VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

長男の放逐(109)「自分の頭で考える」を頭で考える ~ 「頭ない」患者たちに与ふ

長男の放逐(108)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
 
by ぼそっと池井多
 
前回「長男の放逐(108)」に書かせていただいた
ピーママさんや春日局さんのような群像と、
ヴァン・エーデンが言語化した
 
「下層階級しか治せない、
 シャルコーなどフロイト以前の治療者」(*1)
 
という指摘は、
私の中で密接につながっている。
 
 
しかし、「下層階級」などというと、
あたかも対象となる方々を社会的にバカにしているようで、
差別語として揚げ足を取られそうなので、
このように問題を仕切り直しておきたい。
 
私自身、生活保護受給者であり、
まぎれもない「下層階級」である。
 
また、いくら教育や知識や学歴があっても
軽蔑以外の感情を持てない、おバカな人はおバカであるし、
逆に、いくら学歴がなくても、
思わずこちらが頭(こうべ)を垂れてしまう
尊敬以外の感情をいだけない人も、確かにいる。
 
そのようなことは、
いまさら私のような軽輩から言わなくても、
読者皆さまがそれぞれの人生で出会ってきた人間たちの中から
それぞれの例となる顔を思い出すのではなかろうか。
 
 
結局、私が語っているのは、
 
「自分の頭でモノが考えられる人」
考えられない人」
 
もしくは、
 
「自分で物事が考えられる頭のある人」
「そうした頭のない人」
 
という区別であるだろう。
 
そこで、とりあえず
前者を「頭ある」人、後者を「頭ない」人
と表現させていただくことにする。
 
前者のほうが後者より
人格的に優れているとか、
知能が秀でているとか、
人間として格が上だとか、
そういうことでは、けっしてない。
 
むしろ、その逆である。
同じレベル、同一平面上で比較するために
このように区別したわけである。
 
そして、もちろん、
じっさいに「頭」があったりなかったりするのではない。
 
「心ない」人というのが、
ほんとうに心や心臓がないわけではないのと同じく、
「頭ない」人にも、頭はある。
 
また、世の中の人が
「頭ある」「頭ない」で二分できるわけもない。
 
ひとりの人が、ときには「心ある」状態になり、
ときには「心ない」状態になることがあるように、
同じひとりの人が、ときには「頭ある」状態になり
ときには「頭ない」状態になるだろう。
 
「頭ない」という状態は、
精神医学の言葉を借りれば、
 
 被暗示性が高い
 
という傾向と深く関連しているはずである。
 
「被暗示性が高い」とは、
ちゃんと自分を持っていないために、
催眠や暗示にかかりやすい、という意味である。
 
すると、ヴァン・エーデンが書いたこと(*1)は、
このように言い直せる。
 
フロイト以前、
たとえばシャルコーのやり方で治ってきたのは
「頭ない患者ばかりであった。
これからは「頭ある」患者も治せるような精神療法が
開発されなくてはいけない。
 
と。
 
 
 
 
 
 
 
さて、ここで、
草食男子」「肉食女子」などの言葉を
世に送り出したコラムニストであり、
上野千鶴子などにさかんに評価されている
深澤真紀の言葉を紹介させていただく。
 
彼女は、武田砂鉄との対談において
このように語っている。
 
深澤 (…前略…)WEBの記事の問題は、自分の頭で考えて、自分の言葉で言おう。自分の考えが一番尊いから、幼稚な言葉でもいいのだ」という思想が根底にあることだと思う。
 
(……中略……)
 
深澤 「自分の頭で考えて、自分の言葉で物を言う」って一見いいことを言ってるようだけど、そもそも自分の頭とか言葉って幻想ですよねでもこれを言うと学生や若いライターはショックを受けるんです、「自分の言葉で書きなさいって言われました!」って。でもそれ自体が他人の言葉ですからね(笑)。
 けっきょくはたくさんのテキスト……しかも共感できずわかりにくい内容のものを……摂取して、他人の頭と他人の言葉をたくさん知ることが一番大事です。でもそう言うと、くだらない教養主義だと思われていまう。(*2)
CAKES 2016年3月19日
 
 
なにやら自分が真っ向から批判されている気になるのは、
けっして私が被害妄想だからではない。
 
「トラウマ・サバイバーの生の声を発信する」
 
などということをやっている私などは、
まさに深澤真紀がいうところの、
 
「自分の考えが一番尊いから、幼稚な言葉でもいいのだ、
 という思想が根柢にある人間」
 
である。
 
 
「売られた喧嘩だから買う」
というわけではないが、
私には次のような反論がある。
 
 
第一に、
 
「自分の頭とか言葉って幻想」
 
というレベルまで把握の深度を下げるのならば、
 
人権」「主体」「主権」
 
といった概念もすべて幻想になってしまう。
 
その裏返しである「強姦」「レイプ」も幻想になる。
 
「ただ、ひとの性器が挿入されただけの話じゃない。
 あなたの気持ちがどうであったかなんて、
 どうでもいいじゃない」
 
などと言われかねない話になる。
 
 
第二に、同じことを異なった角度から述べるだけなのだが、
たしかに人は、
タブラ・ラサ(精神的白紙)の状態で生まれてくる。
 
まるで工場で造られたばかりのパソコンのように
そこには何のアプリもデータも搭載されていない。
 
そこへたくさんの他人の言葉や考えが搭載されていき、
「その人の頭」が作られるのである。
 
だから、その人の「自分の頭」は、
もとはといえば、全部「他人の言葉」でできている。
 
そこまでは、深澤真紀も正しい。
 
しかし、人は摂取した言葉をすべて使うわけではない。
 
取捨選択がおこなわれるのである。
だから、同じ学校で教育されても、
異なる頭が卒業していく。
 
摂取された他人の言葉を取捨選択する主語として、
どうしても「主体」とか、
「その人の頭」といった概念を
設定しなければならないのである。
 
その「主体」は、奪ったり奪われたりできるものである。
 
私は、「殴ったり殴られたり」よりも、
「主体を奪ったり奪われたり」のほうが
虐待の本質に近いと考えているので、
深澤真紀ふうの考え方は、ともすると、
私たちの被虐待体験さえも否定しかねない、
なおざりにできないものなのである。
 
もっとも、後半を読むと、
深澤自身も、自分の切り出した言葉によって、
糸の切れた凧のように宙でぐるぐる回っている印象がある。
 
 
 
 
 
 
さきほども申し上げたように、
ひとりの人に「頭ある」時と「頭ない」時がある。
 
どうやら脳科学的には、
分析的思考ができる神経システムが賦活されているときと、
共感ができる神経システムが作動しているときで
分けることができるようである。
 
脳科学者の中野信子によれば、
前者と後者の神経システムは
二者択一的な造りをしていて
両方いっぺんに働くことはないという。(*3)
 
鉄道好きな私としては、このメカニズムを、
このようにイメージして理解する。
 

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すなわち、人の脳の中の神経システムが、線路のように、あるポイントで切り替えられて、「頭ない」状態と「頭ある」状態を行ったり来たりするのだ、と。
 
人はみな、幼いときは「頭ない」時間が長くて、
だんだんと「頭ある」システムに切り替える時間が長くなっていき、
自立した大人になっていくのではないだろうか。
 
それをわかりやすく「成長」と呼ぶのだろう。
 
親が子どもの自立心を尊び、ちゃんと育てられた人は、
「頭ある」人になる時期が早いように思う。
 
私の幼少期、青年期の友人や知人の顔を思い返しても、
「あいつは早くから大人びていた」
という者は、やはり親が子の存在を承認し、尊重していた。
 
支配され、虐待されて育った私は、
はるかに遅熟であったし、
大人になっても、なおもしばらくは、
「頭ない」人であった。
 
それゆえに学生時代などは、
周囲の人々にだいぶ迷惑をかけたし、
呆れられもした。
 
二十代、海外ひきこもりなどするうちに、
しだいに「頭ある」人になってきたように思う(*4)
 
 
解離という症状は、
「頭ない」状態の一つなのではないか。
 
解離や離人症の人も、
治ってくるにしたがって、
だんだん「頭ある」人になってくる。
 
それは、私のように長年、精神科にかよっていると、
そうした実例をまざまざと身近に多く拝見するものである。
 
となると、
そもそも精神医療とは、
「頭ない」状態から「頭ある」状態へみちびくこと
ではないか、と私は思うのだ。
 
だから、
「回復」と「成長」はしばしば同じように扱われるのだ。
 
ゆえに、「頭ある患者は追い出して
治療者のいうことだけを聞く
「頭ない状態に他の患者たちを飼いならしていくのは、
もはや精神療法ではないのではないか。
 
それは宗教や政治の類なのではないか。
 
フロイト以前に戻ることなのではないか。
 
ヴァン・エーデンの言うように、
精神療法とは
「頭ある」患者を相手にして通用するものであり、
その目的とは、
自分の人生にまつわる物事を
自分で責任もって判断できるような
自己の確立」であるはずのものなのである。
 
 
 
・・・「長男の放逐(110)」へつづく
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