VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

長男の放逐(55)実存の絆

長男の放逐(54)」からのつづき・・・
 
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
 
by ぼそっと池井多
 
主治医の指示により
プロジェクト「セイブ(仮称,*1)で証言を収録することになった
マリナさん(仮名)は、
性風俗嬢として働いていたという過去を
恥じて噛みつぶしていた。
 
*1:セイブ(SAVE)プロジェクト
仮称。NPO法人ザスト(仮称)において
2012年から2013年にかけて私が関わった
性被害者の声を社会に発信するプロジェクト
 
そこからは
苦々しく淡い光のようなものが
発せられていた。
 
「生き恥」
という言葉を、マリナさんはよく使った。
 
さらに、
「自分で選んだことですからね」
とも。
 
しかし、それは自らに言い聞かせている口調であって、
会話の相手を説得しているふうではなかった。
 
マリナさんは、原家族において実父からの近親姦を受け、
やがて短大に進んだときに性風俗の世界へ入っていった。
「学費を稼ぐために」
というのがいちおうの理由であったが、
じっさいはそれほど
自分がお金に困っていたわけではないこともまた、
彼女は知っているのであった。
 
何かに繰られるように
性を仕事とするような選択をしてしまったらしい。
 
それを誇りとできればよいのだろうけれど、
それができない。
 
しかも、それは
「自分で選んだ」としか言いようがない。
 
そんなことを、
誰かほかの人のせいにするほど、
卑怯なことはしたくない。……
 
「潔癖」とすら表現できる何かが、
マリナさんが
「生き恥」「自分で選んだ」
といった言葉をつかうときに漂うのだった。
 
潔癖は、潔癖であるがゆえに
破滅と表裏一体である。
 
私は音叉(おんさ)のように共振した。
 
彼女の潔癖さではなく、
その背後に隠れている苦々しさに。
 
「男のくせに、
 挿入された女の気持ちをわかったふりするんじゃないよ。
 男ならば、
 肛門に挿入されてから言えよ」
 
と主治医は私を批判するが、
共振して、何が悪いだろうかと思う。
 
三年経って、あの事件をふりかえった今、
あらためて、そう思う。
 
 
 
 
 
 
マリナさんと私とは、
たしかに、まるきり違う人生である。
 
私は、大学で主任教授となった鈴澤先生(仮名)が、
実存主義サルトルの専門家であった。
 
 
「人間は、すべての行動を選んでやっている。
 選んでやっていない行動は一つもない」
 
と言った哲学者である(*2)
 
*2:じっさい、そういう言葉を
サルトルが言ったという意味ではなく、
サルトルの思想をまとめるとそうである
と私が受け取っているということである。
 
 
大学で落ちこぼれであった私は
鈴澤先生ぐらいしか
ゼミに拾ってくれる教授がいなかった。
 
その意味で、鈴澤先生には恩義を感じていたし、
成育歴において父らしい父が居なかった私は、
鈴澤先生にたちまち「父」を投影した。
 
だから私は、鈴澤先生に認められる人間になろうと努めた。
本人に言わせれば、
それは「血のにじむような」努力であった。
 
どんな人間かというと、
「すべてを選んでやっている」
と胸を張って言える人間である。
 
ところが、強迫神経症その他、私がかかえていた病いが、
そうは言えない人間へ私の毎日をゆがめていく。
 
選んでやっているとはいえないことを、やってしまう。
しかし、
それは自分が選んでやっていると言わざるをえないことを
自分は知っているのである。
 
悔しかった。
 
私はそれを
「じつは、心の病気のせいで…」
と鈴澤先生に明かした。
 
言い訳をいう人間を、鈴澤先生はお嫌いであった。
だから、その時点ですでに
軽蔑の視線が投げられた。
 
さらに、鈴澤先生は
私の病気が、しょせんうつ病強迫神経症であり、
今でいう統合失調症ではないために、
「やはり自分で選んでやっている」
というのであった。
 
つまり、こういうことである。
鈴澤先生は、知識人として
なまじっか精神医学の知識があった。
統合失調症ならば脳の画像診断で病気と認定できるが、
うつ病神経症は画像に証拠が出てこない。
そのため
 
「けっきょくは気のせい。
 もしくは病気に逃げている」
 
という説を採っているのであった。
 
鈴澤先生は、
精神一到、何事か成らざらん」
といった封建的な言い方はお嫌いであったけれども、
ヨーロッパ流の明晰な知性を経由して、
けっきょくは同じ結論に着地していた。
 
こうして私は、
病気という避難所(アジール)さえ取り上げられ
あてどもない曠野に追いやられたあげく
自分を人生の卑怯者と罵ることなしには
生きていられないようになったのである。
 
生きること、イコール、自分を罵ること
になってしまった。
こうなると、
自分を罵ることをやめるには、
生きることをやめるしか方法はない。
 
けっして存在承認をあたえられない家庭に育った私は、
こうして成人してからも
存在承認を得られない人生へと自ら突き進んでいった。
 
あたかも、父親の性器を幼少期に挿入された娘が、
成人してからも、
性器を挿入される人生へと自ら突き進んでいくように。
 
そして、これらも
「自分で選んでやっていること」
なのである。
 
世間を見渡せば、そこには
「自分で選んでやっていること」
という自覚すら持たずに、
その場その場に流されて物事を決め、
自らの選択の責任をとらない大人たちがあふれかえってきた。
 
しかし、鈴澤先生は、
彼らのことは眼中にはない。
 
「あの人たちも、こうやってますよ」
と言っても、
「君は、人がやっていたら、自分もそうするのか」
と問い返すだけで、
俗人は考慮に入れないのである。
 
鈴澤先生は、眼中に入る人の無責任だけを批判する。
 
ならば私が、鈴澤先生の視野に入らなければよいのに、
そこは父親像を投影し、認めてもらいたい私の弱みで、
わざわざ鈴澤先生の視界に飛び込んでいき、
否定され、打ちのめされては、
私はどんどん階(きざはし)を落ちていった。
 
そして今、私は
一般社会の目からすれば、
最底辺にいる。
 
生活保護を受け、精神科にかよう中年男。
能うかぎり、侮蔑される存在。
 
そして、これは
自分が選んでたどりついた人生である
 
こうとしか生きられなかった、
ああも言いたい、こうも言いたい、
しかし、
その場その場で自分なりに最善の選択をしていった結末だ、
と言わなくてはならない。
 
そこで噛み殺す苦々しさが、
風俗嬢として売春していた過去を
 
選んでやっていたことですから、
 認めなくちゃいけませんよね」
 
と自分に言い聞かせるように語る
マリナさんの言葉の奥にも感じられたのだった。
 
私がマリナさんに見出そうとしたものは
男とか女とかを超えた
精神的な生存の一線を賭けた、
いわば実存の絆であった。
 
 
性風俗嬢は世間から侮蔑されているでしょう。
 生活保護男も世間から侮蔑されているのです。
 
 しかし私たちは、
 そんなに卑屈にならなければいけないのでしょうか。
 
 そうとしか生きられない成育歴があった。
 また、その時その時で最善の道をえらんできた。
 
 その結果がこの人生であるならば、
 そんなに卑屈にならなければいけないのでしょうか。
 
 何が恥であるかは、
 世間が決めるのでなく、
 私たちが個々に決めればいいのでは。
 
 いや、しかし、私もそうそう偉そうに言えません。
 じつは、これも恐る恐る言っているのです。
 独りでは、とても言えそうにないから
 あなたに言っているのです。
 
 人々の侮蔑をはねかえす強さを
 ともに持ちませんか。
 
 社会から承認されない人生を生きる者が
 つながりあう道をともにさぐりませんか。……
 
 
そんな問いかけを
インタビューを通じて
マリナさんに投げかけたいと思っていた。
 
 
……ところが、そのインタビューは
思いがけない展開をたどった。
 
私は、そのインタビューの場で
レイプをしたことになったのである。
 
 
 
・・・「長男の放逐(56)」へつづく
 
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