VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

長男の放逐(98)人格って何 ~ フロイトのブダペスト演説

長男の放逐(97)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
 
by ぼそっと池井多
 
 
塞翁先生の療法の特徴を考えるのに
 
(1)集団療法 → 治療ミーティング → おでん日記
 
(2)人格論 → 多枚舌 → 分断統治
 
という二つの矢印を考え、
前回は(1)について書かせていただいた。
 
 
今回は、
 
(2)人格論 → 多枚舌 → 分断統治
 
という流れについて考えてみようと思う。
 
 
 
 
 
 
 
ベッキー、宮崎謙介元衆院議員と
最近の日本はゲスの話題が花盛りとなってきたが、
はたしてゲスの本質とは何であろうか。
 
何が人をして、ゲスたらしめるのであろうか。
 
ゲスとは何か、あててごらん。(Guess what's Gesu.)
 
 
……。
……。
 
 
その答えとして私は、つまるところ
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
と、ゲスになるのではないかと思う。
 
 
育児休暇を取りながら不倫をするという行為も、
 
「選挙区のみなさん!
 私が当選したあかつきには、
 育児休暇を取りながら不倫をいたします!」
 
と公約するならば、
それはゲスではなく、一つの思想にすぎない。
 
むしろ、人の唱えないような思想を生きる
たいした奴だと思う。
 
ところが、
 
「私はフェミニスト」「育児休暇を申請します」
 
などと言っておきながら、
 
私のど真ん中はソナタ(*1)
 
などと不倫相手にLINEしている(*2)という、まさに
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
からこそ、ゲスとして認定されたのである。
 
*1.どうせならもっとマシなラブレター書けよ、と思う。
 
産経新聞 2016.02.15 13:59
 
また、ベッキーも、
不倫そのものがゲスというよりも、
はたまた、相手のバンドの名前がゲスというよりも、
 
「このたびは申し訳ありませんでした」
 
と会見でシャキっと頭を下げておきながら
 
「これで関係をオフィシャルにできる。ありがとう文春!」
 
などとLINEしているところが、まさに
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
というゲスなのである。
 
 
ふつう
あっちこっちで言っていることがちがう
という人は「二枚舌」などと呼ばれるが、
私たちACは、不名誉なことに、
この二枚舌が多いという悪評があるのだ。
 
これはなぜだろうか。
 
それは、そのときどきの相手から
ちっぽけな承認をかき集めようとしてしまう、
「愛の乞食根性」のなせる業ではないか、と私は考える。
 
目の前にいる人に「嫌われたくない」と思うあまり、
「ほんとうは自分がどう考えているか」は棚上げにして、
ついついその場に居る人に合わせたことを言ってしまうのである。
 
サルトルの哲学では「客体優位の自己」という。
 
こういう人は、目の前にいる相手が替われば、
またその人に合わせて、ちがうことを言うものだから、
その結果、
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
というゲスをやらかすようになる。
 
 
このように、その場その場に合わせて、
適当なことを言うゲスは、
目の前にいる相手に「嫌われまい」とするあまり、
あって当然の相違や対立が表に出ることをつとに恐れる。
 
相違や対立があるのを前提で、
平和的に共存する、という当たり前のことができないのである。
 
その場にいっしょにいるとなったら、
相手を支配するか、
相手に支配されるか、
になってしまう。
 
こうなると、人間関係は水平・対等でなく
 
上下 または 共依存
 
になる。
 
こういう人たちがつくる共同体は、
ほうっておけばピラミッド型のヒエラルキー(階級制度)になる。

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しかし、裏を返せば、
ピラミッド型のヒエラルキーにいると、
ACはいつまでもACのままでいることとなり、
いつまでも「回復」はやってこない(*3)
 
*3.私がリカモリング・アドバイザー制度(仮称)を
胡乱な目で見ている理由の一つは、
その制度がヒエラルキーだからである。
あれでは上の方しかおいしい思いをしない。
 
上下の序列から放たれ、
共依存軛(くびき)を断って、
お互いの相違を認め合いながら
横に、水平に、対等につながって
平和的に共存できるようにならなければ、
真の「回復」はやってこないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
私たちの患者社会から、
現在のように私が放逐されるに到る、
天下分け目の決戦となった2013年11月のメールを、
いま改めてこのように(*4)検証してくると、
ほかならぬ塞翁先生が、
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
のではないか、という不穏な考えが、
にわかに脳裡に湧きおこってくるのであった。
 
および
 
 
すなわち塞翁先生は、江青さんのいるところでは、
 
「シワブはなんでもあり。そして独立団体」
 
と言い、私のいるところでは、
 
「シワブは性器の挿入ありから先の近親姦女性被害者に特化する。
 そして独立団体ではなくザストの一部」
 
と言っている。
 
これまで、何かうっすらと催眠術にでもかかったように、
塞翁先生の言動はすべて信用してきたけれども、
冷静になって考えてみれば、
このようなことは初めてではないような気もする。
 
たとえば、「降る神託(*5)でも書かせていただいたように、
2012年10月31日に収録し、
江青さんの「予期せぬ中断(*6)が入った
マリナさん(仮名)のインタビュー映像を、
塞翁先生は私に、まちがいなく
マリナさんの諒承なしにインターネットに流してしまえ、
ということを言ったのである。
 
 
 
しかし、私が被災地支援の最中に聞いた丹羽さん(仮名)や、
マリナさん本人からは、
塞翁先生は私がいない塞翁ミーティングで
私の行為を「セカンド・レイプ」と断じ、
映像のお蔵入りを命じたらしい。
 
丹羽さんやマリナさんが嘘をついているとは、
どうしても思えない。
 
とすれば、これは塞翁先生が
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
としか考えられないではないか。
 
あのとき、私は
マリナさんという人を人間的に知っていたから、
 
「さすがに塞翁先生の指示でも、それはできない。
 私の責任下において、その指示はにぎりつぶそう」
 
という選択をしたわけだが、
もし私がマリナさんという人を知らなかったら、
塞翁先生の指示どおり、
映像をインターネットに流していたことだろう。
 
すると、また、
セカンド・レイプどころか被害者の人権を踏みにじる、
女性
との悪名を、より高く
私たち患者社会にとどろかせる羽目になったと
想像されるのである。
 
 
 
 
 
 
「先生は、あっちこっち
 おっしゃっていることがちがうんじゃないですか」
 
という疑いを、もし正面から塞翁先生にお尋ねすると、
はたしてどうなるであろうか。
 
塞翁先生はここで、
切り返す論理を持っていることを
私は知っている。
 
塞翁先生は人格というものを、
 
統一されて一貫した人格など存在しない。
 人格がもしあるとしたら、
 その時々の人間関係のなかにのみ存在する」
 
という。
 
わかりやすく説明しよう。
 
たとえば、ここにA子という一人の女性がいる、とする。
 
A子はに対して言うであろう。
 
「もちろんあなたを愛しているわよ。
 あなたは私の夫じゃない」
 
A子はに対して言うであろう。
 
「お前がちゃんと大きくなってくれるのがいちばん。
 お父さんなんて、ほんとはもうどうでもいいの。」
 
A子は友人に対して言うであろう。
 
「わたしも揺れてんのよねえ。
 別れちゃったら自由だな、と思う反面、
 いまの旦那の収入は悪くないしね」
 
A子は愛人に対して言うであろう。
 
「収入なんて問題じゃない。
 もう夫とは完全にセックスレスなの。
 いったい何のために夫婦やってるのかわからない。
 あなたといっしょにいる時間がいちばん幸せ」
 
つまり、「A子」という
一貫して統一された人格があるのではなく、
に対するA子
に対するA子
友人に対するA子
愛人に対するA子
という、少なくとも4つの人格がある。
 
もっといえば、
対人関係の数だけ人格がある、というのである。
 
 
とすると、そういう塞翁先生にとっては、
「私に対する塞翁先生」と「江青さんに対する塞翁先生」は
もともと別個の人格だから、
 
あっちこっちで言っていることがちがう
 
というゲスをやらかしても、
なんら罪悪感を感じないことだろう。
 
そもそも家族療法などでは、
妻に対して、夫に対して、子に対して、
治療者はそれぞれに共感を示し、
聞き心地のよいことを言ってあげるそうであるから、
心理療法そのものが基本的にゲス行為なのかもしれない。
 
それでなくても、
 
「すべての罪悪感を持たないようにしましょう。
 罪悪感は諸悪の根源です」
 
などとふだんから塞翁先生は言っているのである。
 
 
……。
……。
 
 
しかし、私は思う。
 
「たしかに不要な罪悪感は持つべきではない。
 でも、それだけでは社会で通用しないじゃないか。
 
 誰に対しても変わらず
 一貫して統一された人格を持たなくては
 いつまで経っても信用されず、
 社会に復帰できないじゃないか」
 
 
ところが、この問いに対しても、
塞翁療法はおそらくこんな答えを用意しているように思う。
 
「そのとおり。
 
 だから、社会に復帰しなくてもよい。
 私のクリニックに来た者は、
 回復したのちも一般社会に戻ることなく、
 リカモリング制度(仮称)にはいって
 アドバイザーになりなさい。
 
 なにも社会に復帰しなくても、
 うちの娘の会社ワイエフエフ(仮称)で
 いくらでも安給料で雇ってあげます。
 
 そしてカウンセリングのマーケティングを学び、
 全国の人々をカウンセリングのお客さんにしなさい。
 
 人の悩みはつきないものです。
 それをみんな、私たちのお金にしましょう」
 
 
 
 
 
 
約100年前。
1918年9月。
 
第一次世界大戦終結する直前に、
現在のハンガリーの首都、
ブタペストで開かれた第5回国際精神分析会議で、
フロイトはこのような演説をおこなった。
 
私たちがきっぱりと拒んだのは、
救いを求めて私たちのもとに来た患者を、
私たちの私有物にし、
(……中略……)
私たちの理想を患者に押しつけ、
高慢な創造主のごとく、
私たちの似姿に患者を仕立て上げて大いに満足する
という行いです。

(……中略……)
患者は私たちと類似したものに向かってではなく、
患者自身の本質の解放と完成に向かって導かれるべきです。
(*7)
*7. S.Freud "Wege der psychoanalytischen Therapie",
 1919, Budapest,
本間直樹訳『精神分析療法の道
所収; 岩波書店フロイト全集 第16巻」2010年, P.101
改行は引用者による
 
 
フロイトが目指した精神医療の理想と
塞翁先生は正反対の方向へ
向かっているのではなかろうか。
 
 
 
・・・「長男の放逐(99)」へつづく
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