VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(4)被害者の「客体」

性虐待と主体(3)」からのつづき・・・

#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害

by ぼそっと池井多

 

では次に、
被害者となる人は、なぜそのとき客体であったか、
ということが問題になるだろう。
 
客体的になるには、いろいろな理由が考えられる。

f:id:Vosot:20190714141121p:plain

一つの場合はマゾヒズムである。
性行動において、手足や身体を緊縛されるなど、
自ら進んで主体的な自由を放棄することに
快楽をもとめる場合である。
 
ふだんマゾヒスティックな
性行動をしている人でなくても、
多くの人に傾向は潜在していると言われる。
 
裏を返せば、マゾヒズムとは
けっして健全な市民社会から隔絶した
異常性欲といった世界のことに留まるのでなく、
おおかたの人にとって想像のおよぶ範囲の現象である。
 
マゾヒズムを何倍も水で薄めたような行動は
私たちの日常生活のあちこちに見いだされる。
 
しかし、
それは今、本稿のめざすところではないので、
ひとまず脇に置いておこう。
 
いま考えるべきは、
あくまでも性行動の中でのマゾヒズムである。
 
だれにも脅されることなく
大人がマゾヒズムにひたるときには、
ある意味、主体的に客体となっている
と言えるだろう。
 
マゾヒズムにひたることを
本人も問題だと思っていたり、
「これはやめなくちゃ」と悩んでいたりするのなら、
それは、本ブログの「殴られ続ける私」に出てくる
ウツコさんの「バタード」と同じように
マゾヒスムを症状(*)という次元でとらえてみる必要があるだろう。
 
*:ちなみに、世界的な精神科診断基準の最新版
とされるDSM-5(2013年5月発表)には、
Sexual Masochism Disorder(性的マゾヒズム障害)
という病名もしくは用語があり、
Paraphilic Disordersに分類されている。
 
わざわざ「Sexual」がつけられているところが
ミソである。
 
なお「Paraphilic Disorders」は、以前の訳し方につられれば
「性倒錯障害群」とでもなるところだったが、
日本精神神経学会の日本語版では「性倒錯」は避けられ
「パラフィリア障害群」とされている。
 
すると、
なぜ、そのような症状を呈するようになったのか
を次に考えるようになる。
そこに「語り」の出番がある。
 
反対に、
もしマゾヒズムが、
本人にとってぜんぜん悩みの種などではなく、
むしろ楽しみであり、
その人の性行動の好みの一種としてしか
本人に認識されていないのなら、
周囲があえてそれを
症状と名づける必要があるだろうか。
 
たとえばマゾヒズム文学の傑作
O嬢の物語』の主人公O(マドモアザル・オー)がやっていたことは、
あれは症状だったのだろうか。
 
これは、かんたんに「そうだ」と言えない問題である。
そこには、個人の自由や尊厳、さらに人権の問題がからむ。
 
「大人なんだし、本人が好きでやってることなんだから、
 ほうっておけばいいじゃない。
 っていうか、尊重しなくちゃいけないんじゃない」
という話になる。
 
それはそうなのだが、
なにがしかの結論を出して、いろいろなことにあてはめようとすると、
お酒からタバコから買い物から
すべての依存の対象に話題が広がってしまい、
けっきょく
障害ってなに?」
倒錯ってなに?」
というお話になっていく。
 
それはまた別の機会にでも、
ということで
ここではあえて突き詰めないでおく。
 
反対に、マドモアザル・オーとはちがって、
 
「わたしが被害にあったとき、すでに大人だった。
 でも、ノーと言えなかったのだ」
 
というのであれば、その場合はむしろ、
なぜひとりの大人として「ノー」が言えない人になったかについて、
つまり、
なぜ「AC」的な人間になったかについて
人格形成の道筋をさかのぼる必要が出てくるだろう。
 
それはすでに
主体的に客体になったのではないから
マゾヒズムですらないことになる。
 
 
 
 
 
 
いささか寄り道をさせていただいた。
 
ここで主体客体として考えているのは、
子どものころ、とくに思春期以前において
性的体験に遭遇した時の意識の持ち方である。
 
そのとき、なぜ客体的となったか。
いろいろな理由が考えられる。
 
一般的には、
虐待者が加害行為をおこなう前に
なんらかの方法で
被害者となる者の主体うばった
という場合が多いのではないだろうか。
 
つまり
「『いやだ』とは言えない環境づくりから
 虐待者が入っていった」
というケースである。
 
なかなか入念な虐待者であることだろう。
それだけに虐待行為そのものは陰湿さを帯び、
そのぶん被害者の心へ与える傷も深く、
後遺症も長く続くことが考えられる。
 
とりあえず私はこのプロセスを、
 
主体剥奪(はくだつ)
 
と名づけてみたいと思う。
 
 
 
  •      

    顔アイコン

    はじめまして。
    記事が、最近私が感じていることと近いように思われたので、書き込みさせていただいています。
    私は「イヤだと言えない環境」で育ちました。
    性虐待ともいえないような微妙なラインでの両親共謀による辱めは、狡猾・淫靡・巧妙でした。愛情・思いやり・道徳心と絡み合っているようで、幼い私は混乱していました。彼らには悪意がなかった事を知っていたので誰にも文句を言えなかった。
    でも状況が「あまりに恥ずかしすぎた」ので、イヤだとすら言えず更なる悪循環。自分を捧げ出すことでしか状況をやり過ごせなかった。
    自分の羞恥心を狂わせ鈍らせることで生き延びてきました。
    幾分狂ってしまったままの私の羞恥心の在り方には、マゾヒズムも混じっているのかもしれません。 削除

    [ mf ]

    2014/7/14(月) 午後 0:45

    返信する
  •      

    mfさま コメントをどうもありがとうございました。

    「性虐待ともいえないような微妙なラインでの両親共謀による辱めは、狡猾・淫靡・巧妙でした。愛情・思いやり・道徳心と絡み合っているようで、幼い私は混乱して」でも「あまりに恥ずかしすぎた」という言語化しにくいにもかかわらず、人格の基本的なところに傷を残す精神的虐待は、まさに筆者の体験と同じで、深い共感をおぼえます。

    マゾヒズムも、つきつめていくと、まことに厄介な代物ですね。 削除

    チームぼそっと

    2014/7/14(月) 午後 1:59

    返信する
  •      

    本人たちが良ければ良い、症状と名付ける必要はない、という考え方には、私は賛同できません…

    私はそれこそ、児童期性虐待の被害者なのですが、父方の家系も母方の家系も、非常に性的に奔放な家系です。
    特に父方の家系では、近親相姦に対する願望なども、大っぴらに語られていたようです。

    私は、父・母・父方の祖母・母方の祖父から、児童期性虐待の被害に遭いましたが、4人とも、児童期性虐待という「暴力」を行使したのではないのです。

    4人とも、そういう被害に遭っても被害とは感じていなくて問題も抱えなかったから、児童期性虐待というものが「暴力」であるという事を知らないまま、ただ、自分たちがされて嬉しかった事を、私に対してもやって、喜ばせようとしたに過ぎなかったのです。

    こういう形の虐待の連鎖もあります。
    だから私は、自分たちが良ければという考え方には、賛同しかねるのです。

    ズレたコメントですみません。 削除

    [ cult ]

    2014/7/14(月) 午後 1:59

    返信する
  •      

    cultさま コメントをどうもありがとうございます。

    「本人たちが良ければ良い、症状と名付ける必要はない」かどうかは、文化という普遍的な事象の在り方そのものにも関連する、まことに深い問題ですね。

    必要が「ある」と言い切ってしまうと、自分たちと異なる文化を持つ人々を片っ端から精神障碍者扱いしていくこともつながりかねません。一方、それを「ない」とすると、cultさんのおっしゃるような、それが虐待だという知識もなく閉鎖された集団の中で起こっている「虐待の連鎖」を放置することになりかねません。

    どこで線を引くかは熟考に値するでしょう。そのために危機介入のタイミングについて専門家の議論が尽きないのだと思います。 削除

    チームぼそっと

    2014/7/14(月) 午後 2:14

 

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020