひきこもりの定義」のもう一つの最有力候補として、

 

自ら人間関係を遮断せざるを得ない状態像

 

という定義案がある。

 

なるほど、これは大変シンプルであるが、ひきこもりという概念の本質を端的に言い表しているといってよい。

しかし、文中で使われている「遮断」という概念が、どういう形態で、また、どの程度のものか、において大きな曖昧さを残している点が、この案を「定義」に採用することをためらわせている。

 

極端な例かもしれないが、たとえば世界中に多くのファンを持ち、各地で大勢のファンに出迎えられるアーティストのような人が、自ら人間関係を遮断している状態にあるのは、よく知られることである。

こういう人は、入ってくるままに人間関係を結んでいたら収拾がつかなくなってしまうので、意図的に遮断するのである。

アイドルの恋愛禁止ルールなどもこれに類するものだろう。

こういうアーティストは、作品を見て聞いてくれる他者(つまり観客)がいて初めて成り立つ存在であるから、人間関係を構築する(もしくは「自己を開く」)のが基本的な姿勢であるように思える。

けれども実際は、その姿勢を実行するために人間関係を遮断する(もしくは「自己を閉じる」)のである。

こうして、ひきこもりとは対極的な生き方を選んでいる人も、多かれ少なかれ「自ら人間関係を遮断している状態」であることには変わりがない。

 

 

また、いわゆる「ガチこもり」と言われている人も、家族とだけは人間関係が成立している場合も多い。

だから、

仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態

厚生労働省による「ひきこもりの定義」2010年)

 

といった考え方が、これまでにあった「ひきこもりの定義」としての項目に含まれるのである。

 

いっぽう、同居している家族とまったく口を聞かないようなひきこもりであっても、インターネットを通じて多くの他者と人間関係を構築している場合が多い。

たとえば、ゲームをやらない私がそういう当事者に出会うのは、おもにGHO(世界ひきこもり機構)においてであるが、オンラインゲームの世界では、ゲームは他者がいてこそ成り立つものであるから、そういう存在はもっと当たり前にいるらしい。

こういう人を、はたして「自ら人間関係を遮断している状態」といってしまってよいのだろうか、という疑問が出てくるのである。

 

 

 このように考えていくと、

「それでは『人間関係の遮断』の程度を数値化して分類すればいいのだ」

という論が出てくることであろう。

つい先日、2月4日に九州大学から発表された「国際的に通用するひきこもりの評価基準」における新しい定義案は、そのような観点を織り込んでいるのだと思われる。

病的な社会的回避または社会的孤立の状態であり、大前提として自宅に居留まり、物理的に孤立している状況である。こうした状況に対して本人が苦悩しているか、機能障害があるか、あるいは、家族・周囲が苦悩しているということが必須項目である。6ヶ月以上を病的な「ひきこもり(hikikomori)」とし、3ヶ月以上6ヶ月未満を「前ひきこもり(pre-hikikomori)」とする。外出頻度が週2-3回を軽度、週1回以下を中等度、週1回以下で、かつ自室からほとんど出ない場合を重度とする。必須項目ではないが、孤独感の有無、社会的参加の欠如、直接的な対人交流の欠如、間接的な対人交流の有無、および併存症の有無の評価は重要である。

九州大学 2020年2月4日

 

 

www.kyushu-u.ac.jp

 

しかし、これはそもそも20年ぐらい前に言われていたことへ回帰しているように思えるし、いったい何をもって冒頭の「病的な」とするのかという点に、ツッコミどころが移動・集中したような気がするのである。

また、家から出る頻度や回数で機械的にひきこもりの程度を割り切ろうとするところに、当事者の側から感じているひきこもりの概念との乖離がある。

結局、これも「完璧なひきこもりの定義」にはなりえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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