VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

被災地の内と外(16)「不謹慎」狩り ~ 不幸の他者性

被災地の内と外(15)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
毎日放送山中真アナウンサーの
弁当写真ツイート事件を扱った、
aka*****さんの記事「貧するクレーム社会(*1)
私は高く評価させていただいた。
 
*1.aka*****さん「貧するクレーム社会
 
 
熊本地震で取材に入っているアナウンサーが
やっと今日の1食目。食料なかなか手に入りにくいです」
と弁当の写真をアップロードしたところが、
ネット上で叩かれて、
謝罪して削除した事件(*2)を考察したものである。
 
産経WEST 2016年4月19日12:10
 
私も、その件をあつかった記事を
出させていただこうかと考えていたところ、
aka*****さんの記事が、地味な体裁ながら
だいたい言い尽くされているようなので、
 
「もはや私ごときが何も言うことはない」
 
と筆を擱(お)いた。
 
弁当写真ツイート事件は、その後、
安倍首相カツカレー事件へと発展しているようだ(*3)が、
それについては触れない。
J-CASTニュース 2016.4.20 16:40
 
 
問題は、被災地の「食料」を皮切りに
「不謹慎狩り」
が横行してきたことである。
 
それについて、脳科学者の茂木健一郎はこう書いている。
 
笑顔をインスタで上げて「不謹慎」だと言われたり、高額の寄付をした方が「不謹慎」だと言われたり。

日本人には、今回の震災のような事態が起こった時に、派手なこと、目立つことをすることを慎み、みなで力を合わせて乗り切る、というような文化的遺伝子が根強くあるようです。

そのこと自体は、決して悪いことではないと思いますが、行き過ぎた同化圧力になってしまうことが、問題なのだと思います。

(……中略……)

今、世間がどのような空気の中にいるか、ということを察知し、それに合わせればいいのですが、そのようなことをできない、ある意味ではナイーヴな、「よい人」こそが、「不謹慎狩り」のターゲットになってしまっているような気がしてなりません。(*4)
*4.茂木健一郎オフィシャルブログ
太字は引用者
 
「食料もない被災者の方もいるのだから」
と共感して、
「空気を読んで」弁当の写真をアップしないという配慮が、
積もり積もれば「同化圧力」となって、
不謹慎狩りにつながっていく、
ということだろう。
 
このことは、被災地に関わることのみならず、
私たちぼそっとプロジェクト
さまざまな心的外傷を負った者たちの
自助グループの活動といくつかの接点を持っている。
 
私たちACが、最終的に「治る」とは、
「主体を奪回すること」、すなわち
「自分がない」状態から
「自分がある」状態へ移っていくことだろう。
 
そのときに、その移行が周囲から
「不謹慎だ」
とは行かないまでも、
「なんでお前だけ発言してるんだよ」
と白い眼で見られ、
陰に陽に足をひっぱられることも
おおいにありえるのである。
 
自分の頭でモノが考えられない人、
すなわち、私がいう「頭ない人」(*5)は、
行動を決めるときに、
右を見て、左を見て、
「とりあえず、それと同じにしておこう」
としがちである。
 
 
 
それが最も安全に思えるからである。
 
こうした右顧左眄(うこさべん)は、
成育歴に問題がある人が「治っていく」ときに通過する
一つのステップのようなものであって、
それ自体、良いの悪いのといっても仕方がないだろう。
 
しかし「不謹慎狩り」は、
主体のない人、「頭ない人」たちの
こうした右顧左眄が温床なのではないか、と私は思うのだ。
 
「あっちではやっていない。
 お前だけやるのか。
 この、不謹慎な奴め」と。
 
 
 
 
 
 
一方では、この不謹慎狩りの温床と
私たちがやっている活動に欠かせない共感は、
表裏一体であり、
灰とダイヤモンドのように同素体(*6)なのだと思う。
 
*6.同素体とは
 
 
被災して建物の下敷きになった方が、
お気の毒でしかたがない。
 
食べ物も手に入らない避難所の方が、
かわいそうでしかたがない。
 
しかし、
どれだけお気の毒でも、
どれだけかわいそうでも、
私のように被災地の外にいる者が、
瞬時にしてその方になりかわってあげることはできない。
 
残酷なようだが、そこには絶対的な壁がある。
 
そのかわり、いま自分が背負っている
筆舌つくしがたい生きづらさを
他者が肩代わりしてくれることもけっしてない。
 
そこには絶対的な壁がある。
 
「下敷きになっていること」
「食べ物がないこと」
「生きづらいこと」
などを、いま仮に「不幸」という名でまとめてしまうと、
そこに
 
不幸の他者性
 
というべきものが厳然として在る。
 
 
この「不幸の他者性」を、どのようにとらえるか。
 
対岸の火事」と、とらえる人もいるだろう。
そうとらえることも、
一つの生きていく術なのかもしれない。
 
かたや、自らに引きつけてとらえようとする人もいるだろう。
 
一つ言えるのは、
不幸が他者のものであるからこそ、
そこに共感の可能性が生まれる、
ということだ。
 
言い換えれば、
不幸が自分のものであれば、
共感することはできないし、する必要もない
 
共感は、支援におきかえても同じことだ。
 
そして、共感するときに人は、
他者のなかに、自らが鏡に映った像を見ているのである。
 
だからこそ、望月雄大がいう
「今こそ防災を考えるチャンス」
といった思考(*7)大きな意味を持つ。
 
*7.HIROKIM BLOG 2016.04.16
 
 
アリスのように、鏡の中に自分が入ってしまい、
いわれのない罪悪感で自らを押しつぶすようになると、
それが「不謹慎狩り」を生み出していくのではないだろうか。
 
となると、
この罪悪感の出自が問われていくはずである。
 
 
 
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    マスゴミカルト気持ち悪いな。そのうちテロ事件でも起こしそうだ。 削除

    kazu ]

     

    2016/4/21(木) 午後 8:28

     返信する
  •          

    kazuさま コメントをどうもありがとうございます。
    やはり「不謹慎」と指摘する側にも、無力感から来る怒りがたまっていたりするのではないでしょうか。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/4/21(木) 午後 9:42

     返信する
  •          

    2016/4/21(木) 午後 11:18内緒さま コメントをどうもありがとうございます。
    そのカレー屋は、私にとっては高級店すぎてほとんど参りません。さすがに妬みはしませんけれど。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/4/22(金) 午前 10:40

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