VOSOT ぼそっとプロジェクト

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Dr.倫太郎の恋(6)存在承認は金で買えるか ~「患者の転移は金になる」

Dr.倫太郎の恋(5)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
by ぼそっと池井多
 
 
連続ドラマ『Dr.倫太郎日本テレビ; 水, 22:00-)
第5回の中では、対話療法を得意とする主人公、
精神科医の日野倫太郎が、
 
「いまから私が言うことは
 
 精神医療の倫理規定反します
 
と口を開く場面がある。
 
クランエント(患者)である芸者、夢乃
母親代わりである置き屋の女将に
 
「じつは夢乃さんは
 解離性同一性障害なのです」
 
と告げるシーンである。
 
ほんらい、患者の精神状態は、
患者のプライバシーであって、
たとえ実の母親と言おうとも
「他者」である人にそれを医者から言うことはない。
 
しかし、患者の治癒のためには
実の母親以上に母親的な存在である女将の協力が不可欠であり、
クライエントである夢乃もそれを望むだろう、
精神科医の倫太郎が判断したために、
この告知となった。
 
この時点で、芸者夢乃の治療は
いっしゅの家族療法になってきたと考えられる。
 
ギャンブル依存症をわずらう、実の母親も
やがてこの治療の輪に引き込まれていきそうな展開である。
 
しかし、
 
「いまから私が言うことは
 精神医療の倫理規定に反します」
 
というセリフの挿入は、
とってつけたようで、
いささか不自然であった。
 
実際には、
そんなこと言わないだろう、と思うのである。
 
このストーリー展開によれば、
精神科医、倫太郎が「倫理規定」をやぶることが
患者の治療にマイナスになるとは思えない。
 
制作陣は、視聴者が
 
「ああやって、医者って、知っている人には
 みんな病気のことを言っちゃうんだ~」
 
と受け取り、精神医療に誤解を持たないように、
このセリフをわざわざ
倫太郎に言わせることにしたのだろう。
 
じっさいの精神医療の現場は、
そういう告知なしに
「倫理規定をやぶる」ことの連続であると思う。
 
それを、治療者の側から書くわけには行かないだろうから、
私のような患者の側から書いてさしあげるのがよろしいかと思う。
 
より正確にいえば、
精神科の臨床は、
「倫理規定」「ガイドライン
といったかたちで成文化すらされていないことを、
どのように越えていくか、
という格闘の連続であると思う。
 
近年、とみに言われ始めた
モラル・ハラスメントという言葉がさすように、
倫理そのものが、人間に抑圧をもたらしうるし、
人を精神疾患におとしめる元凶であるから、
倫理と対決して何がわるい。
 
……という批判も用意されていることだろう。
 
ドラマ「Dr.倫太郎」において
主人公の名前に「倫」が入っているのは
原作者がそこまで考えたうえで、
ひとつの逆説的存在として
主人公を設定しているからではないだろうか。
 
 
 
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さて、前回「Dr.倫太郎の恋(5)」では、
私自身が属している患者社会のなかで、
「某アドバイザー」なる称号を取るために
多くの患者がこぞって養成講座に大金を払い込む真の動機は、
 
 
患者社会の居場所代
 
 
なのではないか、と書かせていただいた。
 
そこへいただいたコメントの中には
私と同じ患者社会に属すると思われる方から
私などよりも、はるかに簡潔に、端的に
こう表現する方もおられた。
 
わたしも、某養成講座なるものに気持ちが大きく引きずられました。受講の申し込みはしませんでしたが。

講師の治療者に、心覚えがよくなるかもしれない、関心を注いでもらえるかもしれない…という気持ちからでした。

いわゆる”症状”で、注目されないのなら、患者社会での居場所を作るための手段に思えたのかもしれません。
 

なんと的確な表現であることか。

 
そう、…私たちの治療者は
自分の研究課題である症状を持つ患者を、
特別扱いにする。
患者社会のなかでも一段上におくのだ。
 
こういう患者を、私は一等患者と呼んでいる。
 
何かにつけて
彼女(一等患者はたいてい女性である)をもちあげ、
しまいには彼女の経営する店の宣伝まで
治療ミーティングのなかでやってくれる。
 
おそらく
「彼女の経済的な安定は、
 彼女の治療につながる」
という理屈によって、である。
 
しかし、治療されたいのは患者みんなであるし、
経済的な安定がほしいのは
患者のみならず人間みんなであるはずだ。
 
ところが、その他の患者、すなわち二等患者にとって
症状は努力によって勝ち取るものではない。
 
器用な人は、
努力によって、治療者の気に入る症状を訴えるようにも
なるようだが、
それはバレたら詐病になってしまう。
 
だから、不器用な二等患者が
一等患者なみの関心を治療者から得るためには
ほかの手段を考えなくてはならない。
 
 
数十万円を払って養成講座に入る
 
 
というのは、
そこで手っ取り早い手段なのである。
 
 
 
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世間の人は、こんな話を聞いても
バカバカしいと思うかもしれない。
 
しかし、どうだろう。
世間の、一般市民の皆さまも
生きていく自分の居場所を確保するために
似たようなことを
あちこちでやってはいないだろうか。
 
それに加えて、
精神医療や宗教に支えを求める人は、
居場所を獲得するだけの力のない人、
つまり
「自分がしっかりしてない人」
である場合が非常に多いので、
そういう行動傾向はよけい強まるのである。
 
……。
……。
 
思い起こせば、今年で20年を迎える
地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の中にも、
正大師だの正悟師だの
じつに多くの称号のランクがあった。
 
信者たちは多額のお布施を払い、
ときには全財産を差し出しても、
教団内でのランクを上げようと
必死になっていたのである。
 
あのような事件を起こして内部の様子が曝露されたから、
私たちは今日それを知るわけだけれども、
事件を起こしておらず、
市民社会と共存している多くの宗教団体も
内部に入ってみれば
きっと同じようなランク社会なのだろう、と推測する。
 
 
 
教団のなかで、もっと自分の地位を確かなものにしたい。
 
ほかの信者よりもに立ちたい、大きな顔をしたい。
 
少しでも教祖さまに近づきたい。
 
 
……。
……。
 
 
宗教団体の中では多くの信者が、
みな毎日そんなようなことを考えて
生きているのに違いない。
 
だいたい、そういうものにこだわっているうちは、
救いも得られないし、
悟りも開けないはずなのだが、
現実としてそうなのである。
 
 
これは、患者社会も同じである。
 
もともと私の通う医療機関では、
成育歴に問題があった人々、
いわゆるAC・サバイバーと呼ばれる人々
が通っている。
 
否定されて、否定されて育ってきたので、
大人になった今でも、みな自己評価が低く、
存在承認に飢えている。
 
私自身をふくめて、皆そうだ。
 
だから、
 
数十万円を払えば存在承認される
 
となると、
多くの患者は古典的な経済判断を飛び越えて、
養成講座へ殺到するのである。
 
……。
 
いや、そもそも古典的な経済判断とは何であろうか?
 
地代、原価、労働力、利潤……
言ってみれば、すべて唯物的な対象だったといえるだろう。
そこには心が入っていない。
 
「人は自らの利益を最大化させるべく経済活動をおこなう」
と言ったところで、
たとえば、宗教にはまる人にとっては
救いなるものを得るというふれこみで、
お布施なり献金なりを支出すること自体が利益となりうる。
 
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それこそが
近年の行動経済学などでいうところの
新しい概念による利益最大化であり
経済判断なのだ。
 
私の治療者は、
そのあたりの患者の心理を
よくつかんでいる。
 
すなわち、
 
患者の治療者への依存転移
になる。
 
そのことを考えたうえでの
某アドバイザーなる称号の創設であり、
養成講座システムの導入であり、
このたびの系列NPOの改編なのだろう。
 
しかし、私自身はそこに大金を差し出す気になれない。
 
「金がないから」
ということもあるが、
たとえ金があっても、
そういう気になれないのではなかろうか。
 
なぜならば、
 
 
で買う存在承認など
 
存在承認と言えるだろうか
 
 
と考えてしまうからだ。
 
 
そういうものに頼っているうちは
 
真の治癒回復
 
訪れないのではないか
 
 
と考えてしまうからだ。
 
 
ここにおそらく
私という患者の特殊性があるのだろう。
 
私は、社会的に見れば、
侮蔑される「働いていない人」であり、
人から見れば
「ただノンベンだらりと生きているだけ」の人間だが、
ただ生きているだけで、
人間はいかに多くの
まるでバラの茨(いばら)のアーチのような精神活動を
くぐりぬけていかなくてはならないものだろうか。
 
 
 ・・・「Dr.倫太郎の恋(7)」へつづく
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