VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

無差別殺人犯を読む(18)「つまようじ少年」が求めたもの

無差別殺人犯を読む(17)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

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商品棚のスナック菓子につまようじを混入したり
自分が万引きをする様子を撮影し
動画サイトに投稿していた「つまようじ少年」が、
昨日朝、滋賀県米原駅で身柄を確保された。

1980年代に西ヨーロッパで若者たちが、
資本主義社会を批判するために、
手にした商品を持ったまま店の外に出てきてしまい、
「万引き!」
と店員らに取り押さえられ、
人々が集まったところで
自分たちの社会的主張を述べるという、
劇場型犯罪」ならぬ「演劇的犯罪」をもちいた
ムーヴメントが流行したことがある。

もし「つまようじ少年」が言う
少年法を改正するため」
という動機がほんとうなら、
これはそうした「演劇的犯罪」の一つであった
ということになるだろう。

しかし、私は
「つまようじ少年」のほんとうの動機は
もっと他のところにあるのではと思う。

彼は、自分を止めてくれる存在を求めていた。
だが、この存在は
「止める」ことによって「止めない」、
あるいは
「止める」ことによって彼の中にあるものを吐き出させる
というような、
いわば弁証法的なはなれ技を
演じてくれる存在でなくてはならなかった。

つまり、象徴的に「父」である。
つまようじ少年もまた、
多くの無差別殺人犯らと同じく
警察という国家機構に「父」を求めてしまったのだろう。

彼の行動は、
すなおな人から見れば、
きっと矛盾が渦を巻いている。

「警察よ、つかまえてみろ」
と言いながら、わざわざつかまらないように逃げ回る。
少年法を改正するため」
と言いながら、自らが少年法の対象となる年齢である。

そもそも彼が言っている、
「未成年が犯罪をおかしても刑務所には行かない」
という少年法の認識は必ずしも正しくないのだが、
もし彼がそういう認識を持っていたとするならば、
少年法を改正せよ」
という論者たちは、
彼自身のような未成年の犯罪者たちを憎むはずなのである。

もっとわかりやすくいえば、

「おまえ!
 未成年だから刑務所に行かないと思って、
 いい気なことやってんじゃねえよ。
 世の中、甘く見てると、思い知らせてやるぞ」

と自分に言ってくるような人たちを
少年は犯罪をおかすことで「助けて」いることになる。

自分を怨嗟の対象とするような人たちの希望をかなえるために
一連の犯罪を犯している、
というところに、
もう一つの矛盾が渦を巻いている。

けれども、これらの矛盾は
人間の心のうごきに必ずといってよいほどつきまとう
闇の弁証法である。

闇の弁証法は、
使い慣れた手つきでYouTubeをつかいこなす
彼の動画にあらわれている。

彼の動画(*)はどれも、
怒りと自虐に満ちている。

きわめて屈曲したかたちで
自己存在が誇示されている。

*例:https://www.youtube.com/watch?v=gIgJe2kLUEc

 

いや、それらの淵源は一つなのかもしれない。
彼の発する怒りのうち
自分に向けられたものが自虐なのだろう。
屈曲しているからこそ誇示できるのだろう。

 


20年前の神戸連続児童殺傷事件において
まだ中学生であった実行犯、酒鬼薔薇聖斗が言った

「無能な警察の諸君、ぼくを止めてみたまえ」

という劇画ふうのセリフを
そっくりコピーしたような稚拙な挑発を繰り返し、
秋葉原男のような無差別殺傷事件の再来をほのめかしながら、
少年は西へ西へと逃走をつづけた。

米原駅でつかまって、
いちばんほっとしたのは
きっと本人であっただろう。

彼が結果的に
ひとりの人間も傷つけず、殺さなかったことに注目したい。

少年はへたに知的であったから、
それを
少年法を改正するため」
などと社会性をおびた
もっともらしい理由でコーティングすることができた。

スラスラと応じているという取調において、彼が
「自分がほんとうは何を望んでいたのか」
を語り始めることを期待したい。

そして私たちは、取調室まで行かなくても、
「自分がほんとうは何を望んでいたのか」
を語り始められることを思い返したい。

 

・・・「つまようじ少年、その後  - 無差別殺人犯を読む(19) -」へつづく

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