VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

無差別殺人犯を読む(16)なぜ「虐待」という語を避けるのか

無差別殺人犯を読む(15)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

 

秋葉原事件の実行犯、加藤智大は、
数々のいちじるしいアンバランス、不均衡をかかえている人だといえる。

前回、「無差別殺人犯を読む(15)」では
そんなアンバランスの一つを指摘させていただいた。

 

すなわち、
17人もの無関係な市民を殺傷しておきながら、
それを批判されることに関しては無頓着で、
そのくせ、
自分の人格形成と母親との関係を考えることに関して、
世間からの批判を過剰なまでに気にしている点である。

 

このアンバランスが気になるのは、
私ぐらいなのだろうか。
世の知識人たちが書いた秋葉原事件への論評でも、
この指摘はあまりお目にかかったことがないのである。

 

さらに言うならば、
加藤智大が、自分の被害体験を語るときに
注意深く「虐待」という言葉を避けるのも、
じつはこの点と通じているように思えてならない。

 

たとえば彼は、母親がしたことについて
「虐待」ではなく「不適切な養育」と書くことに
こだわっている。

その理由はこうではないか、
と私は推測する。

……。

 


何の先入観もなく、とつぜん
虐待
という言葉を聞いたとき、
人はどのような光景を思い浮かべるだろうか。

 

たとえば、
アメリカ軍がイラクやアフガンで
捕虜に対してやっている(らしい)ことは、
「虐待」と呼ばれる。

 

たとえば、
無力な2歳の幼児が
食べ物もあたえられず、
鍵を閉められたマンションの一室で殴られていることは、
「虐待」と呼ばれる。

 

このように「虐待」とは、
これまで生きてきた私たちの語感において、
そのように凄惨で、残酷で、
その現場に立ち入った者がすぐそれとわかるような
明示的な残虐行為、
つまり
明快なむごたらしさをともなう行為である
と考えられてはいないだろうか。

 

殴る、蹴る、縛り付ける、飢えさせる
といったような
「見ればすぐに虐待とわかる行為」
でない場合は、
逆にいえば、
人に虐待だとわかってもらえない。


ここに、トートロジー(同語反復)の罠があるのだ。

「見て、虐待だと思わない行為が、
 虐待じゃなくて、当たり前じゃないか」

という人が出てくるのである。

 

 

辞書を調べても、この問題は解決しない。

たとえば三省堂 大辞林には、

 

虐待(ぎゃくたい)[名詞(-スル)]  むごい取り扱いをすること。

 

とある。

単なる「取り扱い」なのでなく、
「むごい」取り扱いのことである、という解説である。

しかし、ここで、むごいという特徴づけが、
「誰にとって」むごいのか、
までは言葉の意味として規定されていない。

 

されている者にとってむごいのか。
している者にとってむごいのか。
はたまた、
その場に入って見た者、目撃者にとってむごいのか。……


こんなことを見てきたうえで、それでは、
加藤智大の体験はどんなものであったのか、
読んでみよう。

 
母親はというと、自分が絶対的に正しいと考えている人でした。母親の価値観が全ての基準です。その基準を外れると母親から怒られるわけですが、それに対して説明することは許されませんでした。一応、「なんで○○しないの」と怒られるのですが、「なんで○○しないの?」ではなく、「なんで○○しないの!」と、質問ではなく命令でした。「なんで○○しないの」と言われて説明しても「そんなことはいいから○○しなさい」とさらに怒られるだけなのですから、私は次第に何も言わなくなりました。
 
加藤智大『解』P66
 
 

この体験を、
先に挙げたような
イラクやアフガンの捕虜や
密室に閉じ込められた幼児の体験と比べるとどうだろうか。


「こんなの虐待ではない」

と言ってしまうことはいともたやすい。

この文章に述べられている行為だけを切り取ったならば、
そこに入ってきた第三者にとっては、それは
「虐待」と呼ぶのにふさわしいほど
むごたらしい行為だと見えないだろう。

明示的な残虐行為、
明快なむごたらしさをともなう行為ではないからである。


だから、もしこれを筆者である加藤智大が、
「虐待」と書けば、
世間の多くの人々にとって、
彼は、ここで使うには強すぎる言葉を
用いているように読まれる恐れがある。

誇張だ、被害妄想だ、
とあざ笑われる恐れがある。

そして、それだけ
彼が母親を不当に非難しているようにとられるのである。

すると、
「人のせいにしている」
「成育歴のせいにしている」
「無責任だ」
という批判を浴びることになる。

……そのように、加藤智大は考えたのではないか。

もちろん、意識化して
そのプロセスを追ったわけではないだろうが、
瞬時の判断としても、
彼の思考の背後にあったものは、
そんなことであったろうと私は推測する。

ゆえに彼は、
「虐待」と書かないのだろう、と。……

 

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しかし、人の日常生活は点ではない。

大人だけでなく、子どもの日常生活もまた然り、である。

それは、
線であり、
面であり、
それ以上の複雑な何かである。

母親と子どもの関係性、
母親と父親の関係性、
周囲の大人たちや地域社会との関係性など、
いろいろな空間的背景を素地として、
連綿と続いている歳月がおりなす何かである。

たまたま目撃する第三者にとって「むごいものではない」ことでも、
されている本人にとって「むごい」ことはいくらでもある。

だから、されている本人である加藤智大が、
もう少し自分に開き直れば、
「虐待」と言い切ったかもしれないのだが、
悲しいことに彼はACとして、
客体優位に育っていたのだろう。

そのため、すばやく、
見ている第三者の視線を自分の中に取り込んでしまい、
「虐待」という言葉を避け、
その代わりに、
いささか控え目に
「不適切な養育」
という。

「不適切な養育」という言葉がまちがっているというのではなく、
無用に第三者の視線を自分の中に取り込んでしまったことが、
まちがいのもとではなかったか、と思うのである。

……。
……。


加藤智大よ。
もう少し自分に開き直ればよかったのに。

そうすれば、17名もの無関係な市民が
殺傷されないでも済んだかもしれないのに。

加藤智大は、一人の無関係な市民を殺傷するよりも
自分の母親に

あなたがやったことは虐待だ!

と言ってやった方がはるかによかった。
あるいは社会に、
そう触れて回った方がはるかによかった。


ほかならぬ社会のためにも。
彼自身のためにも。
そして、
彼の母親のためにも。


・・・「無差別殺人犯を読む(17)」へつづく

 

 

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  •       

    2014/12/20(土) 午前 10:48 内緒の方 コメントをどうもありがとうございます。
    おっしゃるようなメカニズムといいますか、ある種の悪循環が働いていると思います。

    ただ、いまの日本では、男性であると「気づく」ことにすら自動制御装置が働く場合が多いように思われます。それを、言葉で掘り起こすことができれば、と考えております。 削除

    チームぼそっと

     

    2014/12/20(土) 午後 1:58

     返信する
  •       

    2014/12/20(土) 午後 2:48 内緒の方 コメントをどうもありがとうございます。
    おっしゃるとおり、概念と対応する適切な言葉がなくても、やがて言葉ができていくものかもしれません。しかし、それは自然な浄化作用を待つようなもので、時間がかかることは覚悟しなければなりませんね。 削除

    チームぼそっと

     

    2014/12/21(日) 午後 4:22

     返信する
  •       

    2014/12/20(土) 午後 8:08 内緒の方 コメントをどうもありがとうございます。
    こちらに痛手がなければ「そのまま寿命で死んでもらう」だけでもけっこう良いのかもしれませんが、あったときに、どのように責任を取ってもらうかという問題はあるかもしれませんね。 削除

    チームぼそっと

     

    2014/12/21(日) 午後 4:25

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