VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

Dr.倫太郎の恋(5)人は教えられると覚えない ~ なぜリカモリに申し込むか

Dr.倫太郎の恋(4)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
by ぼそっと池井多
 
 
 
今クール放送中の連続ドラマ『Dr.倫太郎
日本テレビ; 水, 22:00-)の中で
画像診断と薬物療法を得意とする宮川教授は言う。
 
患者ウソをつきますが、
 画像ウソをつかないですから」
 
そう、患者はウソをつく。
 
だから、対話療法を得意とする精神科医は、
患者が何を語るかではなく、
患者が何を語らないかに注目するという。
そのほうが真実に近づけるからだ、と。
 
同じように私は、
ドラマ「Dr.倫太郎」が何を語るかではなく、
何を語らないかに注目している。
そのほうが真実に近づけるからである。
 
語るもの。
その一つが陽性転移である。
 
語らないもの。
その一つが患者社会、
もしくは治療共同体である。
 
 
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前回Dr.倫太郎の恋(4)では、
私が「ああ、勉強した」
振り返ることができるのは、
大金を学費として払い込んだ大学時代ではなく、
30代になって始まったひきこもり時代だった、
という話を始めさせていただいた。
 
1995年、数々の事件が重なって
私は人生3度目の鬱につぶれた。
そして、30代にしてひきこもりになった。
 
世間はひきこもりを叩くけれど、
鬱の人はひきこもりになった方が
社会のためだと私は思う。
鬱のまま社会の外へ外へと出ていくと、
秋葉原のようになりかねない。
 
鬱は、頭の働かない状態だから、
自分で責任を持てる最小限の範囲に
生活を縮小させるのがよろしかろう。
その結果、ひきこもりとなるのが上策なのだ。
 
さて、30代にしてひきこもりとなった私が、
解決しなければならないことは山ほどあったけれど、
まずは強迫神経症をなんとかしたくて
市の図書館にしげしげと通い、
自分の金ではとても買えない高額の
フロイト全集を読みふけった。
 
当時住んでいた部屋から目と鼻の先に
市立図書館の分館があり、
ほとんど人と会わずに通うことができたのも、
ひきこもりだった私には良かった。
 
もちろん、1円も使っていない。
古代エジプト文明から始まったという
図書館という制度の有難さが身にしみた。
 
その結果、大金を払って精神分析など行かなくても
強迫症状は自分でそぎ落とすことができた。
 
そのとき学んだことは、
その後の人生にも息づいている。
血となり肉となったと言えるだろう。
 
だからといって、
私はなにも特別なことをしたわけではない。
似たような話は腐るほどある。
 
たとえば幕末の時代、若いころの勝海舟
貧しい幕臣であったために、
西洋の言葉の辞書が買えなかった。
 
しかし、彼は
上司の家にオランダ語辞典があると聞いた。
稀覯本である。貸すわけにはいかぬ」
と言われたので、
勝海舟は毎晩、上司の家に通って辞書を書き写した。
 
それがいかに血肉となったかは、
その後の勝海舟の人生をみればわかる。
 
もう一つの例。
先日、TBSドラマ『天皇の料理番』でやっていたのだが、
料理人の世界では、シェフは弟子に料理を教えない。
弟子はシェフから技を盗まなければならない。
それは、
「人は教えると覚えないから」
であるという。
 
 
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そのようなわけで、
患者仲間たちが先を争うように
養成講座なるものに大金を払い込むことに関して、 
 
 
ほんとうの動機は
 
学びたいから
 
ではないのではないか
 
 
と私の目に映っている。
 
 
けれども、人には出費欲ともいうべき、
 
「お金をつかいたい」
 
という欲望もある。
 
だから、彼らの出費欲を妨げるつもりは
私には毛頭ないことを申し添えておく。
 
 
さて、それでは、
さして裕福でもない患者たちが
こぞって養成講座なるものに
数十万円を払い込む真の動機とは何だろうか。
 
私は、彼らにとってその出費は、
 
患者社会の居場所代
 
なのだろう、と考えている。
 
 
つまり、数十万円を払うことによって
 
患者社会の中で
大きな顔ができる
 
ワンランク上の患者
として治療者に扱われる
 
治療者との距離が近くなる
 
といった思い込みが持てるのである。
 
治療者も、
日々の治療ミーティングにおいて
患者のそのような思い込みを微妙に増幅する
 
「大きな顔」だろうが、
「ワンランク上」になろうが、
「距離が近く」なろうが、
そんなものは患者社会を一歩でも外に出れば、
なんの役にも立たない。
 
しかし、
患者社会だけを世界だと思い込んでいる患者にとっては
それが世界内存在としての自己評価となる。
 
それほどまでに、
患者にとって患者社会とは大事なものなのだが、
そういう患者社会が
Dr.倫太郎」では描かれていない。
 
 
・・・「Dr.倫太郎の恋(6)」へつづく
 
 
 
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    多分 ここまでの展開でいえば
    これから先 患者社会っていうか そこいらへんに焦点が当たることは期待できないとおもいます
    そこに焦点が当たるためには 自分自身が当事者であるとか
    ぎりぎりまで体感的に感じた人でなければ難しいと思いますね

    精神医療現場での あるいは それに準じるような現場では
    じぶん自身の役割と当事者との越えられない壁を痛感してきました
    当事者と関係者が同じ土俵で同じ関係性で展開していくには
    もう少し時間がかかるのかもしれませんね 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/16(土) 午後 3:27

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  •      

    ちゃらんぽらん亀さま コメントをどうもありがとうございます。

    このドラマの画期的な点は、治療関係における陽性転移に焦点を当てたことでしょうか。おっしゃるように、実際に患者として「ぎりぎりまで体感」しなければ、患者社会のことは描けないことでしょう。

    「患者を一人の人間として尊重しましょう」などということは、精神医療の教科書の最初のページに書かれているはずです。しかし、現実にはそれが実践されない構造が生まれることがある。なぜなのか…。

    亀さんから「越えられない壁」がどう見えているのか、非常に関心があります。私はあくまでも患者の側から、その壁を言葉にしていきたいと思っております。 削除

    チームぼそっと

     

    2015/5/16(土) 午後 5:08

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  •      

    顔アイコン

    亀から見えた壁がどういうものであったのか たどってみますね

    亀がいわば運命的にたどり着いた場所
    それは無認可の共同作業所
    市報にスタッフ募集の記事があり 応募した
    亀はその当時離婚していて というか相方から三行り半を
    つきつけられてたような状況でうごめいていた
    この自分が生きることが出来るような場所を求めていた
    心というのは人それぞれで なにがなんだかよくわからないまま
    そういった事態を引き受けるほかなかった
    亀はいつも 自分が絶対少数の思いをもっている
    心のや魂の傍に生きようとするあり方をしていた
    亀はいつも自分自身を誰からも理解されない
    受け入れられない人間だというふうに思っていた
    その当時は自分自身を受け入れるというよりも
    もっと過酷な心的体験を余儀なくされている人たちの思いの傍にいるんだという思いがしめていた
    自分がここに来たからには満塁逆転ホームランを打とうぜっていきがっていた 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 2:06

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    医療現場と福祉現場の違いはあるのだけど
    なんていえばいいんだろう どういえばいいんだろう
    心のどこかで 自分がお助け人の意識や思いや役割を
    引き受けざるをえない心境になっている

    そしてそのことに気が付いて自分はお助けマンではない
    同じこの世をこの現実をみもだえしながら生きる同胞だとのメッセージをだすのだが
    それは おまえがスタッフだからだせる出せるメッセージだといわれたことがある
    亀は自分がスタッフでありながらスタッフらしからぬふるまいを展開していった
    別の利用者からはもっとスタッフらしくふるまえとか言われたが
    自分のなかでは それが何かなんだという思いでやっていた
    そしてそのうさんくささを感じわめき散らす人があらわれる削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 2:24

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    顔アイコン

    多くの利用者はその人が何をいわんとしてるのか受け止めきれないので
    亀もまた 受け止めきれないので
    その人は現場の責任者である亀を罵倒する
    その人をなんとかなだめようとするが その人はたじろがない
    その人がそれまで生きてきた反権力への思いはゆるがない
    最初は亀への信頼であったり好意であったものが憎しみや殺意に変わる
    その当時亀は 別のプライベートなことで
    身も心もへとへとになっており
    全身全霊でその人にむきあえていなかった
    その人は自分が大切にされていない 理解されていないということを嗅ぎ取ってしまった

    スタッフである前に一人の人間であることが何かであると思っていた亀は
    自分が役割としてのスタッフ像をぶちこわして
    一人の人間と一人の人間が向き合うのだとしゃかりきになっていたのだが
    その人はそのことこそがスタッフ像 権力者の反映なのだとつきつけてきた
    亀はうまく応えられずにみもだえしてしまった 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 2:47

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    顔アイコン

    ある立場である役割である人にむきあうとき
    その立場や役割を構成する要素をどんなに削り取っていっても
    ある人にとってはというか 本当にそれが対等なのかよって思っている人にとってはまやかしになってしまう
    亀は精一杯まやかしではないよと発信したけれど
    立ち位置がゆるがせにできない人にとっては
    お前は聖者の顔をした悪魔だと告げられる
    そう、自分は聖者の顔をした悪魔
    そんなメロディーが流れてきてやるせない 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 2:59

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  •      

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    本当は お互いに理解しあいたくて出会っているはずなのに
    何かがかみあわない 
    そんな体験をいくつかしてきました
    なんていえばいいんだろう
    あらかじめ与えられた立場や役割があって
    そのこと自体がお互いを疎遠にさせてしまう
    もちろん多くの利用者には感謝されたし 
    こんな人間そうはいないよってくらいの自負はあったけど
    それでも超えることのできない壁
    亀なりの表現で言葉にしてみました 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 3:11

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  •      

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    亀は思うのですが 
    このブログはお互い対等なので
    自分の思いを伝えることができます
    あなたが精神医療関係の中では当事者であるとしても
    亀にはそれは関係ありません
    っていうか 関係ありすぎて 
    だれもが当事者なのだという思いしか亀にはないので

    人の思いや心や魂は本当にひとそれぞれだと思うし
    どんなくくりの中で自分を位置づけていようと位置づけられていようと
    自分は自分であり 自分は自分ではない というあたりで
    歩んでいけたらとおもいます 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 3:24

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  •      

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    つ、追伸
    な、なんていうか もうすこしぶっちゃけていうと
    制度的にとか関係意識的にとか いろいろあるとは思うけど
    壁っていうのは 自分で作りあげている幻のような気もします
    こういってしまうと 身もふたもなくなるので
    ぼそっとさんの真摯な立ち位置とちょっとずれてしまうので

    で、でもいいですよね 
    こんな亀もありだということで 許してください 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2015/5/17(日) 午後 3:52

     返信する
  •      

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    こんにちは。
    わたしも、某養成講座なるものに気持ちが大きく引きずられました。受講の申し込みはしませんでしたが。
    講師の治療者に、心覚えがよくなるかもしれない、関心を注いでもらえるかもしれない…という気持ちからでした。
    いわゆる”症状”で、注目されないのなら、患者社会での居場所を作るための手段に思えたのかもしれません。 削除

    hap**nom*i ]

     

    2015/5/17(日) 午後 5:54

     返信する
  •      

    ちゃらんぽらん亀さま コメントをどうもありがとうございます。

    そして、亀さんから見えた壁と、亀さん自身の物語を語っていただいたことに、心から感謝をいたします。

    亀さんのような治療者(援助職)の方と、私のような当事者(患者)が、お互いどこに住んでいるかわからないまま、治療(福祉)現場を離れて、このように対等な立場で言葉をまじえるのは、まことに貴重だと思います。

    亀さんがおっしゃることは逐一、私のような者にも共感できるし、私の属する治療空間を反対側から眺めれば、「やはり同じように見えるのかな」と思えるところもある一方では、「ここは私の患者社会にはあてはまらないかも」と思う点もあります。

    ・・・次コメントへつづく 削除

    チームぼそっと

     

    2015/5/18(月) 午前 0:38

     返信する
  •      

    前コメントからのつづき・・・

    かたや、
    「いつも自分自身を誰からも理解されない(……中略……)もっと過酷な心的体験を余儀なくされている人たちの(……中略……)満塁逆転ホームランを打とう」
    というくだりでは、私は東日本大震災が起こった時に、ふとした成り行きで、当事者ではなく支援者(援助職みたいな立場)の側に回ることになった自分を重ね合わせて読みました。

    たしかに「壁っていうのは 自分で作りあげている幻」でもあるのでしょう。
    だから、壁を見つめること、壁を語ることは、自分を語ることでもあるのだと思います。

    自分の治療を見直すためにも、私には患者社会への考察が不可欠なので、このシリーズは今しばらく続けていこうと思っています。おつきあいいただけば幸いです。 削除

    チームぼそっと

     

    2015/5/18(月) 午前 0:39

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    hap**nom*i さま コメントをどうもありがとうございます。

    あなたの言葉は、私なんかのそれより、はるかに端的に要点を捉えておられて、とても関心いたしました。
    すなわち、
    「いわゆる”症状”で注目されないのなら、患者社会での居場所を作るための手段に思えた」

    まさにそれに尽きるのでしょう。

    「養成講座」をめぐって、いま起こっている現象は、あえておおげさに言えば、この社会をひもとく鍵でもあるように思います。
    そのため、今しばらくこのことを考えてみたいと思っております。
    よろしくおつきあいいただければ幸いです。 削除

    チームぼそっと

     

    2015/5/18(月) 午前 0:48

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