VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(370)第10回「ひきこもり親子公開対論」『ひきこもりとゲーム依存』を終えて

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by ぼそっと池井多

 

前回「やっぱり今日もひきこもる私(368)」でご案内したように、4月17日には横浜ばらの会さんの主催で第10回「ひきこもり親子公開対論」をオンライン開催させていただいた。

本ブログの読者からも多くの方々にご参加いただき、どうもありがとうございました。

 

ひきこもりとゲーム依存

というテーマで、親の立場、子の立場から、それぞれご登壇いただいたわけだが、まず「ゲーム依存」という問題が起こる背景に、時代や世代を考えないわけにはいかない。

 

生活から逃避するための手段というものは、昔からあった。それも、有史以前どころか、きっと人類が誕生する以前から、つねにあったのにちがいない。

なぜならば、「食べる」「寝る」「生殖する」といった生存に必要な行為以外のこと、たとえば「じゃれる」とか「遊ぶ」とかいったことは、動物でもやっているからである。

人類が出現し、貨幣経済になってまもなく、そこにお金を賭ける、いわゆる賭け事が出てきただろうし、それに持ち金すべてをつぎこんでしまい、生活がままならなくなった人々も必ずやいたのにちがいない。

ところが、依存の対象がデジタルな画面の中へ閉じ込められていったのは、私たちの世代ぐらいからではないだろうか。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Space_Invaders.JPG/800px-Space_Invaders.JPG

インベーダーゲーム

photo by Tomomarusan

私は1962年生まれなので、高校生のときインベーダーゲームが出現した。現在のオンラインゲームの祖先のような代物である。

同級生の中には、インベーダーゲームのスコアの新記録の保持者と自称している者がいて、彼は学校をさぼって朝から晩までインベーダーゲームをやっていた。

まさに今のゲーム依存の人たちが、ゲームをやるような時間の長さである。

しかし、インベーダーゲームは自宅ではなく、ゲームセンターでやるものだから、依存するにしても外出はしなければならない。

そのために、インベーダーゲームでひきこもりになるということはなかった。

 

コンピューター技術が発達して、当時のゲームセンターに置いてあった機械でやるよりはるかに複雑なゲームが、いまは自分の部屋にいながらにしてできるようになった。

そうなれば、没頭する人たちは必然的に出かけなくなる。

そういった時代性が、「ひきこもりとゲーム依存」という問題を生んでいる側面もある。

しかし、だからといって、インターネットやゲームの発達がひきこもりを「生んだ」と考えるのは誤りである。

私自身はインターネットのない時代からひきこもりだったし、いまだに自分の部屋でゲームはやったことがない。

 

 

 

 

子ども当事者の立場から登壇してくれた喜久井ヤシンさんも、ゲーム依存のためにひきこもりになったわけではなかった。

彼の場合、まず素地として、小学校2年生から始まった不登校があった。

すると、外を出歩いていても、友達と遊んでいても、

「学校も行っていないのに、そんなことしているの」

と言われてしまう。

だから、結果的に外へ出られず、ひきこもりになるしかなかった。

家の中でできることといえば限られてくる。

こうしてゲームにのめりこんでいったのだという。

 

親としては、

「あんた何やってるの。ゲームばかりやって」

という言葉が出てくる。

しかし、喜久井ヤシンさんは、

「過干渉は、親が子を過小評価しているために出てくる」

という。

子が自分で考えることができないだろう、自分のなすべきことがわからないだろう、と親が勝手に考えるから、親が子に過干渉するというのである。

 

ヤシンさんの場合も、私の場合も、過干渉してきたのは母親であった。

私の父親は、母親の言うなりで奴隷のようにふるまっていたから、母親が「殴れ」と命じれば、何も考えずに私を殴った。

その点、ヤシンさんの父親はまったく干渉してくることはなく、ただの同居人という感じの存在だったという。

 

「父の中に父が居ない」

「不在の父」

と私は書いたことがあるが、そういう点では私の家と共通していたかもしれない。

 

日本の家庭で「不在の父」現象が起こる理由について、ヤシンさんは、

「日本では労働の価値が異様に高いから」

であると語る。

すなわち、父親は仕事があるからといえば、帰りがおそくても、休日に出勤しても、それは許されたし認められた。

すると、「家庭から仕事に逃避する」ということが可能になる。

子どものゲームも生活からの「逃避」なのだが、こちらの「逃避」はダメだとされて、大人の仕事は同じ「逃避」でも、こちらはOKとされる。

その理由をヤシンさんは、

「日本では労働の価値が異様に高いから」

と解釈するのである。

もっとも、一家の中で誰も労働をしなくなったら、どうやって皆が食べていけるのか、という基本的な問いが出てくるのだが、それを差し引いても日本では勤勉が美徳とされているために「労働の価値が異様に高い」と彼は考える。

 

 

 

 

とてもこの場ですべてをご紹介することはできないが、親御さんの立場からも、たくさんの貴重なお話やご質問をうけたまわった。

私はつねひごろ、本ブログであったり、「ひ老会」といった場において、他の当事者の皆さまと深い意見交換をさせていただいているが、親御さんの立場の方と突っこんだ議論ができるのは、やはりこの「ひきこもり親子公開対論」という場になってくる。

何よりも私自身がこういう場を求めている、ということを改めて自覚させてくれるような、非常に充実した時間であった。

 

 

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 喜久井ヤシンさんの記事

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やっぱり今日もひきこもる私(369)本日の「公開対論」参加ハードルが上がった理由

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ハードル Photo by Interactive Sports

by ぼそっと池井多

 

一昨日、「やっぱり今日もひきこもる私(368)」でお知らせしたように、本日はオンラインで第10回「ひきこもり親子公開対論」に登壇させていただく。

 

「今回は申込みのためのハードルを上げているのではないか」

というお問い合わせを複数件いただいた。

 

はい、さようでございます。

申し訳ございません。

 

たしかに、その場で飛び入りはダメで、お申込みに際しては、お名前や電話番号などもうかがうことになっており、「ハードルが上がった」と言われても仕方がない。

その理由について少しご説明させていただきたい。

 

 

 

 

「ひきこもり親子公開対論」は、ふつうのイベントとちがって、主催者が毎回変わるという柔軟性を、もともとのコンセプトに持たせたイベントである。

たとえば、私たちチームぼそっとで開催しているものでいえば、「ひ老会」はいつも私たちが主催する。

しかし、「ひきこもり親子公開対論」は、私たちが中味(コンテンツ)をプロデュースさせていただくものの、主催は私たちでないことが多い。

それではどこが主催するかというと、各地の親の会、家族会である。

今回は横浜ばらの会さんがそれにあたる。

 

主催者は、運営に関するルールを設定する権利がある。

今回の「名前・メールアドレス・電話番号を登録」といったルールは、横浜ばらの会さんのご意向である。

 

一ヵ月前、同じく横浜ばらの会さんで講演をさせていただいたときには、同会の会員ではない方で、私のつたない話を聞きに来てくださった方々がいたのだが、その何人かは事前の申込みもなく、いきなりハンドルネーム(当事者名)で入ってこられたため、同会の会員さんたちに少なからず不安感をもたらしてしまったようである。

その反省から、今回はそのようなことが起こらないようにしたのだと思う。

 

当事者会は、本名で参加しなくてもよいところが多い。

私どもが主催する「ひ老会」も、ほとんどの方が当事者名で参加されており、管理者である私も本名を存じ上げない方が多い。

私どもの主催ではないが、庵-IORI- もそうである。

しかし、親の会、家族会というところは、みなさん会員やメンバーはたいてい本名で参加されており、それがZoomの画面の「表札」にも表示される。

 

いわば、親の会、家族会というのは、「市民団体」なのであって、お互い氏名や電話番号など知り合ったうえで、市民同士の大人のおつきあいをしていらっしゃるわけである。

 

そこへ、たとえば「○○ちゃん」といった風の、子どものあだ名のような当事者名をZoomの表札に掲げただけの未知なる外部者が入ってくると、主催者の会員の方々は、自分たちだけ本名という個人情報を取られていくような不安をおぼえる。

ここに、同じひきこもりという問題を介して集まっている団体だとしても、親御さんたちと子ども当事者たちとでは、微妙に文化差があるのだ。

 

ということで、今回上がったハードルは、主催者の方々の安心安全のためのものであると、なにとぞご理解いただければ幸いである。

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(368)明後日、第10回「ひきこもり親子公開対論」横浜篇オンライン開催 ~ひきこもりとゲーム依存~

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Photo by Unsplash

by ぼそっと池井多

 

3月20日に「やっぱり今日もひきこもる私(360)」でもお知らせしたように、4月17日に第10回「ひきこもり親子公開対論」横浜篇をオンライン開催させていただく。

 

地球上どこからでも、インターネット環境があるかぎり参加していただけるオンライン開催なので、「横浜篇」と地名を打ち出すのはあまり意味がないのだが、やはり今回の主催である横浜ばらの会さんに敬意を表して、明記させていただく。

 

ひきこもりといっても、その実態はじつに多様であるため、「ひきこもり親子公開対論」ではテーマを設けることが多い。

そして今回は、

 

ひきこもりゲーム依存

 

というテーマを設定させていただいている。

だからといって、ひきこもりとゲーム依存の話しかできないというわけではない。

あくまでも軸足はそこに置く、ということにすぎない。

 

息子さんがゲーム依存でひきこもりになったお母さまが親の立場から、それから自身がゲーム依存でひきこもっていた当事者が子の立場からそれぞれ登壇し、双方の言い分を語っていただく。

 

ゲーム依存といえば、「WHOが国際的に病気として認定した」ということで有名になっているようだが、この点について少し補足させていただく。

たしかにWHO(世界保健機構)は、国際疾病分類の最新版「ICD-11」で Gaming Disorder という診断名(病名)を採用した。

ICD-11は来年、2022年から日本の医療現場で有効になるはずである。

 

Gaming Disorder は日本語で「ゲーム障害」(厚生労働省)あるいは「ゲーム症」と訳されている。

この通称が「ゲーム依存症」ということになる。

ウィキペディアなどでは、一部 Gaming Disorder が「ゲーム依存」であるかのように書かれている箇所があるが、正確にいえばこれはまちがっている。

ようするに、「ゲーム依存」と「ゲーム依存症」のちがいがそこにあるのだ。

 

ゲーム依存 (Gaming Dependence)」とは、読んで字のごとくゲームに依存している状態であり、ゲーム好きな人の多くがときどきなるものである。病気ではない

ゲーム依存症 (Gaming Addiction)」は、ゲーム依存が高じて病気になったものであり、ゲームをやるために日常生活を犠牲にするような状態が12ヵ月以上つづく場合に診断される。

 

それで、今回扱うのは上の「ゲーム依存」である。

私自身、精神科の一患者にすぎないし、ゲーム依存症という精神疾患を病理的にあつかうことなどできない。

 

しかし、そうはいうものの、「ゲーム依存症」と「ゲーム依存」の境目にそんなに神経質になることもまた、現実的に意味がないように思う。

それはちょうど、ひきこもりの定義にこだわるあまり、ひきこもっている状態が3ヵ月に1日足りないからひきこもりではない、などと考えることにあまり意味がないのと同じである。

ゲームをやりたいから日常生活がおろそかになっているが、それはまだ11ヵ月しか続いていないから自分はゲーム依存症ではない、などという思考とは別の次元での話となるだろう。

すなわち、なぜ人はひきこもってゲームばかりしてしまうのか。

そして、そのことを親はどう考え、子はどう思っているのか。

そういう話になることが予想される。

 

向かう先が「依存」であろうと「依存症」であろうと、それらへ向けて駆り立てられる原因には共通しているものがある。

そして、それはたとえ嗜癖する行動のかたちが「ゲーム」でなくても、そうである。

たとえば、私なども陥っている「インターネット依存」なども入るだろう。

私自身、親と子、双方のお立場のゲーム問題当事者から、ひきこもりとゲーム依存のお話をうかがえるのを楽しみにしている。

なお、ゲームに依存した子ども当事者の立場からは、ひきポスのレギュラー・ライターとして1000文字小説などを幅広く手がけ、2019年度ひきこもり文学大賞入賞の「僕は産まれてから堕ろされた」の作者である喜久井ヤシンさんが登場する。

 

明日まで受け付けているようなので、ご関心のある方はぜひご参加ください。

 

第10回  ひきこもり親子 公開対論

横浜篇

特集「ひきこもりとゲーム依存

 

4月17日(土)

開始:初めての方 13:10~(接続確認)

   二回目以降の方 13:20

終了:16:00 (予定)

 

◆ オンライン開催

開催前日にZoom 招待メールを、お申込み時にいただいた参加アドレスにお送りします。

◆  事前申込み制当日参加はできません

 

申込み先:横浜ばらの会 

yokohama.bara@gmail.com 

090-5993-6340(大竹)

申込み時には以下のことをお知らせください。

① お名前 

② お立場(親・当事者・経験者・支援者など、あるいは所属家族会名)

③ お住まい(市区町村まで) 

④ 連絡先電話番号

⑤ Zoom参加アドレス

 

参加費: 1家族につき(何人でも)1500円 当事者無料

(お申込み時に振込口座をお知らせします。)

主催:横浜ばらの会 共催:VOSOT

 

ご注意

・ 申し込み名と、当日のZoom入室名が一致しないと、入室の許可はできません。

・ Zoom招待URLの拡散を禁止します。

・ 初めて参加の方は、開始前に接続確認をしますので、13:10までに必ず入室しご対応下さい。

・ 活発な議論は大歓迎ですが、あまりに態度が無茶苦茶な方は、スタッフの判断により退場していただく場合があります。

 

 

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◆ 横浜ばらの会

yokohama-bara.com

 

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外国のうつ・ひきこもり事情(157)ひきこもったことを後悔している?

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Photo by Lucian Andrei

by ぼそっと池井多

 

外国人を差別する意図はまったくないけれど、どうも海外のメディアには、良くも悪くも日本のメディアにはない傾向があるということは言わなくてはならない。

一つの傾向として、投げかけてくる質問が、海外のメディアは大きく抽象的であり、日本のメディアは小さく具体的である、ということがある。

 

以前、ロシアからテレビクルーが来たときには、女性レポーターがその碧い瞳でじっと私を見つめ、

「あなたはいま不幸ですか」

などと訊いてきたものだ(*1)。

 

*1. 「外国のうつ・ひきこもり事情(143)」

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「いえいえ、あなたのようなロシア美人にじっと見つめられて、いま私は幸福です」

などと答えようものなら、「まじめにやれ」と殴られる(*2)かもしれないし、セクハラとして訴えられたかもしれない。

だからといって「はい、私は不幸です」などとヌケヌケ答えるほど、私はお涙ちょうだい型ナルシスティックな人間でもない。

だいぶ答えに窮した。

 

たしかあのときは、

「不幸であるともいえるし、不幸でないともいえる。

不幸とは、どの視点から眺めるかによって変わってくるものでしょう」

というような答え方をした。

けれど、理解された手ごたえはなかった。

 

*2. 「まじめにやれ」と殴られる

規制がやかましくなって昨今はテレビでも見なくなったが、昭和の昔、ドリフターズコント55号が全盛の時代には、ボケ役が何かボケると、ツッコミ役が「まじめにやれ!」と頭を殴るのがお笑いの定型の一つであった。

 

 

 

 

つい先日も、また似た体験をした。

あるフランスのメディアからオンラインで取材を受けたのだが、

「あなたは人生を後悔していますか」

と訊いてきた。

 

その女性記者が言わんとするのは、インタビューの流れからするとこんなことである。

「ひきこもりなんかになってしまって、さぞかしあなたは残念でしょう。

本来だったら、もっとあなたの能力を開花させた、もっと社会的に成功した人生を送れた、と考えているのではないですか」

 

こうした質問の根底には、

「ひきこもりは人生の失敗」

「ひきこもりは社会の敗者」

という前提がまざまざと透けて見える。

 

そういう前提がムカつくから、

「いいえ、後悔なんかしていません」

と答えてやりたいところだが、それもまた反発の勢いで自分の真情から離れてしまうような気がした。

 

そこで、ふと「後悔とは何だろう」と考えたのであった。

 

私の場合、もし齊藤學などというインチキ精神科医に出会わなければ、人が働き盛りと呼び、知力も体力も旺盛である40代を、もっと有効に活用できたかもしれない。

そのように考えれば、そこに後悔がある。

というか、そのように考えることによって、そこに後悔が発生するのである。

 

もっと遡れば、もし私があのような母親を持たなければ、中年期に入って精神医療にかかる必要はなかったのではないか。

 

そもそも、もしあのような母親を持たなければ、

「どんな分野であろうも、社会的にいっぱしの何者かになってしまえば、それは虐待した母親を追認することになる」

というパラドックスが私の人生に埋め込まれることがなかったから、私はひきこもりになることなどなく、そのまま順調にまともに働く人になっていたのではないか。

なぜならば、何も葛藤や苦悩がないのなら、周囲と同じくまともに働く人になってしまった方が社会的にも居心地がよく、生きやすいからだ。

 

そのように考えていくと、

「私にとって、後悔とはあのような母親を持ってしまったことである」

と言いたくなる。

ところが、私はあの母親から生まれてきたのであって、あの母親から生まれなかった私という存在は想定できないのである。

もし父親がほかの女性と結婚して、同じく長男が生まれても、体細胞を構成するDNAが異なる以上、その長男は私ではない。

それは私の「もう一つありえた人生」とは呼べないのである。

 

もしそうであるならば、私が私としてこの世に誕生するということは、すなわち私が母親に人生のパラドックスを体内に埋め込まれ、そのためにひきこもりになるということであって、現在のような50代になることは、生まれたときから決まっていたと言えるのではないか。

哲学でいう、因果的決定論というやつだ。

 

いっぽう、後悔とはもう一つ選べたかもしれない別の選択肢が考えられるときにのみ、存在するものである。

「あのとき、ああしていれば」

というのが後悔のかたちだ。

「ああして」という部分がなければ、後悔も成り立たない。

しかし、生まれたときから現在のようなひきこもり人生になることが決まっていたとすると、「ああして」おけばよかったという別の選択肢が成り立たないから、後悔も存在しないはずである。

 

だから、私は後悔していないはずだ。

 

 

 

 

野球選手だったイチローは引退会見のときに、

「現役時代をふりかえって、何かもっとこうしておけばよかったという後悔がありますか」

と記者に訊かれて、

「後悔など、あろうはずがありません」

と語気強く即答した。

 

「あろうはずがない」

という言葉は、客観の響きがあり、主観によって「ない」と答えるのとはちがう。

 

つまりイチローは、

「自分はあとで後悔するのがいやだったから、現役時代のどの日どの瞬間においても、つねに『これ以上はできない』という全力を尽くしてきた。

未来の自分に後悔することを禁じながら、一試合一試合をプレイしてきた。

後悔は主観の産物だから、いまの自分は後悔を感じないようにしている」

と言っているのに等しいのではないか。

 

つまり、引退時のイチローは、「いまの自分」よりも、未来の自分に後悔するのを禁止した「過去の自分」に忠実であろうとしているのだ。

 

これはイチローのように、特殊な才能に恵まれた人だけにあてはまることなのだろうか。

私は必ずしもそうは思わない。

 

ひきこもりというのは、たくさんの葛藤をかかえ、いろいろと逡巡し、一見すると将来に後悔しか残らないような、日々を浪費した人生を送っている、と一般人たちには考えられているきらいがある。

そう思えば、ひきこもり当事者にとっても、自分の人生はそう見える。

しかし、どんなひきこもり当事者であっても、その日その時で、その人なりに必死な選択をおこなって、毎日を過ごしているのではないだろうか。

かりに、その選択が毎日、

「今日はひきこもりから脱しない」

という同じ結論であったとしても、それはその日その時、「これ以上はできない」という必死の選択をしている結果なのである。

それが、外から見れば一向に変化しない「ひきこもり」と呼ばれる状態であるのにすぎない。

私も、そのように生きてきて、現在に至っている。

 

 

 

 

質問してきたフランスの女性記者には、イチローの言葉を借りて、

「後悔など、あろうはずがありません」

と言ってやろうかと思ったが、すると私がまるで初めからひきこもりになりたくて、人生を歩んできたかのように聞こえてしまう。

表層心理としては、ひきこもりはなりたくてなるものではない。

ここで「自分の意志でひきこもりになった」と考えられてしまうと、不本意である。

だから、

「いいえ、私は後悔していません」

と答えるのはまずい。

 

けっきょく、過去にロシア美人のテレビ・レポーターに答えたときと同じような答え方となってしまった。

「後悔しているともいえるし、後悔していないともいえる。

後悔とは、人生のどの層まで下りて過去を振り返るかによって、有無が変わってくるものだと思います」

女性記者は怪訝な顔をして、Zoom画面の向こう側で黙ってしまった。

またしても理解された手ごたえがない。

 

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音楽に掘り起こされる私(5)中島みゆき「狼になりたい」

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photo by きなっぺ

by ぼそっと池井多

 

私が中島みゆきの洗礼を受けたのは、歴史に残る古典となった「時代」でも、ミリオンセラーとなった「わかれうた」によってでもない。

「狼になりたい」という曲であった。

1979年に発売された「親愛なる者へ」というアルバムに入っているらしいが、レコードを買う習慣さえなかった私にとっては、そんなことはどうでもよい。

私が出会ったのはラジオである。

夜10時ごろからFMでやっていた、たしか甲斐よしひろがDJをやっていた音楽番組から偶然に流れてきた。

月並みな表現だが、頭をガーンと殴られるような衝撃を受けた。

 

しかし、いったい何が衝撃なのか、言葉にすることはできなかった。

だから、高校時代の友人にも、私が中島みゆきの「狼になりたい」という曲に惹きこまれていることは、たぶん語ったことがない。

 

こういう曲である。

 


www.youtube.com

 

歌われている舞台は、おそらく午前4時ごろと思われる牛丼の店、吉野家だ。

吉野家は1952(昭和27)年から24時間営業だったのである。

 

ここで中島みゆきも、宣伝料をもらっているわけでもないだろうに、「吉野家」という固有名詞をそのまま歌詞に入れてしまうところが、なんとも大人に感じられた。

のちにライバル企業となる「松屋」や「なか卯」は、当時はまだ揺籃期であり、店舗展開していなかったので、そういうことが可能だったともいえる。

しかしこの曲は、吉野家のためには少しも宣伝にならなかった。

皮肉なことに、この曲が出た直後、吉野家は牛肉の高騰などにより巨額の負債を抱え、いったん倒産することになったのである。

 

そんな世知辛い話はどうでもよい。

歌われている吉野家は、歓楽街にある支店である。

ディスコ帰りか何からしい、若者が入ってきた。

現代日本語でいうと「クラブでオールした」若者がシメでも喰いに来たのだろう。

 

すると、目の前に他の客として、中高年の男が注文を待っている。

そこで若者はいうのである。

 

 向かいの席のオヤジ、見苦しいね。

 独りぼっちで、見苦しいね。

 

私が受けた衝撃は、ここから来ているのであった。

 

まず、そこには素地として、アルバイトもしたことがなく、まったく社会を知らない高校2年生だった私が、なにやら社会の底辺の現実を見せつけられたような、胸のざわつきがあった。

いうなれば、小林多喜二蟹工船』を読むような心持ちで、その歌詞を受け取ったのである。

夜明け前に独り牛丼を喰っている五十がらみの男は、富裕層ではないだろう。底辺の労働者にちがいなかった。

 

それにもまして私が衝撃を受けたのは、そういう五十がらみの男を指して、当時の自分とそんなに年も違わない若者が「見苦しい」と言っている、という事実であった。

しかも「独りぼっち」であることが見苦しいのだという。

 

私にはそういう価値観はなかった。

それだけに、

「へえ、世の中というものは、そう見るものか」

という情報を、私はかぎとった。

 

それと同時に、私は心の底で、独りぼっちで牛丼を掻っ込んでいる五十がらみの男に、あこがれのようなものを抱いたのであった。

しかし、その感情がまさか「あこがれ」であるとは、その時の私にもわからなかった。

 

それから40年余りの歳月が流れて、まさに私自身が、この歌で「見苦しい」と若者たちに嘲けられている「向かいの席の独りぼっちのおやじ」になっているのを見いだして、ある意味で目指すべき到達点にたどりついているような落ち着きをおぼえるのである。

私はめったに外食をすることがないが、たまには近くの駅前にある牛丼屋で夕食を済ませることもある。

そこには吉野家はないので、松屋になる。

また40代のころは、東京・港区麻布十番にあるさいとうクリニックという精神医療機関へ通い、人生をどぶに捨てていたので、そこで埋め込まれた鬱憤を晴らすために、帰りには隣にある六本木で朝までよく飲み明かしていた。

すると、この歌にある通り、夜明けまぎわの吉野家で牛丼を喰うことになるのである。

 

そんなとき、向かいの席に若者が座ると、私は知らず知らずのうちに睨み返していた。

「私のことを『見苦しい』と思うか。

 この齢で、独りぼっちで『見苦しい』と思うか。

 思うなら、存分に思え!」

という目で見返していたのである。

 

なんのことはない、若者に喧嘩を売っているのである。

幸いなことに、そこで喧嘩を買ってくるような愚かな若者は一人もいなかった。

思えば、あんな愚行も、この歌が私の無意識深くしみこんでいる賜物であった。

 

 

 

 

けっきょくこの歌の中で、夜明けまぎわの吉野家でくだを撒いている若者は、自分が社会にしいたげられているものだから、自分よりさらに弱くみじめな立場にある中高年の下級労働者をあざ笑っているのにすぎない。

「自分はけっしてあのようにならないぞ」

と思っているから、あざ笑うのである。

 

「あのようにならない」ということは、すなわち、そこそこの職業と収入をもって、まがりなりにも結婚して家庭をもって、子どもたちを育てて、プチ・ブルジョワとしての市民生活を自分は送ることになる、と考えているということである。

 

ところが私は、そんな市民生活に幸福を夢見ていなかった。

そんな生活を送っている中高年の男が、私の身近にもいた。

いちおう仕事を持ち、家庭を持ち、彼の子どもは学校では優秀だった。

しかし、彼は少しも幸福ではなかった。

父である。

 

そのようなプチ・ブルジョワの市民生活は、外面的に幸福を演じている表面にすぎず、ほんとうの幸福ではないことを私はよく知っていた。

だからこそ高校生の私は、この歌にうたわれているような、家庭もなく、財産もなく、夜明けまぎわの吉野家で独りぼっちで牛丼を掻きこむような中高年の男に、さまざまな市民生活の拘束から解き放たれた自由な人生を透かし見て、あこがれを抱いたのである。

 

 

 

 

ここに歌われている若者たちは、ひきこもりにならないだろう。

社会に対して反感をつのらせていた若者たちは、歌詞が進むにつれて、がぜん社会の現実を受け容れ、働いて、市民社会の一員になっていくのである。

 

 あんたも 朝から 忙しいんだろ。

 がんばって 稼ぎなよ。

 

 昼間、おれたち会ったら

 おたがい『いらっしゃいませ』なんてな。

 

 人形みたいでも、いいよな。 

 

よくもそんなにすんなりと納得できるものだ。

そこで蓄積していく苦悩を、若者たちはどのように解決しているのだろうか。

 

 おれのナナハンで行けるのは

 海でも山でも どこでも

 

 あんた 乗せてやろうか。

 どこまでも どこまでも どこまでも

 

 

バイクに乗って野山をかけめぐることで、解決を果たしているのである。

ああ、何と健康的であることか。

 

これは、若者たちの解決能力が優れているからではないと思う。

背負っている問題の構造が、まだ単純だからではないのだろうか。

 

ひきこもりだって、狼になりたい。

しかし、狼は吠えるときに、身体をとことん外へ向かって伸ばす。

夜空の月は、外の象徴である。

「内に向かって伸ばす」という咆哮が不可能性をはらんでいるために、

ひきこもりはなかなか狼になりえないのではないか。

 

ともかく、この歌を聞いた時分から、高校2年生の私は「向かいの席のおやじ」であり、嘲け笑ってくる同世代の若者たちと対峙していたのだった。

逆にいえば、この歌は潜在していたそのような対峙を、社会の底辺からあぶりだすような不穏さがあったために、私にとって忘れられない一曲となったのである。

 

 

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治療者と患者(345)福岡・篠栗男児餓死事件に見る「洗脳によるアンビヴァレンツ」と麻布村

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NHKニュース画像より 事件現場となったマンション

by ぼそっと池井多

 

しばらく前のことになるが、福岡県篠栗町で起きた5歳男児餓死事件である。

母親が自分の子どもを餓死させた事件ということで、2月に懲役6年の判決が出た香川2女児車内放置事件のように、はじめ原因は母親のネグレクトか何かであろうと思われた。

しかし事件の究明が進むにつれて、子どもを餓死させた母親の背後に、マインドコントロールをかけて、そうするように持っていった別の女性がいることがわかり、事件の全体像が大きく変わったのだった。

もちろん、食べるものも食べられず、おなかを空かせて死んでいった男の子の悲劇は依然として重いのだが、何といっても前面に押し出されてきたのは、ミクロな権力をふるうママ友の恐ろしさと洗脳である。

 

3月21日の朝日新聞に曰く。

 

 

母親が女への不満を隠れてメモ、内心反発か 

福岡の男児餓死事件

 

  福岡県篠栗(ささぐり)町のマンションで昨年4月、5歳の男児を餓死させたとして母親と知人の女が逮捕された事件で、男児らへの食事制限を強める女に対し、母親が不満の言葉をメモに書き残していたことが捜査関係者への取材でわかった。トイレなどで隠れて書いており、福岡県警は母親が女の指示通りに動くようになっていた一方、内心では反発していたとみている。

 母親は碇(いかり)利恵容疑者(39)、女は赤堀恵美子容疑者(48)。2人は2019年8月ごろから碇容疑者の三男、翔士郎(しょうじろう)ちゃんの食事を制限し、昨年4月18日に餓死させたとして保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された。碇容疑者は容疑を認め、赤堀容疑者は「一切やっていない」と否認している。


 県警によると、赤堀容疑者は「あなたの夫が浮気している」「他の保護者が悪口を言っている」とうそをつき、碇容疑者を不安にさせたり孤立させたりする一方、架空の訴訟やトラブルを解決したように装うことで信頼させ、指示通り動くようマインドコントロールしていったとみている。


 (……中略……)


 捜査関係者などによると、県警は碇容疑者のマンションを家宅捜索した際、碇容疑者が書いた複数のメモを発見。赤堀容疑者に対して「顔も見たくない」といった不満を書いたもののほか、「翔ちゃん、きょうも食べれんかったね。ごめんね」と書かれたメモも見つかったという。(*1)

*1.  朝日新聞デジタル 3/21(日) 19:36配信

https://www.asahi.com/articles/ASP3P65PKP3PTIPE00P.html

太線部は引用者による

 

つまり、自分の子どもを殺してしまった碇容疑者は、けっして赤堀容疑者が好きで好きでたまらなかったわけではないのだ。

それどころか、支配されていることに強い不満を感じており、赤堀容疑者に隠れて憎しみをつづっていた。

一方では、日に日に痩せ衰えていく我が子には「かわいそうに。申し訳ない」という気持ちでいっぱいだった、ということになる。

 

これを聞いて、洗脳とは無縁に暮らしている一般市民の皆さまは、まったくイメージが湧かないかもしれない。 

「じゃあ、なぜそこまでして赤堀容疑者の言うことを聞いたのか。

なぜ嫌いな相手の言うことを聞いて、自分の大事な子どもを殺してしまったのか」

という疑問がふつふつと浮かんでくることだろう。

 

ところが、まさにここに洗脳の実態が語られているように、私は思うのである。

洗脳とは、往々にしてそういうものなのだ。

 

 

 

 

私が上記の記事を読んだとき、真っ先に頭に浮かんだのが、かつて集団療法に通っていた麻布村のことである。

麻布村で医療被害に遭っている患者たちが、なかなか麻布村を逃げ出せない理由もここにある。

 

精神科医、齊藤學(さいとう・さとる)に洗脳されている患者たちは、何も皆が皆、つねに教祖様の足もとに喜んで跪いているわけではない。内心では恨んでいる者も多いのである。

洗脳される者は、洗脳する者を崇拝しているだけではないのだ。

愛憎相半ばするアンビヴァレンツ(感情の両義性)を抱えるものなのである。このアンビヴァレンツがあるからこそ、洗脳が深まっていく。

 

私自身も、齊藤學にすっかりだまされていた時代には、多かれ少なかれこの碇容疑者と似たようなことをやっていたのである。

私の場合、幸いにも子どもはいなかったので、洗脳によって自分の子どもを殺すような惨劇は演じずに済んだ。

患者のなかには、齊藤學からの洗脳によって、やれ治療代だ、やれワークショップだ、やれ講座受講料だ、と家族のお金を全部つぎこんでしまう者がいる。けれど、私の場合は富裕層でもないため、つぎこむ金がもともとなかったことが幸いし、経済的損害も最小限にとどまった。

しかし、それらの代わりに、私にはへたに実務能力があったため、そこに治療者から目をつけられ、過労死寸前まで無償でこきつかわれたのである。

 

たとえば、今でもやっているのかもしれないが、当時は齊藤學の好みで「赤ちゃんの舟」という少子化対策のプロジェクトをやっていた。

子どもを産まない女性たちに出産させるように周囲から圧力をかけるプロジェクトである。

そもそも主旨からして私は大嫌いだったのだが、それをやらない限り、私に麻布村の中の居場所はないかのように洗脳されていたので、羊のようにおとなしく齊藤學の命令に従っていた。

 

クリニックが休みとなる日曜日には、そのプロジェクトの一環で齊藤學が講演をするため、私はそれを映像に撮影して、編集し、YouTubeにアップロードすることになっていた。

齊藤學の講演は、事実に基づかない嘘八百のくだらない与太話ばかりなので、ほんらいであればわざわざ聞きに行く代物ではない。

しかし、それが「仕事」(といって給料は払われないわけだが)となれば仕方なく、毎回、私は重たい撮影機材を引きずって、クリニックが休みの日にクリニックへ通っていたわけである。

うつがひどくて動けない時期などは、出かけていくのが死ぬほど苦しかった。

ときどき馬鹿馬鹿しくなって、私は自問した。

「ちょっと待てよ。

自分は患者だぞ? 

心の病を治すために、この医療機関に通院してるんだぞ?


なんでまた、治療も行われないのに、せっせと通院しているんだ?
なんでまた、クリニックが閉まっている日曜日まで、会社員が日曜出勤をするみたいにクリニックへ『通院』して不本意な『仕事』をしなくてはいけないんだ?


これだけブラックに働かされて、給料など1円も出ないどころか、
作業療法だ。仕事をさせてやっているんだ。ありがたいと思え
などと治療者から言われている。


ふざけるな!
どこまで患者をバカにし、どこまで搾取したら気が済むんだ、あの詐欺師め!」


このようなやり場のない怒りを感じる前日、土曜日などは、自分の抜き差しならない状況を呪い、自分の人生を呪い、やけ酒を呑んで泥酔し、せめてそれで治療者に仕返しをしてやっているつもりになっていた。アルコール依存である。

けれども、しょせん痛めつけていたのは自分の身体だけである。

 

このように程度の差こそあれ、洗脳されて自分を削っていた、という点では、今回の篠栗事件で我が子を死に追いやった碇理恵容疑者と同じであった。

洗脳する赤堀容疑者から、

「子どもがもっと痩せていないと、私が療育費を取れない」

と言われて、どんどん我が子を痩せ細らせていったとき、

「自分はいったい何やってるんだ。馬鹿じゃないのか」

と碇容疑者が思ったことは、一度や二度ではなかったのではないか。

それでも、脱することができなかったのである。

洗脳とは、そういうものだと思う。

 

 

 

 

2017年6月27日のNPO法人JUST(*2)の年次総会(*3)

客席から不適切会計を指摘する私に、齊藤學はそのNPOの理事長という立場からこう言った。

「あんたがここにいると、ここにいるJUSTの他の人たち、みんな出ていきます

 

齊藤學が言わんとしているのは、

「お前はここにいるみんなから嫌われているんだ」

ということであった。

そういう言葉をかけることによって、齊藤學は私を不安にさせ、孤立させたかったのだろう。

 

いいだろう。

私は世界でもっとも近いはずの人間、母親からも愛されず虐待されてきた男だ。

嫌われることには慣れている。

 

ところが、実際にその総会に出席していた、ある他のJUST会員の方が、後日になって私にこう語ってくれたのである。

「私は、斎藤先生のあの言葉を聞いたとき、違和感をおぼえました。

池井多さんがJUSTにいることで困るのは、3人(*4)にすぎないと思ったからです。

あとの大勢の人たちは、むしろ池井多さんはJUSTに必要な人で、出ていってほしくないと思っていたと思います」

 

彼女の証言は的を射ている。

齊藤學の誇張と歪曲の癖から、「3人」がその場にいた「50人」近くの患者「みんな」に、いつの間にか拡大されていただけだったのである。

 

*2. NPO法人JUST精神科医齊藤學が、自分の患者たちを使って運営しているNPO法人。社会的には、患者たちが自分たちで率先して始め、喜んで運営しているかのように演出されている。

*3. 2017年のJUST総会に関しては、以下の記事を参照のこと。

「ザスト通信を読む(114)飛び交う怒号・排除の論理

https://vosot.hatenablog.com/entry/2017/07/01/070000

「ザスト通信を読む(116)エビデンスの一つおぼえ」

https://vosot.hatenablog.com/entry/2017/07/05/070000

 

*4. 3人:森春日局、押上団九郎、イヌサキの3人の三人を指すものと思われる。私を麻布村から排除するために自ら前線に立った流全次郎は、総会はアフターの飲み会しか出てこなかったので、この年の総会の場にはいなかった。

 

 

それでは、なぜ齊藤學はそのような嘘をついてまでも、私を不安にし、孤立を感じさせたかったのか。

そこがまさに今回の篠栗事件と重なる点なのである。

 

上記の記事によれば、洗脳者である赤堀容疑者は、母親である碇容疑者に、

「あなたの夫が浮気している」
「他の保護者が悪口を言っている」

などと虚偽をかたり、絶望を感じさせた。

なぜならば、それによって碇容疑者が孤独を感じ、この世界に寄るべない心細さをおぼえれば、それだけ赤堀容疑者にすがりついてくると踏んだからである。

すがりついてくればくるほど、洗脳はやりやすくなる。

 

じじつ、碇容疑者の場合はそうなった。

そして翔士郎くんは餓死したのである。

 

齊藤學が、私が嫌われているということを私にいったのは、あのときだけではない。

昔から本ブログの読者でいらっしゃる方はご存じの通り、6年前の12.7会談(*5)のときも、さかんに秘書の山中さんが私を嫌っているということを、齊藤學は私に吹き込んだ。

 

*5. 12.7会談:2015年12月7日に精神科医齊藤學が秘書の山中さんを通じて、私をメールで呼び出し、夕方から夜にかけて3時間ほど二人だけで会談した事件。このとき齊藤學は、私が山中さんから手紙を盗んだという根も葉もない冤罪をでっちあげ、私を告訴すると脅迫した。この脅迫によって、それまで16年続いていた信頼関係が壊れた。

参考:「治療者と患者(29)『告訴する』」

https://vosot.hatenablog.com/entry/2015/12/09/000000

 

あれから時間が経って、いま私は、あのとき齊藤學が「山中さんが私を嫌っている」といったのは、齊藤學がいつものように捏造した作り話にすぎなかったのだろう、と考えている。

私の知るかぎり、山中さんはそんなにプロフェッショナリズムの足らない女性ではなかった。

そのように解釈することが、私が「自分はじつは山中さんに嫌われていなかった」と信じたいという願望の裏返しだと勘違いする輩が麻布村にいるかもしれないから、いちおう本当に山中さんが私を嫌っていたと仮定してもいい。

たとえ本当に嫌っていたとしても、秘書がそのようなことを言っているということを、わざわざクライエントに告げ口する雇い主が、いったいこの世界の他のどこにいるだろうか。

 

すなわち、12.7会談における「山中さんが嫌っている」発言も、2017年JUST総会における「みんなJUSTを出ていきます」発言と同じように、精神科医齊藤學が私を精神的に孤立させようとして言った、口からの出まかせだったということである。

 

なぜ、そこまで齊藤學は私を不安にさせたかったのか。

言うまでもなく、他の患者に比べ、私のかかっている洗脳が足りないと見たからである。

もっと手前に引き寄せて、深く洗脳するために、不安を煽ったのである。

 

そして、そういうことをPIAS(逆説的アプローチ)などと呼んで、「治療技法」だなどと吹聴している。

 

 

 

 

今も私のもとには、いまだ麻布村から逃げ出すことのできない患者の方たちから、悲痛な声がたくさん送られてくる。じっさいに話をしにくる方もいる。

 

「斎藤先生にこんなひどいことを言われた」

「斎藤先生からこんなひどい仕打ちをされた」

そう言って皆、涙目に語る。

 

しかし、そこで、

「そう。それはひどいね。じゃあ、もう麻布村は離れたら」

といっても、彼らは離れられない。

深く洗脳されているのである。

 

あるいは、そのときは

「うん、そうする。もう麻布は離れて自分の人生を探す」

などとおっしゃったとしても、しばらく経って再会してみると、案の定、麻布村に舞い戻っている。

そして、相変わらず齊藤學のミーティングに出ていて、しばらくすると

「今度は斎藤先生にこんなひどいことを言われた」

「今度は斎藤先生からこんなひどい仕打ちをされた」

と涙ながらに語るのである。

 

そんなことをやっているうちに、彼らはどんどん金をつぎこみ、人生の時間を浪費していく。

ちょうど碇容疑者にとって翔士郎くんがどんどん痩せ細っていくように、自分の人生を痛めつけているわけである。

患者本人たちも、そういう自覚はあるようである。

それでも逃れられない。

 

逮捕されたとき、碇容疑者は心のどこかで安堵も感じたのではないだろうか、と私は想像する。

「ああ、これであの女の洗脳から抜け出せる。

あの女を憎むのも、殺してしまったあの子を悼むのも、もうこれからは、こそこそトイレに隠れておこなわなくていい。

たとえ刑務所の独房の中であっても、これからは私は私として、自分の人生を生きることができるのだ」

と。

麻布の患者たちは、そうは行かない。

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(367)オリンピック選手は有為で、ひきこもりは無為なのか。

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新国立競技場 photo by makoto.h

 

by ぼそっと池井多

 

 昨年、東京五輪パラリンピックの延期が決定されるころに、

やっぱり今日もひきこもる私(242)東京五輪中止「まったく困らない」が7割超す

という記事を出した。

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それから一年近く経ち、つい最近になって、そこへこのようなコメントを書きこんできた人がいる。

 

蛸の八ちゃん

日本にひきこもりは約100万人。日本の総人口を1億2000万人とすると1%以下です。その中の、わずか4〜50人を対象に取ったアンケートには、何の意味もありません。

ただし、今回は、問題が、モスクワ・ロス・中止になった1940年東京のように、広い意味で(戦争も含めて)の政治対立が理由ではなく、コロナウィルスと言う疫病です。

 

従って、例えばWHOなりが、『コロナは収束した』と宣言を出せる状況にならない限り、無観客開催を軸に話を進めるのが最も現実的でしょう。

何より、『中止ありき』では、アスリートが気の毒です。

申し訳ない言い方ですが、あなたのような人は、オリンピックが延期されても、58歳が62歳になって、4年分税金を無為に使うだけでしょうが、オリンピックレベルのアスリートの心身は、あなたなどには想像もつかないほど繊細です。

そして国家・国民への貢献度も、あなたはゼロかマイナスでしょうが、スポーツで世界を目指せるアスリートの貢献度は、あなたなどには想像もつかないほど大きい

 

『山下跳び』『月面宙返り』『東洋の魔女』などなどが、未だに人々の口に登ることからも想像がつくでしょう。

繰り返します。コロナウィルス対策として、無観客開催を中心に話をすすめるべきです。

世の中には『言霊』というものがあって、のっけから中止、中止と言う人がいると、それが現実になるものです。

中止になっても、あなたの生活保護費は増えませんよ

改行・太字は引用者による

 

私はいつも、過去の記事のコメントまではチェックしていない。

そのため、古い記事の下にコメントが書きこまれると、たいてい拝見しないままに終わる。

私が拝見しなければ、承認されて表に出ることもないので、そのコメントは永久に誰の目にも触れない。

 

しかし、この記事はなぜかリンクをたどっていくうちに表面に浮かび上がってきて読むことになった。

文章からして、かなり手慣れたコメンターと思われる。

投稿の際に書き入れなくてはならない連絡先も、周到に無効なメールアドレスを入れてある。

こういう卑怯さは、あちこちで荒らしの経験を積み、磨いてきたものなのではないか。

 

語句の使い方から見ると、おそらく50代以降の中高年と思われる。

私のことも、いちおう研究しているようである。

 

 自分の主観を押しつけるときに、

「あなたには想像もつかないほど……」

と枕詞を入れることによって、あらかじめ相手の判断を封じるクセがある。

たいして長くもないコメントの中で、そんな表現を2回も使っている。

 

ところが一方では、

『山下跳び』『月面宙返り』『東洋の魔女』などなどが、
未だに人々の口に登ることからも想像がつくでしょう

などというときは、

「あなたには想像もつかない」

という前提を都合よくひっくり返す。

 

じっさい、私は想像もつかない。

月面宙返り』はなんだか聞いたことあるように思うが、『山下跳び』だの『東洋の魔女』だの、私は知らない。

どこかで耳にしているのかもしれないが、私にとってはどうでもいいことだったために、そのまま忘れたのだろう。

 

ようするに、相手に「想像がつく」「想像がつかない」という区別は、すべてこのコメンターの頭の中だけで妄想的に決めつけているわけである。

このコメンターは、齢だけは重ねているかもしれないが、視野がせまく、世界が見えていない独善的なタイプだということがうかがわれる。

 

 

 

 

いま日本のどこかを聖火リレーが走っているらしい。

先日は、どしゃぶりの雨の中を聖火のトーチを掲げて、精いっぱいニコニコと笑いながら走る芸能人だか運動選手だかの姿がテレビに映っていた。

半年もつづく、あんなお祭り騒ぎが「有為」なのだろうか。

 

また、空手で五輪代表になっている植草歩選手を「強化」する立場であった香川政夫選手強化委員長は、竹刀で左眼内壁骨折させ、植草選手は手術をするはめになったという(*1)。

それでも蛸の八ちゃんさんは、

オリンピックレベルのアスリートの心身は、

あなたなどには想像もつかないほど繊細です

などとのたまうのである。

そんな言葉は一般の貧しい民草である私よりも、オリンピック強化委員にまずは言うべきであろう。

 

*1. 植草歩選手のブログ記事

ameblo.jp

 

 

多くの聖火ランナーが走るのを辞退し、

聖火リレーは自分たちの町に入ってこないでくれ」

と希望する自治体が増えている。

コロナ禍で収入がなくなり、その日に食べる物さえ苦労する人が急増している。

増え続けるコロナ重症患者、迫りくる第4波、逼迫する医療現場。

国民の総意は、いま東京五輪・パラの中止を心から願っているのではないだろうか。

 

しかし、私自身はその理由のために、東京五輪の中止を願う者ではない。

これまでも私の希望は、たいていは国民のマジョリティからはずれていた。

それでは、私はどう考えるか。

 

 

 

 

 

蛸の八ちゃんは言う。

 

中止になっても、あなたの生活保護費は増えませんよ。

 

東京五輪・パラには、1兆6440億円ものお金がかかる。

そのうち7210億円はオリンピック組織委員会が支出するが、残りの9230億円は国と東京都が負担しなければならない(*2)。

つまり税金である。

もし、これだけの金額を、東京五輪・パラに投入しなかったら、他にどういうことができるか。

 

今月、全国で生活保護を受給している人たちの受給額がまた削減された。

私が支給されている金額も生活扶助が2,600円ほど減った。

いま世の中にはもっと生活の苦しい方もいるので、これについて私は文句をいうつもりはない。

しかし、これは一度きりの減額ではないという事実がある。

半年ごとに、このように生活扶助の金額が段階的に減らされてきている。

東京五輪・パラの招致が決定した翌年から削減された金額が、総額で670億円だったという(*3)。

東京五輪・パラに投入された税金の額は、その約14倍だ。

つまり、東京五輪・パラなどやらなければ、全国の生活保護費の減額などまったく行わなくてよかった計算になる。

 

受給とは縁がない一般市民の皆さまは、生活保護受給者の生活というと、なにやら他人ごとに思われるかもしれないから、もう少し身近な比較を挙げておこう。

たとえば東京五輪につぎこんだお金で、全国の公立小中学校の給食を年間無償化できるという。

あるいは、コロナ禍による特別給付金を、貧困家庭向けにあと3回支給できる(*2)。

 

 

こうして考えると、いかに大きな金額が東京五輪・パラへつぎこまれているかということがわかる。

しかし問題はむしろ、このコメンターである蛸の八ちゃんは、そんなことを聞いても何とも思わないであろう、というところにある。

なぜならば、蛸の八ちゃんはオリンピック選手という、目に見えるところで選ばれて活躍できる人間の価値は莫大であり、その「心身は、あなたなどには想像もつかないほど繊細です」と考えているけれど、そういう社会の表舞台に出ることのない、いっけん活躍も何もしていないかに見える、社会の底辺に目立たずに生きる庶民や、貧民や、ひきこもりといった人間たちが生きている時間には意味も価値もない、と断じているからである。

 

あなたのような人は、

オリンピックが延期されても、

58歳が62歳になって、

4年分税金を無為に使うだけでしょうが

国家・国民への貢献度も、

あなたはゼロマイナスでしょうが

 

などという言葉の数々が、そんな彼の人間観を語っている。 

つまり、オリンピック選手の人生や生命や時間は有為で、ひきこもりのそれは無為である、と蛸の八ちゃんは言っているのだ。

そのように、社会の表舞台で目に見えて活躍できるわけではない人の人生を否定するイベントであるならば、それはすなわちほとんどの人の生きている時間の重みを否定し、ひいては人間の価値を否定する祭典であるということだから、私は東京五輪パラをやはり中止にすべきだと思う。

 

 

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