VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(321)東京のひきこもり、北海道へ向かう<9>40年前の生ぬるいビールの記憶

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18歳の私が訪れ撮影した(らしい)納沙布岬

 

by ぼそっと池井多

 

今回の北海道への旅は、図らずも私が18歳のときに独りで北海道へ行ったときの道程の一部を、40年の歳月をへだてて辿ることでもあった。

当時の私が北海道で撮った写真は、今でも残っている。

肝心な私が、あのとき北海道をどのように回ったか忘れてしまっているのに、こうして残っている写真を読み解くことで、若造だった私がたどった足跡を蘇らせることができる。

 

 

 

 

名古屋で高校3年生だった私は、まったく大学へ行く気がしなかった。

そのため、親友だったトリタという男と、

「浪人しようぜ。浪人は今しかできない人生体験だ」

などと申し合わせ、意図的に二人とも大学受験で玉砕した。

地元の国立大学であった名古屋大学を受けたのだが、最初の受験科目の時間に30分遅刻するなどし、試験監督官も呆れ顔であった。

そんな受験を仕方をすれば受かるわけがないし、また逆に、たとえ受かっても行きたくなかった。

「もしそんなに行きたくないならば、なぜそこを受けたのか。

はじめから受けなければいいのに」

と人は思うことだろう。

ごもっともである。

じつはそこに、やがてひきこもりになる者らしい矛盾と葛藤が垣間見られるのである。

 

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素朴な駅名標、時刻表つき。今はない興浜北線。


今にして思えば、大学を受験したときの、あの煮え切らない矛盾に満ちた私の行動は、「ひきこもり」の前哨戦だったのだ。

トリタはどうだか知らないが、少なくとも私はそうであった。

 

あちこちでお話しさせていただいているように、私のひきこもりは大学卒業のときに始まった。

就職活動をし、企業から内定をもらい、それで喜ぶどころか絶望してひきこもったのである。

しかし、それより5年前、高校から大学へ進むとき、私は似た行動を取っていたわけだ。

「受験する」という、大学へ行くように見せる行動をとりながら、「浪人する」という、それを自ら阻止する行動をとったのである。

 

今ならば私は自分の人生を解読することができる。

会社へ入ることも、大学へ入ることも、母が望んだ人生のレールを進む点において共通していた。

私の無意識は、

「そのレールを前へ進んではいけない。

進めば母親の虐待を追認する形になる」

と必死に私の意識による選択にブレーキをかけていた。

その結果、大学受験のときは浪人となり、大学卒業のときはひきこもりとなったのである。

 

そんな私であったから、名古屋大学を受験している最中も、受験のことなどどうでもよく、受験が終わったら行く予定にしている北海道の旅程ばかり考えていた。

こうして18歳のときの北海道旅行は、私の大学受験と、その不合格発表のあいだの日々で行われた。

たしか十日間ぐらいだったと思う。

 

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「こんな所まで行っていたのか」と驚く。根室標津駅。現在はない。

 

40年前に自分が撮った写真を見ていくと、青函連絡船で函館に上陸してから、まずは札幌を通らずに、室蘭本線まわりで根室をめざしたようである。

根室では納沙布岬まで行って千島列島を臨んでいる。

それから十年もしないうちに廃線となった根室標津へ行き、どうやら釧路から北上して網走にまわり、あちこち細かい支線を終点まで乗りつぶし、やがて稚内へ行き、宗谷岬に立ったものらしい。

札幌に寄ったのは、本州への帰路である。

夜行列車で函館へ帰る前の晩に、少しばかり札幌で時間を作ったのだった。

しかし、「乗り鉄」人間にはよくあるパターンだが、ほとんど駅から出ていない。

改札は出たが、駅構内から地下街へ降りただけで、大通り公園も時計台も、札幌の街はいっさい見ていないのである。

高校3年生に見た、私の札幌の記憶は、駅の南に広がっている地下街だけだ。

 

あのとき私はそこで、

「せっかく北海道に来たのだから、海の幸を喰っておかなければ」

などと考え、すし屋に入ることにしたのだった。

道中、食事はいつも駅の立ち食いそばのような安物ばかりであったから、せめて道内最後の食事ぐらい奮発して、自分としては精いっぱいの贅沢をしようと考えたのである。

しかし、しょせん地下街の雑踏にあるすし屋などというものは、立ち食いそば屋と同じで、「本格的な」北海道の海の幸を期待するところではない。

それでも、

「北海道を最後に離れる前に、自分は贅沢にもすしを喰った」

というアリバイが欲しかったのである。

 

遅熟であった私は、すし屋に入るなどということに慣れていない。

ひきこもりは、えてして対人恐怖であるため、「客下手」であり、私もそうであった。

店に入ると、その店で「正しい客」「慣れた客」をやらなくてはならないと考えて緊張し、妙な力が肩に入ってしまい、その結果、よけい「おかしな客」「いやな客」となってしまう。

その繰り返しであった。

大人になっても、ずっとその性癖は続くのだが、もちろん高校3年生であったこのときも、そういう見栄があった。

それ以前は独りですし屋など入ったこともなかったし、母はじゅうぶんな収入を得ていてもケチな人であったので、家族といっしょであっても、すし屋は入ったことがなかった。

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こうして、勇気を奮い立たせて入った安物のすし屋で、何を頼んだのかは忘れてしまった。

どうせ安価な握りのセットを頼んだのだろう。

ところが、そこで私は、

「なめんなよ。私は大人の客だぞ」

と見せかけるために、たいして飲みたくもないのに瓶ビールを1本注文したのである。

 

ここに、私の「客下手」が出たのだった。

自意識過剰で、店の人や店内の他の客が、みんな私がどのような人間であるかと注視しているかのように考えていた。

まだ18歳の未成年であること、この土地を知らないよそ者であること、などなど諸々の弱点を覆い隠すために、頼まなくてもいいビールを頼むことで、わざわざ大人ぶったのである。

 

ところが、店内は忙しい夕食どきであり、店のおばさんからすれば、私という客がどんな人間であるかなど、どうでもよかった。

ましてや、他の客たちは私という若造の存在にすら気づいてさえいなかったと思う。

 

おばさんは、たしかこう訊いてきた。

「お客さん、ビール冷えてないんだけど、生ぬるいまんまでいいですか」

 

私はもう髪の先からつま先まで緊張して、自分がどう見えるかということで頭の中がいっぱいだったから、そもそもおばさんの質問自体、ろくに聞いていなかった。

そこで、「このようにふるまうと大人としてサマになる」と思ったのか、鷹揚をよそおって、

「ああ、いい。いい」

といった風情でうなづいて演せた。

 

すると、やがて冷やしていないビール中瓶1本が運ばれてきた。

生ぬるいビールは、ひたすらまずかった。

 

鮨は、何を喰ったか、まるでおぼえていない。

ところが、店を出たときの会計が1400円だったことは、なぜか憶えているのである。

「ぼくは贅沢をしたんだ」

ということを自らに記銘したかったからかもしれない。

 

こうして私にとって札幌は、地下街の生ぬるいビールという記憶に集約されてしまった。

 

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これも「こんな駅まで行ったのか」と驚く。今はない。

その後、夜行で札幌を発って、朝に函館を発する連絡船に乗り、日本海側をまわって米原をめざした。

次の夜は、北陸本線を走る夜行列車の中だった。

早朝に名古屋に帰ってきて、名古屋駅の黄色い公衆電話からトリタに電話をかけた。

トリタは、私が北海道をまわっている間も名古屋に留まり、彼自身と私の不合格発表を見にいってくれていたのである。

「どうだった?」

「期待通りだ。二人ともめでたく浪人だ」

「よし」

そんな会話を短く交わした。

トリタの家も、大学に落ちたために険悪なムードになっていたから、それより長い時間話すことは危険だった。

もちろん、私の家でも、私の不合格を知って、母親が怒りまくっていた。

そんなささくれ立った感覚で、あのときの北海道の記憶は終わる。

 

 

 

 

今回私は、ほんらい帰りも別のルートでゆっくり東京へ帰りたかったのだが、さまざまな制約からそういうわけにいかず、仕方なく帰路は新千歳空港からあっけなく飛行機で羽田に帰ってきた。

しかし、

「今回の北海道、最後の食事は何にしようか」

と迷ったとき、40年前の自分の選択にちなんで、やはり鮨にすることにした。

新千歳空港ターミナルの中のすし店である。

今回、ビールは頼まなかった。

 

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今回、新千歳空港を飛び立つ前に食べた鮨。

 

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やっぱり今日もひきこもる私(320)東京のひきこもり、北海道へ向かう<8>コロナ下の札幌ラーメンな日々

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by ぼそっと池井多

 

麺好きな私が札幌に来て、札幌ラーメンを食べないわけがない。

北海道では一日に一食はラーメンである。

函館に上陸して、まずは函館の塩ラーメンを喰った。

 

札幌は、味噌ラーメンの本場というイメージがある。

しかし、地元の通にいわせると、それは誤っていて、札幌には醤油ラーメンも塩ラーメンも同じ比重で存在するのだそうだ。

 

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もともと札幌ラーメンは、大正11(1921)年に王文彩という中国の料理人が、北海道大学の前の竹家食堂という所で始めたリウ麺や肉絲ロウスー麺が始まりだといわれている。

王文彩は北京料理を専門とし、ロシアのニコライエフスクで働いていたが、ロシア革命の影響で樺太へ逃れ、日本の北海道へ渡ってきたのであった。

したがって、札幌ラーメンの原型はむしろ醤油や塩に近い中華料理だったと思われる。

 

そういう時代が四半世紀も続いた。

やがて、戦後になって札幌ラーメンが復興されたとき、主流となったのは醤油ラーメンだったらしい。

それでは、札幌にいつ味噌ラーメンが登場するかというと、意外にもだいぶ新しく、昭和36(1961)年になってからなのである。ほぼ私が生まれた年に近い。

それから昭和の高度成長期に、札幌の味噌ラーメンは全国の物産フェアで賞を取ったりしたものだから、「札幌ラーメンは味噌」というイメージが急速に全国で広まっていった。

そのころ千葉県に住んでいた私も、家の近くに札幌ラーメンの店ができ、味噌バターラーメンを食べたのをおぼえている。

 

そのため私も、「札幌ラーメンは味噌」とは「通でない」とわかっていながらも、やはり自分の味覚の記憶をさかのぼって、どうしても札幌では毎回、味噌ラーメンを頼んでいた。

 

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そうはいっても、私は札幌という街をよく知らないから、どこがうまいラーメン屋なのかなど知るよしもなく、持ち前のミーハーぶりを発揮してグルメサイトで検索し、口コミで評判の「名店」へ食べに行くことにした。

 

札幌には、ラーメン店が密集している「ラーメン横丁」が複数、存在する。

そういうところは、ラーメン屋しかない。

ラーメン屋の隣は、またラーメン屋なのである。

 

どこの店でも、味噌ラーメン、醤油ラーメン、塩ラーメンなどコンセプトは同じなのだが、店ごとに特徴を出そうとしてラーメンの名称を変えている。

私が「名店」と目したラーメン屋が店の外に出しているメニューを見て、

「よし、この『極うま味噌ラーメン』にするぞ」

と決め、扉を開けて中へ入り、椅子にすわって、カウンターの中の若い主人に、

「極うま味噌ラーメンを一丁!」

と告げると、主人は「あいよ!」と威勢よく返事をするかと思いきや、なにやら変な顔をして黙りこんでしまった。

そして、

「こちらからお選びください」

と卓上のメニューを指さした。

 

なにやら、さっき店の外で見たのとはちがうラーメンの顔である。

そこにも、たしかに味噌ラーメンはあるのだが、名前は「極うま味噌ラーメン」ではなく「超うま味噌ラーメン」になっている。

 

「しまった」

 

どうやら私は、「名店」の外のメニューを見て、隣の店に入ってしまったらしい。

ということは、私が入ったのは「名店」ではない、ということになる。

さらに、気がついてみれば、店には他に客が誰も来ていなかった。

空いている店は不味まずい、ということも考えられる。

 

しかし、いまさら

「あ、店をまちがえた。隣に入ろうと思ったんだ。だって、隣はグルメサイトで名店だから。さよなら」

などと言って席を立つことはできなかった。 

 

それは、一つには私がひきこもりであることと関係しているだろう。

このような状況でしっかりと、

「自分は隣の店に入るつもりであった」

ということを自己主張できないのである。

それでは、この店の主人に悪いと思う。

 

けれど、私の中に渦巻いていたのは、店の主人を気づかうやさしい気持ちだけではなかった。

ここで、グルメサイトで「名店」とされている「隣に入るつもりだった」といえば、自分がミーハーな、この土地に不慣れなバカ観光客であることが主人にばれてしまう。

「それはカッコ悪い」

という虚栄心が頭をもたげ、私は「隣に入るつもりだった」という事実を告げるのをやめ、店をまちがえたのを隠して、初めからその店に来るつもりだったふりをして「超うま味噌ラーメン」を食べることにした。

 

しかし、不本意に入ったという意識が先立つから、何事も不快に見えてくる。

若い主人は、髪を金髪に染め、耳だけでなく唇などにもピアスをしており、まるで高校生のアルバイトに毛の生えたような若者に見えた。

風体に職人らしさがない。

私は彼の唇ピアスを眺め、店を間違えたことをふたたび後悔した。

40代まで私は大食いで、ラーメン屋などは一食につき3軒ぐらい梯子できたから、そのころなら一食ぐらい「間違った」ラーメンを食べても痛手ではなかった。

しかし、今はちがう。ラーメン屋は一食にもちろん一軒が限界であるし、一日に2食もラーメンを食べるのは健康的にためらわれる。

つまり、私は札幌に滞在している日数しか札幌ラーメンが食べられないのだ。

その貴重な持ち札を、一枚ムダにした気がした。

 

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ところが、格好で人を決めつけるのはよくないということがジワジワと伝わってくるように、茶髪に唇ピアスの若者が調理している姿は懸命であった。

他の客は誰もいない沈黙の空間で、シャッシャッと若者が調理する音だけが響く。

まるで茶の湯のように、一対一の無言の対話の時間が過ぎていった。

そして、やがて出てきたラーメンは、予想したよりもはるかにうまいものだったのである。

気合が入っている一杯に感じた。

 

 

 

 

翌日、私は同じラーメン横丁へ出かけ、今度はまちがえないように、もともと私が目指していた「名店」の方に入って、首尾よく「極うま味噌ラーメン」を注文した。

 

さすがグルメサイトに載っているからか、こちらの方は客が多かった。

それだけに、こちらの店主はどことなく居丈高な中年男で、かなりぶっきらぼうであった。

まあ、そこまではよい。職人というのは、そういうものだ。そう考えて我慢することにした。

ところが、出てきたラーメンは、たしかに店の外に出ているメニューの写真と見た目は似ていたが、食べてみるとそんなにうまいものではなかった。

グルメサイトで評判が良くなったので、こちらの主人は気を抜き始めたのだろうか。

それとも、私が見るからに貧しい風体で、とてもグルメサイトに投稿する採点者にはなりそうにないから、舐めてかかったのか。

ともかく、こんなラーメンがグルメサイトで高得点をつけるとは、と私は内心あきれかえっていた。

 

さらに、これは店の責任ではないのだが、私がラーメンを喰っていると、あとから店に入ってきた若い女の客がマスクをつけないまま、ラーメンを喰っている私の頭ごしに、

「トイレって、どこですかっ!」

と叫ぶようにカウンターの中の店主へ訊いたのである。

 

札幌は、新型コロナの第3波到来といわれるほど感染者数がふえている時期である。とくに私がいる札幌中心部、ススキノで大量感染が発生している。

そのような時期に、この若い女の客は、わざわざノーマスクで私の上から飛沫を降らせるかのように、大声で訊いたのだった。

私はあわてて、自分が喰っているラーメンを身体でかばうように覆い隠した。

これで、たとえその女の口から新型コロナウィルスが撒き散らされたとしても、大切なラーメンの丼にかぶさっている私の背中に降るだろう。

女は、最近よく出てくる自信過剰なファッション・モデルのように、やや露出度の高い服を着て傲慢なしゃべり方をする、威勢のいい輩であった。

おそらくこの付近にお勤めなのだろう。

 

「マスクなんて鬱陶しいものはしてられないわ。

わたしは自由な女なの」

とでも言いたげに、店内に入ってきたときから独りだけマスクをしていなかった輩である。

いくら美しくても、そんな身勝手な若い女に、私はすっかり頭に来てしまった。おかげでラーメンも、いっそうまずくなった。

 

いくらグルメサイトで「点数が高い」「名店だ」などと言われていても、そんなものはほとんど何も意味しないことを、あらためて痛感した。

外食とは、個人的な体験である。

同じ店を訪れても、採点者と同じ料理が出てくるとはかぎらないし、そのときの店の中の雰囲気に至っては、毎回ちがうといって良いだろう。

また、たとえ採点者と同じ料理を食べても、けっきょく自分がそれをどう食体験するか、である。

私のなかでは、前の日に「間違って」入った店の方が「名店」よりもはるかに高い点数がついた。

 

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ラーメン横丁にもコロナが押し寄せていた。

あちこちの店がコロナのために閉店したり、長期休業していた。

非常事態宣言で外出自粛が呼びかけられた4月に、

「飲食店は、場所の退去通告が6ヵ月前のところが多いから、10月あたりに繁華街でたくさん閉店が出るのではないか」

などと言われていたが、まさにそれが本当のことになり、札幌市の中心部は金曜の夜のように週一番の稼ぎ時であっても、まるで櫛の歯が欠けたようにあちこちの店は真っ暗だったり、シャッターが下ろされたりしたままだった。

どんなに店の側が感染に気をつけても、一部の無頓着な客が撒き散らせば、「その繁華街が危険だ」ということになってしまう。

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(319)東京のひきこもり、北海道へ向かう<7>札幌のひきこもり居場所「よりどころ」に参加

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by ぼそっと池井多

 

10月19日、札幌で開催されているひきこもり当事者会「よりどころ」に参加させていただいた。

昨年の今ごろ、私はこの「よりどころ」を見たくて、厚生労働省の視察事業で札幌を訪れることを楽しみにしていたのだが、あの時はそれが叶わなかった。

ようやくお邪魔することができた、というわけである。

 

札幌圏には、いくつかのひきこもり当事者会があるが、中でもこの「よりどころ」には長く定期的に続いている伝統がある。

コロナ禍が始まる前は、私たちチームぼそっとが東京でやっている「ひ老会」と同じように、和室でやっていたそうだ。

やはり和室という空間には、くつろぎ、話の内容も濃くなるという不思議な力がある。

しかしそれは裏を返せば、「3密」になりやすいということでもある。

そこで、これまた私たちチームぼそっとと同じように、「よりどころ」もコロナになってからは広い洋室でやるようになったとのこと。

その洋室が、17日に私が講演をさせていただいた「かでる2・7」という建物の10階であり、窓からの眺めがすばらしい。

 

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「よりどころ」の会場から

 

札幌の中心街を歩いているときには気がつかなかったが、こうして10階の高さから見ただけでも、札幌という街は山に囲まれていて、しかもその山々が思いのほか近くまで迫っていることがわかる。

 

この当事者会でファシリテーターをしていらっしゃるピア・スタッフの方々が、窓から眺望される景色について説明してくれた。

まず山の斜面に作られたスキー場やジャンプ台である。

これらは、私が小学校2年生のとき、1972年に開催された札幌冬季オリンピックで使われたものらしい。

そして足下、すなわちかでる2・7の目の前には、北海道大学の植物園が広がっていた。

 

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手前の森が植物園である。

ここには、原生林を忠実に再現したエリアや、アイヌなど先住民たちの縄文時代に相当する遺跡、さらに開拓にまつわる博物館などがある。


そして、その博物館には、明治11年に札幌でつぎつぎと5名もの人を襲ったヒグマの胃の内容物が展示されていたらしい。
その内容物とは、ようするにヒグマに食べられてしまった人々の肉ということになる。

「グロテスクで教育上よろしくない」

と考えられたのか、現在は展示されていないそうである。

 

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 「よりどころ」は、公設民営という形を採っている点において、全国でもっとも先進的なひきこもりの居場所といってよい。

つまり、札幌市が設置し、NPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワークという民間団体が運営しているわけである。

この日も、札幌市から男女それぞれ1名ずつの公務員の方々が参加していた。

 

私が昨年、ここを見学したかった理由もそのあたりにあった。

かねがね私は、もし行政がひきこもり支援をしてくれるならば、ひきこもり当事者を個別訪問アウトリーチするよりも、すでに活動し機能している当事者活動を後方支援するほうがはるかに効率がよいのでは、と考えている。

 

もともと、ひきこもりは「効率」という概念と相性がよくない。

「効率」を求めると、ひきこもりに考える暇が与えられず、「引き出し」などということが考えられてしまう。

しかし、だからといって、私たちはなにも反効率主義を目指しているわけでもないのだ。必要なときには、効率を求めてよいはずである。

とくに行政は、限りある予算とマンパワーで、できるだけひきこもり支援の実効を上げたいだろうから、この文脈においてやはり効率は考慮されるべきだと思う。

 

下の図は、17日の札幌講演でも使った「ひきこもり当事者の諸層」を示した図である。

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ひきこもりの多様性を考えるのにあたって、いくつか軸を設定することが可能である。

これは、その中でも当事者活動というものを軸に、ひきこもり当事者の集合を同心円状に想定し、いちばん外側「L1 (=Layer 1)」を「当事者活動できる当事者の層」としてみたものだ。

次の内側「L2」は、自分で開催することはできないが、「当事者活動に参加できる層」である。

次の「L3」は、今は当事者活動に参加できないが、いずれ参加したい、あるいは参加できるようになりたい、と考えている層である。

最後に、円の中心部にある「L4」は、当事者活動に参加しようとも思っていない、あるいは「それどころではない」か、そういう情報が行き届いていないか、この手の情報が受信できない当事者層であり、「渦中の当事者」などとも呼ばれる。いわゆるガチこもり、あるいはサバルタン的当事者である。

 

東京周辺では、L2の当事者たちがL3の当事者に声をかけ、居場所や当事者活動へ連れてきてくれることが多い。そのようにして、L2はL3を「ピア・サポート」しているのである。

もちろん、やっている本人たちはそういう言葉で意識しているとは限らない。

 

同じようにL1は居場所を開いたり、当事者活動をおこなったりすることで、L2の方々にケアやサポートを提供している。

私自身、L2の方々を「支援している」つもりなどサラサラないのだが、結果として私はL1としてそのようなことをやっていると見る人たちはいる。

こうして、L1がL2を、L2がL3を、それぞれ「ピア・サポートする」という流れができていると考えられる。支援のフローである。

 

ところが、ここで途切れるとL1の人たちが力尽きてしまう。

当事者が、当事者活動を継続するのは、並大抵なことではない。

ただでさえ、自身が当事者なのだから、メンタルにもフィジカルにも弱かったりする。

場所の確保も大変だし、社会からのバッシングと闘うだけでなく、参加する当事者たちからの突き上げが起こることもある。

そういうことにエネルギーが費やされるL1の当事者層が消耗し、力尽きてしまわないように、行政のひきこもり支援の方々はL1を後方から支援してほしい、と申し上げている次第なのだ。

そうすれば、行政→L1→L2→L3 という支援のフローが成り立っていく。

これが、「当事者活動の後方支援」が「行政による当事者の個別訪問」よりも効率がよく、現実的であると思われる所以である。

そして、札幌の「よりどころ」はその点をかなりの部分、実現している先駆的な事例なのである。

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(318)東京のひきこもり、北海道へ向かう<6>駅弁の原型を求めて

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by ぼそっと池井多

 


すでに札幌へ着いて講演をさせていただいた話を、前回「やっぱり今日もひきこもる私(317)」に書いてしまったため、時間的には前後するが、この「東京のひきこもり、北海道へ向かう」シリーズとしては、「やっぱり今日もひきこもる私(316)<5>蝦夷地共和国の幻影」のつづきである。

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函館から、函館本線を各駅停車で乗り継いで、約9時間かかって札幌に到着した。

それは、私にとって「あっという間」の旅路であった。

 

東北地方を奥羽本線で北上した12時間は、最後の3時間、秋田から青森までが長く感じられた。おそらく夜に入ってしまい、窓から外が何も見えなかったからである。

 

そこへいくと、今回の函館から札幌への9時間には、ずっと昼の光があった。

山間部を走るとき、ところどころ小雨やみぞれが降ってきたが、またそれが適度なワイルドさを演出し、ほとんど手つかずの原生林に見える窓の外の光景に、私はまったく飽きることがなかった。 

スマホの電波は、しばしば圏外になった。

 

 

 

 

東京を出発する前から、函館本線の森駅で売っているという駅弁「いかめし」を食べたいと思っていた。

昭和の昔には、首から駅弁を載せたボードを首から下げた駅弁売りが、ホームで列車の到着を待っていたものである。 乗客は、列車が停車するとすばやく窓を開けて、駅弁やお茶を買ったのだった。停車時間が短いと、売買が完了する前に列車が出発してしまうから、それはスリリングでさえあった。

ところが、目指す森駅に着いてみると、駅のホームは閑散として人っ子一人おらず、もちろん駅弁売りもいない。

停車時間は14分だという。

そこで、私はいったん列車の外へ出て、小さな駅の待合室をのぞいてみたが、そこにも駅弁売り場はなさそうである。

改札口の駅員さんに、

「あのう、駅弁は売ってないんですか」

と訊くと、若い威勢のよい兄さんタイプの駅員は、

「おっ、『いかめし』っすか。それだったら、駅を出て……」

と教えてくれた。

なんと駅弁を買いに、乗客は駅を出て、お店へ買いに行かなくてはならないのである。

 

言われた方向へ歩いていくと、昔のタバコ屋のような小さな店があり、たしかにそこでいかめしを売っていた。

 

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こうして私は、ようやく念願のいかめしにありついた。

中ぐらいのサイズの新鮮なイカを醤油で煮て、中に白飯を詰めた、ただそれだけの弁当である。

 

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幕の内弁当のように、さまざまな付け合わせを美しく詰め合わせた弁当ではない。

まさに旅する者の空腹を暫定的に満たすという目的だけのために作った弁当、という感がある。

ぶっきらぼうなまでに素朴な、いわば原型駅弁であった。

箸がついてこないが、楊枝で刺してあるので、手でつまんで食べられる。

さすがイカは小ぶりだが肉厚で、歯ごたえがあった。

 

 

私の乗った各駅停車には、他の乗客が何人がいたが、みな地元の人であるのか、私のようにわざわざ駅の改札を出ていかめしを買いに出る物数寄ものずきはいなかった。

この駅は、小さいながらも、いちおう特急も停車するようだが、いまどきの特急は窓も開かないだろうから、昔のように列車から乗客が買うこともできないと思われる。

となると、駅弁は駅で売らないのだ。

駅で買う弁当だから駅弁であったのに、いまは「全国駅弁フェア」のようなイベントが大都市のデパートで開かれると、そこで列を作って買うものになっている。

駅弁の機能を果たさない駅弁の時代になったのである。

 

 

 

 

原生林のなかにたたずむ駅の多くは無人駅だった。

それどころか、その駅に降りたら最後、駅から他のところへ行く道路がないという駅もあった。

そのため、そういう駅は、駅そのものが目的地となる。

つまり、村や集落など、どこかへ行くために駅に降りるのではなく、その駅へ行くために駅に降りるのだ。

駅の機能を果たさない駅である。

 

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比羅夫ひらふ駅もそうであった。

飛鳥時代阿倍比羅夫あべのひらふ蝦夷征伐で北海道に侵入してきて、この地を軍領としたことから、それが地名となり駅名にもなっている。

駅そのものが民宿になっていて、その民宿に泊まりにくる人がこの駅で降りる。

夏場は駅のホームでバーベキューもできるらしい。

こんな駅は、日本でもここだけではないだろうか。

片道あたり一日4本の列車しか停車しないので、それだけが客がこの宿へやってくる交通手段である。

 

 

 

 

 

ここへも、新幹線を通そうという計画がある。

函館本線に新幹線をつくり、新函館北斗・八雲・長万部倶知安新小樽・札幌と結ぶ予定となっているらしい。

すると、函館本線は、かつての東北本線信越本線のようになるのではないか。

つまり、私が乗っている各駅停車の線路は廃止され、比羅夫のような駅を停まりながら進む列車もなくなってしまうのではないか、と思われる。

 

人々は、このような駅を通らず、バスや特急や飛行機だけで都市間を移動するようになっていくのだ。

これを

「便利になった」

「生産性が上がる」

と喜ぶ人はたくさんいるのだろうけれど、私はなんとも味気なく感じられてならない。

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(317)北海道・札幌の講演をふりかえる ~ 受容率の高い親御さんたち

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かでる2・7

 

by ぼそっと池井多

 

10月17日午後に、北海道立道民活動センター「かでる2・7」というところで、

「長期ひきこもり家庭のコミュニケーション不全」

と題して講演をさせていただいた。

 

もともと昨年の11月に、私は厚生労働省の視察事業で北海道を訪れることになっていて、北海道の皆さまも楽しみに待っていてくださったそうなのだが、あの時は番狂わせが生じ、私は札幌へ来ることができなかった。

その代わり、というわけでもないが、この地でひきこもりの包括的支援を手掛けているNPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワークさんが、半年の期間をかけて準備してくださり、このたび札幌市のお招きによって、今回の講演が実現したという次第である。

壇上の横には、札幌の当事者の方々が事業所でつくってくれたという横断幕なども掲げられ、お招きくださった方々、準備してくださった方々に改めて感謝の念が湧いたのだった。

 

NHK北海道新聞などの取材も入り、参加者数は当初の定員を大幅に超え、なかには遠く十勝から来てくださった方もあり、関心の高さがヒシヒシと感じられた。

「十勝といったって、札幌と同じ北海道の中だろう」

などと東京の人間は考えてしまいがちだが、たとえば札幌までの距離を東海道にあてはめると、なんと東京から浜松あたりに相当するのである。

 

会場の建物「かでる2・7」とは、なにやら不思議な名称だが、「仲間に加える」という意味の北海道方言「かでる」に、「2・7」は建物が位置する住所「北2西7」を加えたものであるらしい。

札幌は、明治になってから作られた都市であるため、市街の住所は合理的に、数学のXY座標のように二つの数字で表される。

そのため、札幌へ来たばかりの者でも住所を聞けばだいたいどこにあるかわかる仕組みになっている。

 

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顔が光って見えるのはフェイスシールド

Photo by NPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク

 

コロナ禍になってからの講演は、マスクをしながらしゃべらなければならないので、息が切れて仕方がない。話の合間合間に吸う息が、思うように入ってきてくれないのである。

ところが今回は、フェイスシールドを用意してくださっていたので、マスクをすることなく、息も切れずにお話しすることができた。

ただ、フェイスシールドが透明で見えていないものだから、話の途中で喉を潤すためにペットボトルのお茶を飲もうとするたびに、毎回フェイスシールドの上から飲もうとしてしまい、壇上でおバカを演じてしまった。

 

 

 

 

北海道の辺境に住んでいるひきこもりの方々には、さぞかし地方のひきこもりとして独特の厳しさがあるのにちがいない、と想像している。

札幌市そのものは、東京、横浜、大阪、名古屋についで日本で5番目に大きな都市である。非常に洗練されたいて、一つの商圏や文化圏を成しているから、「地方」という呼称がそぐわない。

なぜならば、日本語の「地方」という語には、「田舎」というイメージがつきまとうからである。

しかし、「東京近辺ではない」という意味で、あえて「地方のひきこもり」と言わせていただいた。

 

そして、当事者・ご家族のささいな話からも、私はそこに北海道を感じた。 

たとえば、ある親御さんが話してくださったのは、ひきこもりの息子さんが灯油を買いに行っている、という話である。

東京の冬は、私などはエアコンの暖房機能だけで事足りているが、寒さの厳しい北海道では、そんな生っちょろい対策では足らない。

そこで灯油を買いに行くという家事が出てくる。

これがまた、重い。

車などで家の前まで売りにくる灯油は高い。

「ひきこもっていて申し訳ない」

と思うのか、息子さんは最近、18リットル入る容器を2つ持って、ガソリンスタンドへ買いに行ってくれるようになったというのである。

当事者やご家族の話す、そんな何気ない日常から、私は北国のひきこもりの現実を感じていたのだった。

 

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この日に来られていた北海道の親御さんは、私がいうところの受容率が高い親御さんばかりであった印象がある。

 

受容率とは、こういうことだ。

子どもがひきこもり始めてまもなくのころは、親もその事実に苛立ち、

「いい歳をして、何やってんの。働きなさい」

というようなことを言う。

この状態を指して、「否定率が高い」=「受容率が低い」、「高度否定期」と呼んでいる。

ここに入る親御さんは、何か一発で子どもが働き始めるような魔法の言葉やテクニックを欲しがる傾向がある。

 

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月日が経つと、しだいに親御さんも子どものひきこもりが少しずつ受け止められるようになっていき、受容率が上がってきて、

「自分にも何か問題があったのかもしれない」

と考え、さまざまな方面に助けを求め、機関につながるようになる。

ここを「中度否定期」と呼んでいる。

 

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さらに月日が経つと、

「親の私にも問題はあった。でも、今の私にできることはすべてやっている」

と考えるような「低度否定期」がやってくる。

親の会・家族会などに定期的に通っている親御さんなどは、このタイプが多い。

 

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そして、やがて子どものありのままをそのまま受け容れる「受容期」に至る、というものである。

完全な受容に至れば、もはや子どもがひきこもっている事実そのものが問題でなくなる。

問題が問題でなくなれば、それは一つの問題の解決である。

ところが、親が受容期にいたった子どもの当事者のほうが、そうでない親の子よりも、いわゆる「ひきこもりを脱する」ケースは格段に多いように思う。

「ひきこもりを脱する」のも、いうまでもなくもう一つの解決である。

 

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この「ひきこもりを持つ親御さんの受容の4段階」は、キューブラー=ロスによる「受容の5段階」と同じくモデルにすぎないから、必ずしもその通りに進むとはかぎらないし、次のステップへ進むのにかかる時間も家庭によってまちまちである。

ひきこもりが多様であり、どんな個別の例もひきこもり現象全体を代表できない、という原則に立ち返ってみれば、それは明らかである。

 

さて、これにあてはめれば、この日にお会いした北海道の親御さんは受容率が高く、高度否定期の方はいらっしゃらなかった印象を私は持ったのだ。

しかし、それを以て、北海道におけるひきこもりの親御さんの地方性を語るのは、あまりに早計であろう。

すべてのひきこもり当事者が、当事者会につながっているわけではないように、ひきこもりの子を持つすべての親御さんが、このような家族会・親の会などにつながっているわけではないからだ。

そして、家族会・親の会などにつながっている親御さんの集合は、どこの都道府県においても、すでにだいぶひきこもりのことがわかり、全体の母集団よりも受容率が高いだろう、というのが私の仮説である。

 

 

 

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やっぱり今日もひきこもる私(316)東京のひきこもり、北海道へ向かう<5>蝦夷地共和国の幻影

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五稜郭の中にある箱館奉行所

 

by ぼそっと池井多

 

こうして、40年前と同じように船で北海道に上陸した私は、函館の寒さに身をすくめた。

わずか4日前、東京を出たときは陽気は夏に近かったが、東北に入って秋が始まり、北海道ではもう冬である。

 

函館は、会津若松とならんで戊辰戦争の聖地といってよい。

どうも今回の私の北上の旅は、戊辰戦争を軸に進んでいる。

 

城のようで城でない、世界にもめずらしい五角形をした五稜郭という土塁建築は、いわば「函館城」のようなものかと思っていたら、そうでもないようだ。

函館の中心と五稜郭は、函館市民の感覚からすれば、少し離れている。

もしこの街に地下鉄が通っていたら、2駅ほどの距離になるだろうか。

この距離が存在することが、あとで述べるように、歴史の中では重要な役割を果たす結果となるのである。

 

 

 

 

五稜郭は、戊辰戦争で有名になったから、榎本武揚土方歳三など旧幕府軍がつくったものだと思っている方が多いようだが、そうではない。

それは、戊辰戦争よりも十年以上前に、江戸幕府が北方の防衛を固めるために設置した役所である。

函館(当時は「箱館」)の中心街は、海と接した函館港や函館山のあたりにあるが、そこに役所を作ったのでは、敵国が攻めてきたときに軍艦からの砲撃でやられてしまうと考え、わざわざ内陸に入った場所に函館奉行所を置いたものらしい。

設計したのは、北海道とは縁もゆかりもなかった四国は大洲藩士の武田甲斐三郎という武士だが、これがまたすごい理数系の頭の持ち主だったと思う。

ふつう四角形につくる土塁を正五角形にするなどという技は、並大抵の建築技術ではなかったろう。正六角形だって難しいだろうに、正五角形なのである。

フランス人の建築技師に手ほどきを受けたらしいが、江戸時代に日本で独自に発達した数学「和算」の知識も動員されたのにちがいない。

 

こうしてつくられた五稜郭は、戊辰戦争が起こったときに、すぐに戦場となったわけではない。

京都で大政奉還がおこなわれると、遠く離れた北海道(当時は蝦夷えぞち)では、五稜郭に置かれていた箱館奉行所が、いったん新政府へ一滴の血も流されずに委譲されたのだった。奉行には、京都から清水谷公考というお公家さんがやってきて箱館府知事として就任した。

ところが、そのあと本州から土方歳三榎本武揚旧幕府軍が落ちのびてきて五稜郭を獲ろうとしたものだから、いくさに慣れないお公家さんはさっさと五稜郭を明け渡し、津軽海峡を渡って青森へ逃げていった。

その後、土方歳三たちはこの五稜郭を政庁として「蝦夷地共和国」の構想をいだくのである。

明治日本とは別個の日本を北の大地に建設しようとしたわけだ。

 

しかし、やがて新政府軍が北上してきて北海道に上陸し、現在の函館山函館駅のあたりを占領する。

土方歳三は、函館山に取り残された友軍を救出するべく、わずか50名の兵を率いて五稜郭を出て、箱館市中へ斬りこみをかけようとした。

 

函館市街と五稜郭が少し離れているからこそ、こうしたことが起こったわけである。

そのとき土方歳三は、この道を行ったと考えられる。

 

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手前が五稜郭、向こうに見えているのが函館山である。

 

とちゅう、新政府軍の占領地区である箱館の町へ入る手前に関所が設けられていた。

こんにちの「一本木関門」である。

土方歳三は、ここを馬で突破しようとして新政府軍の銃弾を浴び、落馬して絶命した。

そこは、今では函館市の総合福祉センターの庭となり、このようになっている。

 

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土方歳三の最期は、幕末を舞台にした多くのドラマで取り上げられてきたが、なんといっても劇画のようにドラマチックである。

花神」ではたしか、長塚京三の演じる土方歳三は、新政府軍に誰かと問われて、こんな最期の言葉を吐いていた。

「何用か、だと? 新撰組の副長が、わざわざ新政府軍の陣中に罷り越すとなれば、それは斬りこみに行くだけの話よ!」

それを聞いた新政府軍側の銃砲が、土方をめがけいっせいに火を噴いた。

 

 

 

 

ここで私の空想は、彼らが考えていた「蝦夷地共和国」というコンセプトに向かう。

もし、土方歳三榎本武揚箱館で新政府軍を追い返していたら、北海道に共和国という政体が誕生していたことになる。

そこでは、内地(本州)から渡ってきた旧幕府軍と、先住民であるアイヌとのあいだに、いったいどのような関係性が築かれたであろうか。

中国の国共内戦で台湾に渡った国民党政府のようになっていたのだろうか。

明治新政府天皇を頂点に据えた、いわば帝政であったことを考えると、それよりも遥かに歴史的に進化した政体を、旧幕府軍は実現しようとしていたわけである。

政務を執る者も選挙でえらぼうとしていたそうだから、明治政府が22年後に天皇の名で公布する憲法や、57年後に施行される普通選挙法などを先取りしようとしていたことになる。すごいじゃないか。

 

土方歳三自身、尊皇の志もあったようだが、蝦夷地共和国ともなれば、もはや天皇は関係なくなる。そのへんはどう考えていたのか。

 

インタビューしてみたい。

 

 

 

 

函館を出発し、北海道駒ケ岳を右に見て北上する。

原生林の中を進む函館本線の各駅停車に揺られて札幌をめざす。

 

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ふいに列車が急停車した。

 

録音された女性の声でなく、運転士の肉声が車内放送で説明する。

 

「線路内にシカが立ち入りましたので、急停車いたしました」

 

はじめギャグかと思ったら、車内は誰も笑っていない。

どうやら本当らしい。

北海道に来たな、と思った。

 

長万部おしゃまんべでは、次の列車への接続まで2時間あったので、海岸へ行って過ごした。

北の海でも、ここは渡島半島にぐるりと囲まれた内海であるためか、波は静かである。

  

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どこかから牛糞のにおいが流れてくる。

牧場が近いのだろう。

 

沖縄の海岸では豚のにおいがしたが、北海道では牛というわけだ。

 

足下に目を落とすと、落ちている貝殻の種類が、これまた沖縄とまるきりちがう。

ホタテ、ホッキ、ハマグリ、……ごていねいにもズワイ蟹の足まで流れ着いている。

まさに居酒屋の台所とみまがうほどであった。

 

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やっぱり今日もひきこもる私(315)東京のひきこもり、北海道へ向かう<4>海峡という舞台

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青森駅のホーム この先は津軽海峡



by ぼそっと池井多

 

福島を出て、奥羽本線の全駅に停まりながら、ほぼ12時間で終点の青森に着いた。

東から来る旧・東北本線も、西から来る奥羽本線も、共に北の海を目指すかたちで合流し、青森駅へ流れこむ。

上の写真は、私の乗った列車が到着したホームから北の方向を眺めたものだ。

なにやら「無駄に長い」、誰もいないホームが延々と北へ伸びている。 

これこそは国鉄青函連絡船を運航していた時代の名残りである。

高校3年生のとき、私は東北本線の夜行急行「十和田」で青森駅に降り立ち、このホームを進んで、そこから青函連絡船に乗った。

煩雑な手続きは何もなく、まるでベルトコンベアーに乗ったように人の流れに身を任せていると、いつのまにか船上の人になっていた。

当時の突堤には、青函連絡船に使われた「十和田丸」が、国鉄のJNRのマークを煙突に残しながら、博物館となって停泊している。 

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青森駅の北側にも、鉄道の線路が退避線のように伸びているが、8本が4本、4本が2本、2本が1本としだいに減っていくところが、なんとも「北の果て」を感じさせる。

下の写真は、最後の2本が1本になるところ。

この近くに「津軽海峡冬景色」の歌碑がある。

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北海道新幹線などという代物ができて、人は乗り換えることなく鉄道に乗ったまま津軽海峡を越える時代になった。

そんな現代において、昭和の時のように船で函館に渡ろうとすると、えらい手間暇をかけなければならない。

まずは青森駅を出て、駅前のバスターミナルから本数の少ない市営バスに乗り、フェリー乗り場を目指す。

フェリーの発着場は、なぜか連絡船の発着場だった青森駅から離れているのである。

 

  ♪ 北へ帰る人の群れは誰も無口で...

 

という石川さゆりが歌った「津軽海峡冬景色」とついになるのが、北島三郎の「函館のひと」であった。

 

  ♪ は~るばる来たぜ、函館ーっ!

   さかまく波を乗り越えてー

 

という始まりでおなじみの、だいぶ能天気な唄である。

 

あれは昭和の日本人のジェンダー観を示しているのではないだろうか。

津軽海峡冬景色」では、女がしおらしく傷ついて北へ帰っていくのであり、「函館の女」では、陽気な男が恋する女性に再開したくて北へやってくる。

そこでは、函館に暮らす女は、津軽海峡を渡ってくる男を、今でも熱い想いをもって待っているという設定になっている。

少なくとも、男の頭の中ではそうだ。

 

ところが、そこがどうもリアルではない。

勝手に女が自分を待っているとナルシストの男が思い込み、胸をときめかせて彼女の住所を訪れたら、そこには別の男と住んでいる女がいたり、あるいはそこまで行かなくても、女には迷惑そうな顔をされて、海を渡ってきた男の内的世界に破滅カタストロフが始まる、という話のほうがはるかに現実的である。

 

 

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青森港から見る津軽海峡。海の向こうに見える山影は、おそらく北海道ではなく、下北半島だろう。

 

高校3年生でこの海峡を渡ったときと、初老とも言われる年齢でふたたび同じように海峡を渡る私のあいだには、はたして何があったのだろう。

地獄のような孤立を味わった大学時代。

絶望して死のうと思い、いつのまにかアラブやアフリカを放浪していた20代。

アフリカ大陸の南端、喜望峰を眺めたときには、なかば乖離しているような状態だった。

それから日本に帰ってきて、今度は「うちこもり」の年月が過ぎていき、麻布村の精神医療に生活も人生もからめとられて15年近くを浪費した。

気がつくと、すでに身体のあちこちが老朽化しはじめ、人生は「まとめ」の段階に入ってしまっている。

私の心も頭も、あのころ海峡を越えた高校3年生と何も変わらない気がするのだが・・・。

 

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ごらん あれが龍飛岬と  見知らぬ人は指をさしてくれない

 

この津軽海峡を舞台にして、多くの物語が書かれ、歌が唄われてきた。

連絡船やフェリーというものが、物語や歌を成り立たせる小道具として必要であるならば、それは本州と九州を結ぶ関門海峡でも、岡山と香川を結ぶ宇高連絡船でも、はたまた対馬隠岐の島や小笠原諸島へむかうフェリーでもよかったはずだ。

しかし、それではどうも「画」にならない。

やはり津軽海峡でなくてはだめだ。

作者たちは、そう考えたのにちがいない。

 

理由は何だろうか。

まず片道約4時間の航路という、時間的な長さが適切なのだと思われる。

10分で着いてしまっては夢や物語が展開しない。かといって、一日かかる行程だと間延びしてしまう。

 

そして、航路の両端に、同じくらいの規模の都市空間が存在していることも重要だ。

これが隠岐の島や父島となると、一方が「離島」、もう片方が「本土」となって、格差が生じてしまうので、

「あちらの世界へ行ったり、こちらの世界へ来たり」

という双方向の関係性が変わってしまう。

 

さらに、何といっても海峡が東西に横たわり、それを横切る航路が南北一直線に延びていることも要件の一つだろう。

「北へ帰る」「北へ行く」

といったベクトルがここに生まれる。

「は~るばる来たぜ 函館!」

という能天気な男が放つ威勢のよいナルシズムも、北へ一直線のベクトルから発せられている。

 

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はるばる来たぜ、函館。

 

 

 

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