VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(2)「主体」の小さな歴史

性虐待と主体(1)」からのつづき・・・
 
by ぼそっと池井多
 
 
私たちチームぼそっとは、コメント欄を通じて
サティさんに質問してみた。
 
 
私たちの仲間では「従兄弟のお兄ちゃんや習い事の先生」などにそういうことをされ、それがもとでさまざまな後遺症を発症して悩んでいる人びとがいます。
サティさんとは、性や「官能の時間」のとらえ方がちがうからか、と思いました。また、そういう秘め事に向かう姿勢がサティさんは客体的でなく、主体的であったからでしょうか。
 
サティさんの答え。
 
主体的といえば私はとても主体的かと思います。
 
 
 
 
 
主体ということばは、
筆者はその時代、まだ大人でなかったのでリアルには知らないが、
かつて1960年代、すなわち大学紛争のころは
社会にあふれかえっていたようだ。
 
そのころ出版されたものを読むと、
主体的批判
主体的な関わり
主体的な問題意識
などなど、とにかく主体、主体のオンパレードである。
 
実存主義の勃興などに牽引されることばとして
当時は一種の流行だったのだろう。
主体、主体と言っていれば、
インテリらしく、もっともらしく、かっこよく
聞こえたのかもしれない。
 
それだけに、
本当はどこまでわかっているか、怪しいながらも、
まるで念仏のように
猫も杓子も主体、主体と言っていたきらいもあるのではないか。
 
そのためだろうか、
70年代になると揺り戻しがやってきて、
主体はどことなく「ダサいことば」になり、
クールな若者はあまり口にしなくなった。
 
60年代の大学紛争が
70年代には過激派の内ゲバなど
不毛な結末へ向かっていったことも関係するだろう。
構造主義が入ってきたことも影響するだろう。
 
そして80年代、
ポストモダンなどと云われ軽佻浮薄な時代になると
もはやお堅い出版物や論文にだけ使われ
一般社会ではあまり使われないことばへと
主体は追いやられてしまったような感がある。
 
90年代、主体への追求は
自分探しへと姿を変え、
イデオロギーの代わりに宗教に出口を求めたが、
1995年オウム真理教による一連の事件により、
ストップがかけられた格好になった。
 
こうして、政治にも宗教にも出口を求めなくなった若者は、
何の理論でコーティングすることもない
幼稚なまでに素のままで手づかみのテロリズムとして
2008年秋葉原事件に代表されるような
無差別テロ事件へと向かったのだと思う。
 
最近ではPC遠隔操作事件などがそうだろう。
 
 
精神医学の世界では、2000年以降になると、
 
「人はだれでも多重人格
 
つまり、
「その人に固有の、一つだけ存在する人格などというものは存在しない」
ということがスタンダードになってきた。
 
そうなると
一つの人格を土台として語られる主体など
あまり語るに値しないと思われがちである。
 
こうして、
主体ということばは、
いよいよ世の中の隅っこに追いやられ、
すたれてきているような気がする。
 
しかし、
なにも哲学や社会学の論文でなくても、
やはり主体ということばでしか
表現できないと思うこともあるのだ。
 
とくに、虐待の世界の話となると
そうであるように思えてならない。
 
そこで次回は、
現在使われている性虐待の診断基準と照らし合わせながら、
この問題の入口を考えてみたい。
 
 
・・・「性虐待と主体(3)」へつづく
 
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