スパゲッティの惨劇
親がさんざん好きなように自己実現してきたために子どもがひきこもりにならざるを得なかった家庭で、 「親は親の人生を生きてください」 などと言えるか。
ひきこもり界隈で過活動する親やきょうだいを持っているために、よけいにひきこもらざるをえない当事者たちの問題を続けて考える。
謝るべきときに、ちゃんと謝る人ならば、ここまで謝ることを要求しない。しかし、ぜったいに謝らない人となると……
「裏は取れたのか」 NHK上層部は、私に不可能なことを求めていた、ともいえる。
商品の偽装表示のように、シニフィアン(意味する記号)がシニフィエ(意味される内実)を裏切る、ということがこの世界にはしばしば起こる。 その最たるものが家族写真だろう。
家族旅行は、家族の幸福の象徴。 象徴(記号)であるということは、実体とかけ離れていくということだ。 私にとって家族旅行は地獄だった。
20代、アフリカへ死にに行こうとしたとき、最後に家族旅行をしておくことになった。そのとき、中央高速を走りながら母が言ったことばが忘れられない。
娘には、母は女として競合してしまうから毒母となる。息子には、女として競合できないから毒母とならない。 そんな俗説を検討する。
母の目には、私はどのような存在として映っていたか。
家族会議が終わって、虐待母が示した反応とは。
「かわいそうに」という言葉に愛情の物差しを見いだした。
私が北海道へ行っているあいだにAERAに出ていた。そこにはひどい専門家のコメントがついていたのである。
「かわいそうに」という言葉が、ただ憐愍を乞うみっともないだけでなく、家族の中の関係性を測るのに、重要な指標になっている。
母が、私にけっして言わなかった言葉がたくさんある。 「かわいそうに」 もそのうちの一つだ。
まぶたを閉じれば、母の姿が思い浮かぶ。 それは、ひたすら私を責めてくる母だ。
男性がその問題を語ると馬鹿にされた。だから男性は語れなかった。するとその問題はないことにされてきた。
「大事な時に体を壊す」のは癖ではなく疾病だ、ということであの炎上事件は沈下したが、そんな簡単な問題でもあるまい。大事な時に疾病にかかるように、ひごろから鍛錬している者もいるのだ。たとえば、私の母のように。
「あっ、お腹いたい!」 都合が悪くなったときの母の隠し玉。 こうして私は何も悪くないのに土下座をさせられ、自尊心の芽を摘み取られてきた。
9月1日は多くの学校で2学期が始まり、夏休みの宿題を学校へ持っていく日である。私の場合、そこには暗黒の記憶がこびりついていた。……
コロナ下で、 「今年は帰省するべきか否か」 と人々が悩んでいる。
フランス5の女性ディレクターとの論争が噛み合わないのはなぜか。
私と父のあいだには、父と息子らしい熱い衝突はなかったのではないか。
コロナ禍の下、80代の両親はどうしているどうか。…… ところが、私の場合は、そうした心配だけで終わらない。
戸籍謄本は、母がまだ生きていることを物語っていた。そのとき私の脳裡に去来する母の言葉。……「あ、おなか痛い!」
写真・ぼそっと池井多 by ぼそっと池井多 前回「やっぱり今日もひきこもる私(234)」に続けて、私が横浜へ戸籍謄本を取りに行ったお話をさせていただく。 伝説の地名 横浜は、私の母方の地である。 父は東京・足立区北千住の人であったが、母と結婚して、新…
戸籍謄本を取るということは、そこに住んでいる親の消息がわかるということだ。こわい。
「親の死に目に会えない」は懲罰として機能するのか
いかに自分は周囲とちがうかを語ることが当事者発信の原点。それを美しく表現した言葉がある。
「養ってもらっているんだから、ありがたいと思いなさい!」 今だったら「頼んでないわっ!」と蹴り倒すところを。
なぜ私は海外ひきこもりになったのか。その理由の根源に迫ってみた。 在日へのあこがれ。異邦人性。そして「そとこもり」の心地よさ。……