VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

治療者と患者(343)続・麻布村、齊藤學を告発する先行報道はあった。

by ぼそっと池井多

 

前回「治療者と患者(342)」では、いままで存在しないと思ってきた、精神科医 齊藤學さいとうさとるの運営する精神医療の実態を報じる先行報道がじつは実在する、という話を書かせていただいた。

 

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2000年6月に「噂の真相」に発表された、西田健というレポーターによる「アダルト・チルドレン』精神病院で儲ける齊藤學の宗教的独断治療法の危険度」という記事である。

 

その記事の中には、さらに先行する記事としてこのような言及がある。

 

「齊藤學がおかしくなったのは、97年ごろですよ」(齊藤學の知人の精神科医

そして、それは、当時、ジャーナリストの与那原恵が『諸君!』でリポートした「齊藤學の『アダルト・チルドレン』は新宗教」の掲載がきっかけだったと指摘する。

ところが、である。与那原の記事を読んでみたが、タイトルは煽情的だが、内容はいたって穏健。「ちょっと宗教っぽさがある」といった内容で取材も書き方も十分に注意を払ったものだ。にも拘わらず、斎藤の怒りは凄まじかったという。

「記事が出るや、編集者にクレームの電話を入れ、与那原と編集者にクレームの手紙を出した。それでも謝罪しないと分かると編集長宛に手紙。文藝春秋の書籍部を通じて圧力をかけ、二度と文春には出ないといきまいたともいいます」(文藝春秋関係者)

 

それでは、その与那原恵による記事とはどのようなものか。

そちらは、これである。

 

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「諸君!」といえば、一般には右翼雑誌と考えられている代物であった。

いっぽう「噂の真相」は左翼と見なされていた。

そういうレッテルは必ずしも真実ではないのだが、少なくとも右から見ても左から見ても、齊藤學の精神医療はすでに1990年代から怪しい新興宗教としてマークされていたわけである。

 

与那原恵の記事が出た1997年といえば、まだ私が麻布村につながる前である。

そのとき、私はまだ齊藤學を知らなかった。

 

たしかその翌年、1998年あたりに斎藤がNHK教育テレビ(現在のEテレ)の「市民大学講座」なる番組に出ているのを見て、初めてその存在を知ったのである。

私はガチこもりの最中で、外界を遮断したおちついた環境を活かしてフロイトなどを耽読していた時期だったこともあって、齊藤學がアメリカから持ってきた「アダルト・チルドレン」という概念に強く惹かれていった。

 

噂の真相」の記事のなかで、筆者の西田健はこのように与那原恵の記事によって齊藤學が1997年に変わり始めた、としている。

しかし長年、患者として齊藤學の近くにいた者として、いずれ詳しく述べることになるだろうが、2001年にも大きな変化があったように思うのである。

さらに、私に「助成金をかき集めてこい」と命じた2008年ごろにも、一つの区切りがあるように思うし、私を麻布村から追い出しにかかった2013年には、近親姦至上主義を露骨に打ち出し、リカバリング・アドバイザー制度を導入するという明らかな変化があった。

 

 

誰しも初めは高邁な理想を抱くものだと思う。

1995年のさいとうクリニック開院の当初、おそらく彼もそうであったことだろう。

ところが、1995年当初の「アダルト・チルドレンを救う新しい精神医療」とでもいうべき理想のもとに始められた齊藤學の治療共同体の経営は、1997年、2001年、2008年、2013年といくつかの段階を経て次第に変容し、結果として当初とはまるきり反対の強権的なカルト王国になっていってしまったのである。

 

 

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海外ひきこもりだった私(30)成人式のない人生

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Photo by PhotoAC

by ぼそっと池井多

 

先日、日本列島は成人の日だったらしい。

私が若い頃は、たしか1月15日が成人の日だったような記憶があるが、きっと何かの加減で早まっているのだろう。

 

しかも、コロナ禍による緊急事態宣言のさなかで迎えた成人の日とあって、さまざまなドラマが生まれたらしい。

曰く、成人式の会場まで行ったけど中止になって混乱した。

曰く、成人式がないのはかわいそうということで晴れ着だけ作ってやった。

曰く、成人式の帰りに例年通りのどんちゃん騒ぎをやって三密状態をつくりだし、公衆の顰蹙を買った。

 

などなど、コロナ禍ならではの成人の日の光景があちこちで繰り広げられたようである。

 

しかし、今年にかぎらず毎年、成人の日のニュースがこのように流れてくると、私はまるで遠い国の祭りの報道でも見ている気分になる。

 

私自身に、成人の日がなかったからである。

 

 

 

 

東京の大学に入り、実家を離れて一人、郊外の小さな市に引っ越して、しばらく経って環境にもすっかり慣れたころに、私は20歳で1月15日を迎えた。

いちおう住んでいる市でも、市が主催する成人式が市民会館のような場所で挙行されたらしく、新成人ということで私にも案内状が来たような覚えはある。

しかし、

「何だこれ?」

と思って、たしかそのまま捨ててしまった。

 

その選択は、褒められたものではないが、今でもうなずけるのである。

 

もともとその市に生まれ育った者ならば、成人式は幼なじみと顔を合わせる同窓会でもあるだろうから、着飾って出ていっても、それなりに楽しみがあるのにちがいない。

けれど、その地に無縁な若者として成人式へ行き、周囲を見回しても誰一人知っている顔がなく、市長か誰かの型通りの訓話を聞いて帰ってきても、いったい私にとって何の意味があっただろうかと思えるのだ。

私の場合、これも褒められたものではないが、もともと酒も煙草も二十歳になる前からやっていたので、成人の日を迎えたからといって、その日から新しく何が始まるわけでもなかった。

 

すでにこのころから、「社会の時間」と「私の時間」は噛み合っていなかったのだ。

私の皮膚の外側を流れる時間と、内側を流れる時間と言い換えてもいい。

 

ただし、以上のようなことを考えて、成人式に行かないことを意識的に選択したのではない。

あとから分析して考えた理由である。

当時はあくまでも、先ほども述べたように、市役所からの案内を、ポストにあまた放り込まれる宣伝郵便物の類といっしょに、何も考えないでゴミ箱へ直行させたのだった。

 

それでは、成人式を迎えたのが19歳になって移住した東京郊外の市でなく、私が小学校時代を送った千葉県の市だったら、あるいは中学高校をすごした名古屋市だったら、はたして成人式へ行ったであろうか。

 

そう考えても、やはり答えは否なのである。

 

生まれて2年で横浜から引っ越したということも、私が根無し草になった大きな原因ではあるが、それでなくても私は、生まれ育った土地に同化しないように育てられた。

そういう家庭であった。

私がしばしば「異教徒の家」と呼ぶのは、そのような次第である。

 

「異教徒」ということは、すなわち「異邦人」であるということで、私が「そとこもり」すなわち海外ひきこもりになっていったことにもつながるのである。

 

 

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治療者と患者(342)麻布村、齊藤學を告発する先行報道はあった。

by ぼそっと池井多

 

私が昨年、共著の『いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり』(日本評論社)に精神科医 齊藤學さいとうさとるとその信者たちから受けた組織的な迫害について書かせていただいたことは、本ブログでも何回か触れてきた。

 

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そのときに、あくまでも「齊藤學」「さいとうクリニック」といった固有名詞は出さず、「塞翁勉」「さいおうクリニック」という仮名で書くように担当編集者から求められた。

 

その理由として告げられたのが、

「麻布村の精神療法被害について先行報道がない以上、そこで実名を挙げて書くことは、記事の実名性だけがその本の話題となり、その他の部分が見向きもされなくなる恐れがある」

ということであった。

 

「そういうものか」

と思って、そのとき私はそれに従って書いたのだが、あとからよく考えてみれば、先行報道はあったのである。

 

 

 

 

ちょうど私が麻布村の住人になったころ、すなわち1999年から2000年にかけて、さいとうクリニック4階の待合室に「人相書き」が貼られていた。

 

「こういう人物が、このクリニックを取材しているようだから、見かけたらスタッフへ通報せよ」

という旨が書かれていた。

 

人相書きを貼りだして「犯人」を捕らえる、というのは、まるで時代劇のようである。

当時は写メといったデバイスも発達していなかったので、そのジャーナリストを見た患者から聞き取って、絵のうまいスタッフが似顔絵を描くしかなかったのだろう。

 

そんな人相書きが貼りだされていたものだから、私も、

「ははあん、誰かジャーナリストが麻布村に潜入して、取材をおこなっているのだな」

と思った。

 

それからまもなく、2000年6月に「噂の真相」に出た記事を読み、

「これであったか」

と知った。

 

読むと、その記事にはさらに先行報道があり、1997年の段階で女性ライターが潜入して、麻布村の取材をおこなっていたとのことであった、

 

20年も経つうちに、そのような先人たちの業績があったことをすっかり忘れていたのだが、先日ある所でその記事を再読する機会に恵まれた。

2000年に出た記事とは、これである。

 

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やや的外れな記述もあるが、2000年の時点ですでに齊藤學の精神医療が金儲けの宗教にすぎないことを見抜いているなど、今の私が読めば、炯眼に脱帽する部分が多く書かれている。

 

ところが当時の私は、麻布村の価値観に自分を合わせなければ、家族から追放された自分は、この世のどこにも拠り所がなくなるような気がして、麻布村に対する批判を無意識にはね返していたのだった。

つまり、これらの文章は読んでも読まなかったのである。

ようするに、洗脳されていたのだ。

 

いま、私が麻布村に関する実態の数々を本ブログに書くとき、麻布村の信者たちは「読まないで、内々で批判する」ということをやっているらしい。

 

「読んで、堂々と批判する」でもなく、

「読んで、内々で批判する」でもなく、

「読まないで、内々で批判する」だというのである。

  

それは、あのころの自分でそうであったから、よくわかる。

  

宗教なので、自分たちに都合の悪い事実は受けつけないのである。

 

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(339)コロナがもたらす分断とつながり

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Globis知見録のウェブページより

by ぼそっと池井多

 

昨年8月14日、本ブログ「やっぱり今日もひきこもる私(294)」で「MBA大学院での登壇を依頼されて」という記事を書かせていただいた。

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グロービス大学院という、日本でアメリカの経営学修士号が取得できる学校からの依頼による登壇だった。

 

「働いてない」私が、「働いている」社会のトップに立とうとする方々のために、いったい何が言えるであろうか。……

恐々懼々としながらご依頼を受けたのだが、蓋を開けてみれば、他の登壇者の方々の語ることは、ふだん私がひきこもり関連のイベントでお話しすることと地続きで、違和感なくオンライン・シンポジウムに参加することができた。

 

先日、そのときの記録がウェブページにまとまったとお知らせを受けたので、本ブログでも紹介させていただく。

 

globis.jp

 

 主軸に据えられたのは

コロナがもたらしたものは分断つながりか」

というテーマであった。

しかし、そもそも「分断」と「つながり」は二項対立で考えられるものではない、ということを私は初めに申し上げた。

あるところで分断しつつ、他のところではつながるというように、「分断」と「つながり」は同時並行的に起こりながら、世界は変化していくものだと考えられる。

 

「分断」というと、今はほとんど悪の記号である。

まず思い起こされるのは、おとといも議事堂に暴徒が乱入して死者が出たなどと報じられているアメリカ社会の分断である。

人種間の分断から始まって、今はトランプ支持者とバイデン支持者の層にアメリカ国民が分断されているように報道されている。

 

そういう文脈で語られる「分断」を、たとえばコロナ感染拡大防止のために東京で「人と人のつながりを断つ」という場面にそのまま使えるだろうか。

私はそうは思わない。

また、自律的にひきこもっている者が、

「自分は社会から分断されている」

などといえば、それはいささか被害妄想的な言い方になっているとの誹りを免れない。

 

かたや「つながり」というと、それだけで何か心温まるもの、善の記号として聞こえる。

しかし、たとえば私のようなうつでひきこもりの者は、いかに自分の住んでいる地域の人との「つながり」を嫌っていることだろうか。

 

どうも  detachment (離れること)と attachment (くっつくこと)という二つのベクトルを「分断」と「つながり」という語に象徴させてしまいがちだが、必ずしも前者が悪で、後者が善であるというわけではないのである。

 

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(338)ふたたび緊急事態宣言が出て

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by ぼそっと池井多

 

私は東京に住んでいるので、どうしても東京都の感染者数を基準に新型コロナの状況を認識するのだが、その数字も昨日は1500人を軽く超え、政府も緊急事態宣言の発出となった。

 

明後日すなわち1月9日(土)に、チームぼそっとでは第21回「ひ老会」を開く予定である。

 

第1回目の緊急事態宣言のときは、「ひ老会」もリアル開催をあきらめ、急遽オンラインでの開催に変更した。

しかし、今回の緊急事態宣言は、飲食店の時間短縮が主な狙いであり、劇場も学校も閉鎖されないという。

「ひ老会」のような静かな語らいの場は、開催したところで感染拡大や医療現場の逼迫を推し進めてしまうことにはならないだろうと考える。

だから、予定通り開催することにする。

 

 

 

 

東京に第3波が来る前、ちょうど北海道で第3波が始まっていたころ、私は札幌にいて、以下のような記事を書かせていただいた。

 

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本場、札幌ラーメンの店でマスクをつけない女の客に顰蹙ひんしゅくした、という内容の記事である。

すると、あのときはヤマさんというコメンターから、たちまち以下のようなコメントをいただいたのであった。

 

ヤマ

世界医師連盟が、


「新型コロナは組織的に捏造された詐欺」
「このデマの背後にいる全ての犯罪者に対して訴訟を起こす」
「5Gはその一端」


として裁判起訴した


又国際弁護士ネットワークもコロナは詐欺として提訴した 
ベルギー保健専門家もコロナ詐欺調査をWHO に依頼した
CDC も新型コロナウィルスの存在を否定した


という記事を見ました。


だから、もしこれらの裁判が勝訴すれば関わった人が賠償責任等問われる可能性があります。


どれくらいの刑量になるかは、関わった度合いによってそれぞれ違ってくると思います。


ぼそっとさんの場合は、一般人とは違いGHO (世界ひきこもり機構)やヒキポス、テレビ・新聞・雑誌、講演など影響力が強い立場にいるので、もしかしたら一般人よりは刑量が重くなる可能性があります。

(改行・太字などは編集者による)

 

 

文中、「刑量」とはおそらく「量刑」のことだと思われる。

 

私のような一介の無職のひきこもりが「影響力が強い」とは思わないが、ヤマさんのおっしゃりたいことはようするに、私がその記事において、マスクをつけない客に眉をひそめたと書いたものだから、私が逮捕されて刑務所へ行くことになると警告するということだろう。

 

あるいは、それを読んで私が不安に駆られ、アタフタし、たちまちその記事を削除でもすることを目指したのかもしれない。

 

このようなコメントを一笑に付すことはたやすいが、しかし考えてみると、新型コロナは目に見えない脅威であるから、

 

世界医師連盟が、
「新型コロナは組織的に捏造された詐欺」
「このデマの背後にいる全ての犯罪者に対して訴訟を起こす」
「5Gはその一端」
として裁判起訴した
又国際弁護士ネットワークもコロナは詐欺として提訴した 
ベルギー保健専門家もコロナ詐欺調査をWHO に依頼した
CDC も新型コロナウィルスの存在を否定した

 

といった荒唐無稽な叙述も、まったく可能性のないこととして即時に除外することは躊躇われる状況に、昨年来の私たちは生きているのではないか。

 

しかし、一読してそれをデマだと感じられるのは、いわゆる「直感」といわれる、経験則にもとづく無意識的な思考によるものだろう。

ところが、新型コロナのように、全世界が会食はいけない、握手もしてはいけない、といった奇妙な状況を、これまで私たちは「経験」したことがないものだから、そもそも経験則にもとづく無意識的な思考が作動しなくなる瞬間があるのだ。

「いやいや、まさかとは思うけど、今回ばかりはわからないぞ」

といった瞬間である。

そこを狙って、多くのデマゴーグが量産されるのだ。

 

 

 

 

「人を不安に陥れる」という行為は、人より優位に立つために有効な手段の一つである。

精神科医 齊藤學さいとうさとるのような輩は、

 

「私にはあなたの人生が見えている。

 あなたはいずれこのように悲惨な人生になります」

 

と、病気でもない者を不安がらせ、患者として自分のクリニックへ永続的に通院するように手なづける。

 

「この壺を買えば、あなたは救われます」

という新興宗教の「壺」の部分が「通院」というかたちのお布施に変わっただけの話である。

 

しかし、齊藤學にせよ、新興宗教の教祖にせよ、人の不安を「お金」というかたちで自らの優位を担保するものへ変換するには、教団という組織が必要となる。

 

この組織をつくるだけの能力がない場合は、たんに他者が不安に陥って、オロオロ、アタフタとするのを見て楽しむのに留まるのである。

 

私はヤマさんには、以下のようにお返事しておいた。

 

ぼそっと池井多

北海道のコロナのことを書いて、
私に「刑量」が下るならば、
私はよろこんでそれを受けましょう。

 

 

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貧困と人づきあい(99)ひきこもりは資本主義がすべて悪いのか ~ ヤン・タンキアンとの対話

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Illustration by PhotoAC

by ぼそっと池井多

 

GHO(世界ひきこもり機構)に参加しているヤン・タンキアンさんは、国籍不明のひきこもりである。

どこに住んでいるのかもわからない。

名前からすると、どうもオランダ人っぽいが、海外のひきこもりの多くがネット上では日本語の名前を名乗っていることからもわかるように、名前がその人の国をあらわすとは限らない。

 

写真を拝見するかぎり、ヨーロッパ人の若者のようである。

もっとも、どこの国の人であろうとも、ひきこもりであることにはあまり関係がないのだが。

 

彼との会話は、本ブログにも掲載した「やっぱり今日もひきこもる私(337)」にも書いた、以下の部分を私がGHOのページにも英訳して載せたことから始まった。

 

 ぼそっと池井多

以前は、冷蔵庫の中が空に近くなっているのを見ると、どことなく罪悪感をおぼえたものだ。


誰に対して? わからない。


なぜ罪悪感? やはり「働いていない」という事実から来る感覚だったのだろう。
しかし今年は、空の冷蔵庫を見ても罪悪感は湧いてこない。

 

それを見て、反応したのがヤン・タンキアンであった。

 

ヤン・タンキアン

あんたは働かないことで誰に借りを作っているわけでもない。

 

あんたが働きたいときにだけ、働けばいいのさ。

 

働くっていうのは、そういうことだ。

 

働くってことをするかしないかは、あんたの気持ち一つでいいはずだ。

 

なるほど。

そう言ってもらえるのは、ひきこもりにとって心強いことである。

しかし、それですべて済んでいれば、事は簡単なのだ。

 

働くことを強制してくる社会は、私だって御免こうむりたいわけだが、ここまで「働く」ということをバッサリと斬って捨てられたら、そもそもひきこもりの悩みの大半は解決しているのではないか。

 

どうも、彼の楽観主義が引っかかったので、こうお返事してみた。


ぼそっと池井多

「働いていない」ということから罪悪感を抱くとき、

たしかに「働いていない」ことで

特定の誰かに借りを作っているわけではないかもしれないが、

あなたが生きていくために、

あなた以外の人が働かなくてはならないという状態から

あなたは借りがあるような気持ちになることが

あるのではないだろうか。 

 

ヤン・タンキアン

いいや、ぜんぜん。

 

みんな、資本主義が悪いんだよ。

 

もし人々が自分の家を所有しないで、

食べ物が獲れる森や野原も所有しなかったら、

誰もがそこで自分が食べていくぶんの食べ物を収穫できる。

 

人は誰でも狩猟や農耕ができるはずだ。

 

でも、今の社会では、

森も野原も誰かによって所有されているから、

人はそこで勝手に食べ物を得るわけにいかない。

そうなると、人は資本主義社会で食べ物を得るためにクソみたいな仕事をして金を稼がなければならないのさ。

 

ぼそっと池井多

狩猟や農耕ができないひきこもりはどうする?


ヤン

狩猟や農耕ではない、何か別のことをやればいい。

 

たとえば、子どもたちを見ているとか、

何かを拾って採集するとか。

 

ぼそっと池井多

もし、子どもたちを見ていることも、

何かを拾って採集することも

すべて面倒に感じられてやりたくなくて、

ただ洞穴の中で独りひきこもっていたかったらどうする?

 

ヤン

腹が減るまで、

洞穴の中でひきこもっていることを楽しめばいい。

 

ぼそっと 池井多

腹が減ってからあとも、まだいっこうに

子どもたちを見ていることも、

何かを拾って採集することも、

やりたくなかったら、どうする?

 

大多数のひきこもりは、この状態なのだと思う。

 

ヤン

そうしたら、洞穴を出て、

視界に入った最初の生物を殺して喰って、

腹を満たせばいい。

 

 ぼそっと池井多

話を聞いていると、

どうやらあなたが語っているのは、

自給自足のための方法論だと思う。

 

たしかに、もし完全に自給自足で生きていけるのなら、

働こうが休もうが自分の勝手であり、

「働かない」ということからくる

罪悪感も存在しないかもしれない。

 

しかし、自給自足だったら、

資本主義社会の現代においても

すでに可能なのではないか。

わざわざ旧石器時代みたいな状況設定を

考えなくてもよいのではないか。

 

はたして資本主義がひきこもりを生み出す

諸悪の根源なのだろうか。

 

そして、何よりもまず、

私自身をふくめて、

いま生きているひきこもり当事者のほとんどは、

自給自足で生きていくだけの強さがないのだよ。

 

だから、誰か他の人が生産する富に頼って

生きていかなくてはならない。

すると、その状態が罪悪感をもたらすようになるのだ。

 

この罪悪感をどうする、っていう話なんだけど。

 

 ヤン

おれの言っていることは、

「人間というのは自然の中で生きるのが一番いい」

ってことだ。

しかし、資本主義がそういう機会をおれたちから取り上げてしまった。

資本主義はおれたちに過酷な労働環境やルールをもたらした。

 

そのルールで得をしている連中もいるかもしれないが、

おれたち全員がそのルールを受け容れられるわけじゃないってことだ。

 

それが、「働く」ということとおれが格闘している理由だ。

 

もし政府が人々の生きていく金を作り出していくようになれば、みんなお金と健康保険には簡単にアクセスできるようになる。

そうやって政府は人々をケアしなければならないはずだ。

 

 

どうも話が喰い違ってきた。


ぼそっと 池井多

あなたのモデルでいうと、

政府の作りだすお金は、誰が労力を注いで稼ぎ出すものなのか。

  

私が語っているのは、

ひきこもりと、ひきこもりが抱きやすい罪悪感の問題です。

 

そして、資本主義を標榜していない北朝鮮でも、ひきこもりがいるということを私は知っている。

 

 

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治療者と患者(341 )原点に立ち返る

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by ぼそっと池井多

 

近年の本ブログは、「ひきこもり」という当事者性に軸足を据えて、いろいろな問題を考える場となっている。

しかし、もともと2013年に開設した当初は、同じ「当事者性」に軸足を置くにしても、それは「ひきこもり」よりもむしろ「精神医療の患者」という立場であった。

それも「麻布村」と私が呼んでいる、特定の精神医療の場における患者という立場である。

 

麻布村とは、本ブログをご愛読いただいている方々にはすでにおなじみかと思うが、精神科医 齊藤學さいとうさとるが運営する治療共同体である。

 

齊藤學は、「アダルト・チルドレン(AC)」という概念を日本に導入したことによって1990年代の日本で有名になり、精神医学界の権威となった。

多くの関係者やメディアは、そのいかがわしさをうすうす感知しながらも、いまだに大御所として君臨する齊藤學の権威を恐れている。

 

しかし、ほとんどの人は、1990年代に彼が社会へ発信したことに基づいて彼の評価をおこなっているのに過ぎず、じっさいに彼自身が運営する治療共同体のなかで何がおこなわれているのかは、まったくといってよいほど知らない。

そこでは、多くの患者が、とうてい治療的とは言いがたいひどい方法で人格を貶められ、ときには自死へ追いやられている。

 

ここで「医療機関」と書かないで「治療共同体」と書く理由は、彼はいざというとき医師としての責任が問われないように、患者たちの行動の舞台をさいとうクリニックという医療機関にかぎることなく、患者たちに命じて作らせたNPO法人JUST麻布コレクティブさだちゃんのしっぽといった、いっけん医療機関とは関係なさそうに見える場に拡散させているからである。

 

これらの機関は、表向きには、いかにも患者たちが主体的に自分たちで運営しているように演出されているが、すべては頂点に君臨する齊藤學からの上意下達で動いている。

 

齊藤學は、自分が引退なり病没なりしたあとも、自らの意思を継いでこれらの患者たちがNPO法人JUSTや麻布コレクティブといった機関を運営していってくれると考えているようだが、まさにそこに齊藤學という精神科医の「人間が見えていない」という特性が如実に出ているといわなくてはならない。

 

齊藤學はよく、

「私はこれだけ多くの患者を診てきたのだ。

 だから、人間が見えている

という。

 

これを予言者めいた、低くたゆたう声でいうのである。

すると、それを聞いて、多くの患者はハハーッとひれ伏してしまう。

これこそが催眠であり洗脳である斎藤療法の真骨頂である。

 

人間は誰しも不安を抱えているものだから、こう言われると、

 

「自分も見られているのか。

自分が知らない、自分の心の奥底まで、この先生は見えているのか」

 

などという気になってしまうのである。

 

それで、齊藤學のいうことなら何でも信じる奴隷になっていく。

これを精神医学の用語によって「治療転移を起こした患者」と表現できる。

しかし治療転移とは、本来そういうことではないはずだ。

 

 

実際は、齊藤學ほど精神科医のくせに人間が見えてない者もめずらしい。

たしかに1990年代の名声を聞いて集まってきた、多くの患者を彼は診てきたかもしれないが、それらの経験が何ら彼の人間を見る目を培ってこなかったのである。

 

なぜか。

それは、患者がやってきても患者の話をまともに聞かず、一方的に自分のくだらないヨタ話ばかりしているからである。

 

たとえば私は、延べ15年近く、私の問題を彼の診察室で語ってきたが、結果的に齊藤學は何一つ理解していないということがわかっただけであった。

 

 

 

 

ひきこもりは多様であり、それぞれ異なる事例を生きている。

私というひきこもりの事例の特異性は、自分がなぜひきこもりになったかという理由がわかり、そこから抜け出そうとしたところで、齊藤學というとんでもない精神科医に足元をすくわれて、社会から隔離され、ひきこもりが遷延化してしまったというところにある。

そのため、「ひきこもりと精神医療」というテーマがずっと私の活動の通底音に響いている。

 

そうした事情があって、どうしても私は本ブログにかぎらず、私自身が書くものや講演させていただく場において、精神医療に対する言及が多くなるのだが、ひきこもり界隈の人々のなかには、それを違和感をもって受け取る方もいるだろう。

とくに、「ひきこもりは精神医療の対象ではない」と考える方はそうかもしれない。

もちろん、ひきこもりは精神医療で「治す」ものではないと私も考えるが、それとはちがう平面のことを語っているのである。

 

 

違和感といえば、私が昨年、「いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり」というムック本の執筆陣に加えていただいた時もそうであった。

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私はひきこもりという現象を真正面から書かず、この麻布村に触れて「ひきこもりと精神医療」の問題を書かせていただいたのだが、

「あれは、あそこに書く内容か?

 ひきこもりと関係ないじゃない」

という反応をよくお聞きしたものだ。

 

しかし、私に言わせれば関係アリもアリも大アリで、あれは50代にもなってひきこもりである私が持つ二つの原点のうちの一つなのである。

 

私はひきこもりの「社会復帰」という言い方を好まず、ひきこもりと社会の「再統合」と言いたいのだが、「復帰」と言おうと「再統合」と言おうと、ひきこもりがその人なりの方法で社会との「つながり」を取り戻したり、築いたりすることは、なかなかに意味のあることだと思っている。

あえて「社会復帰」という言葉で語れば、30代にして4年間のガチこもりを経験した私は、1999年に「社会復帰」のために齊藤學の精神医療につながったのだった。

 

ところが、齊藤學のやっていることは、やってくる病人を治して社会に復帰させることではなかった。

病人をもっと病人にし、あるいは健康人を病人であると思いこませ、彼の統治する麻布村という王国の奥深くへ取りこみ、社会から隔離することだったのである。

 

そんなことが白昼堂々、現在日本の近代社会の中で行われ続けていて、しかも社会から認められているというのは、いったいどうしたことであろうか。

私は今後とも、この問題について考えていきたいと思っている。

 

 

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