VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

無差別殺人犯を読む(17) 「不適切な養育」という語

無差別殺人犯を読む(16)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

 

親の子への接し方に
「虐待」ということばが使われ始めたのは、
もう20年以上も前、
1994年ごろである。

 

それまでも、親から子への虐待がなかったわけではない。
今日でいう虐待で子どもが死に至っても、
「突然死」
「不審死」
「事故死」
などとして処理されていた。

 

児童虐待防止法ができたのが
15年前、2000年。

このころまでには、いちおうオフィシャルには、
親が子どもを殴ったり蹴ったりするのは
「しつけ」という言葉ではごまかせない、
ということになった。

 

すると今度は、
「殴ったり蹴ったり」
に焦点が当たってしまい、

「殴ったり蹴ったりしなければ、
 どんなにひどい目にあわせても虐待ではない」

というとらえ方をする人もあらわれた。

 

そういう考え方を是正するために

「精神的虐待」

「情緒的虐待」

といった言葉がつくられたのだが、
もともとの「虐待」という言葉には根強く
「殴ったり蹴ったり」
というイメージがへばりついているらしく、
なかなか正しく普及していっていないように思うのだが、

いかがだろうか。


いっぽう、
「虐待」が児童問題に登場した1994年ごろには、
言葉狩りが流行していたことも
背景として考えなくてはならない。

 

政治的な正しさなるものが盛んに振りかざされ、
呼称のささいな違いを指摘するのに
多くの知識人たちが躍起となった。

それだけを生きがいに生きているような知識人もいた。

 

たしかに、呼称によって左右されるイメージもあるが、
逆に、呼称を改めただけでは、
心の差別は改まらないことも多い。

新しい呼称をつかうことで、
自分の差別感情はすべて免罪されている、
という自負が、
気持ちを深い所で揺りもどし、
幾重にもねじり上げた皮肉として
新しい呼称に倍加された差別感情をこめる者も出てくる。

 

こうして、もっとわかりにくい水面下に
問題の核心がもぐっていってしまう場合とてあるだろう。

そういう問題を、
表層の問題、すなわち
呼称や用語の問題だけに帰着する方が楽なので、
人々が言葉狩りに狂奔していた側面もある。

 

しかし、それは「楽」であるのと同時に
問題のすりかえでもある。

ある語を使ってはならないとされるがあまり、
その語によって意味される問題を
表に出して語ることすらしなくなり、
問題の解決が先送りされるのでは、
本末転倒と言わなくてはならない。

 

1990年代、大江健三郎は、
断筆宣言をした筒井康隆に、

「社会に言葉の制限があるのならば、
 新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」

といったという。


もしかしたら、十数年も経って、
「虐待」を「不適切な養育」と言い換える風潮は、
そのような流れを汲みとって出てきたのだろうか。


だが、

「虐待」か「不適切な養育」か

という用語論争にしてしまうのは、
あまりにも不毛であろう。


それでも、われながら
「虐待」
と書くと、
強制収容所で捕虜にやられているような
残虐性がはっきりと第三者にわかるような行為が連想されて、
書きながら、一抹の居心地の悪さを感じる。

 

また、これを親子関係の事象にあてはめるなら、
「虐待」という言葉が出てきた1994年当初の事例のような
幼児を密室にとじこめて食事もあたえないような
やはり
残虐性がはっきりと第三者にわかるような行為が連想されて、
書きながら、一瞬のためらいを覚えることがある。

 

こうした居心地の悪さやためらいに含まれる成分は、

「自分は誇張をしていると思われるんじゃないか」

という気持ちといってもよい。

 

ある意味で私より感受性のするどい、
秋葉原事件の実行犯、加藤智大は、
この居心地の悪さやためらいが、
私よりもはるかに敏感に感じられたのではあるまいか。

 

・・・「無差別殺人犯を読む(18)」へつづく

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