VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

治療者と患者(49)それでもボクは黙ってない 畠山干春「やってないという男にかぎって、やっている」を考える

治療者と患者(48)」からのつづき・・・
 
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
by ぼそっと池井多
 
 
私たちが通う精神科医療機関は
デイナイトケアのプログラムの一つとして
毎週決まった曜日に「映画鑑賞」という時間がある。
 
これは、デイナイトケアの時間数規定を満たすために
いたずらに設けられているものではなく、
映画作品を観ることによって作られていく心というものが、
たしかに在る、と考えられるからである。
 
月ごとにテーマが決まっており、
今月は周防正行監督特集である。
 
ところが、彼の代表作
は、上映のラインアップからはずされている
 
当初は、
 
『ファンシイダンス』
『舞妓はレディ』
 
というラインアップだったものが、
最後の作品だけ急遽、
シコふんじゃった。』に差し替えられたのである。
 
広く知られるように、
痴漢冤罪をテーマとした社会派の映画である。
 
 
 
電車の中で痴漢をした、
という加害者の嫌疑をかけられて、
家庭的にも社会的にもボロボロになっていく
男たちの被害を描きだした力作である。
 
周防監督が長い時間をかけて自ら取材した
実在する事件の数々に基づくストーリーであり、
私からみれば上記の監督作品のなかでは、
もっとも観るべき一番の秀作であると思う。
 
いまの日本の都市部に暮らす
男性の多くが日常的に持っている恐怖を
シャープに描きだしており、
 
「よくぞ作ってくれました」
 
と内心快哉を叫んだ男性も少なくなかったろう。
 
私なども、そんなぶざまな男性の一人である。
 
毎日のように乗る地下鉄で
にわかに車内が混んでくると、
あわてて読んでもいない本を鞄から取り出したりしている。
 
それは、いつなんどき痴漢の嫌疑がかけられても、
 
「片手は吊り革につかまって、
 もう片手は本を持っていました。
 だから両手がふさがっていました」
 
と言える状況にするためである。
 
どんなに疲れていても、
…いや、疲れている時こそ嵌められやすいから、
努めてそういう状況をむりやり作り出したりしている。
 
仲間の男性はどうか、と見てみると、
そういうときのために
文庫本の一冊も持っておくという知恵も回らないのか、
混雑にもみくちゃにされながら、
両手を挙げている奴もいる。
 
片手はつかむ吊り革を見つけたが、
もう片手は、確保できる吊り革がなかったのである。
 
両手で吊り革につかまればいいじゃないか、
と思われるかもしれないが、
混みあう車内で、「吊り輪」の体操選手のように、
二つの吊り革を占領するのも気が引ける。
 
そこで、一方の手は
ただ、むなしく上方の中空に突き出されているのである。
 
まさしく「お手上げ」の状態だ。
 
これほどまでに痴漢冤罪というものは、
都市部に暮らす男たちにとって切実であり、
は、必見の作品なのである。
 
ところが、私たちのクリニックでは
上映予定からはずされた。
 
「なぜか」と訊きまわってみると、
ある一人の女性の上級患者がこう言ったからだという。
 
 
「『それでもボクはやってない』という男は、
 たいていやっている」
 
 
 
 
 
 
 
 
「そんなバカな、」
 
と、読者の方々は思うであろう。
 
「一人の患者が、
 そんなとんでもない一言をいっただけで、
 クリニック全体の治療内容が左右されるのか」
 
と。
 
されるのである。
 
じつは、この小さな一件は、
私たち治療共同体の特徴を物語る好例である。
 
 
その上級患者、畠山干春(はたけやま・ひはる/仮名)は、
私と前後して1990年代に入ってきた古参の患者だが、
ピアノが弾けるということで、
デイナイトケアのプログラムである
「ピアノ講座」の講師もつとめている。
 
すなわち、患者でありながらスタッフであり、
塞翁先生が現在、手がけている
リカモリ制度の原型を体現している患者ともいえる。
 
それだけに塞翁先生のご寵愛も篤く、
彼女が自分のピアノ演奏のCDを出したときには
塞翁先生が制作資金の150万円も出したようである。
 
それは、塞翁先生自身から私が診察で聞いた。
 
そんな畠山干春であるから、
私たちの治療内容を左右するほどの
影響力を持っているというわけである。
 
また、そんな話もあるから、
「ザストに金がないからリカモリ制度にする」
などと聞いても、私は入っていく気がしないのだろう。
受講料60万円は、そのまま上級患者の自己実現
回されていくように感じるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
私たちの治療共同体では、基本的に
女性ならば近親姦被害者、
男性ならば性犯罪加害者が治療の対象として厚遇される。
 
それは、以前に私が
IS(*2)と名づけさせていただいた傾向である。
 
*2.Incest Supremacy
近親姦優越主義
 
 
 
その延長として、私たちのクリニックでは、
女性被害者男性加害者という基本的立場を
やんわりと取らされていくのが、
「治療」と呼ばれる営みになっている。
 
何かが起これば、必ず
加害者被害者という解釈の図式に持っていかれる。
 
 
 
なにも治療者が男性患者に面と向かって大声で、
 
「お前は加害者だ!加害者だ!加害者だ!」
 
と責め立てるわけではない。
 
しかし、たとえば今回の
 
「男性が自分の被害に着目するきっかけとなるような映画は、
上映のラインアップから外される」
 
というような、
きわめて間接的な小さな操作の積み重ねが行われているのである。
 
象徴的にいえば、ささやくような小さな声で、
 
「お前は加害者だ。加害者なんだよ。加害者だ」
 
と言われつづけるようなものである。
 
「雨だれ、石をも穿(うが)つ」というが、
こういうことはたとえ小さな声でも、
何年も、ほとんど毎日のように聞かされていれば、
人を変えていくものだと思う。
 
こういうことは再帰性がある。
 
長年にわたって
 
「お前は加害者だ。加害者だ。加害者だ」
 
とささやかれていれば、その人は、
 
「そうか、おれは加害者なのか」
 
と思うようになって、
ある日、ほんものの加害者になるということだ。
 
冤罪を着せられて、死刑囚として
長年、独房へ入れられていたために、
支配妄想を持つようになった袴田巌さん(*3)などは、
そのデリバティブな例であろう。
 
 
 
私自身は、まだ具体的な加害者にまではなっていないが、
自分の中の攻撃性を長年にわたり観察してきて、
そういうことは確かにいえると思う。
 
私自身も、院内生活で
セカンド・レイプをしたことにされた時期があった(*4)
 
 
 
 
グループ療法においては、
特定の集団がそのような再帰性の対象とならないようにする、
という責任がほんらい治療者にある。
 
ところが、塞翁先生の場合は、
 
「私は女の味方だから」
近親姦優遇で何がわるい」
 
などと開き直るのである。
 
 
また、月1回、外部からやってきたゲストが、
塞翁先生との対談で、
 
「最近は男性の性虐待被害というものも
 出てきているようですね」
 
といった話を始めると、
 
「男が被害者という話は、たいてい誤報です」
 
などと塞翁先生が断固として否定してしまう。
 
聞いている男性患者は、
その場では何一つ言わないし、
また、限られた時間では何一つ言えないが、
 
「とんでもないことが押し通されている」
 
と考えている者は、
きっと私一人ではないのではないか。
 
そんな「治療」という名の思想教育を受けているうちに、
ほんとうに
 
自分のされたことは大したことでないんだ、
自分は加害者なのだ」
 
と考えるようになる男性患者もいる。
 
さきほど申し上げた再帰性の「はしり」である。
 
男性患者は、
「自分は加害者です」
と言ったほうが、治療共同体の中で居場所を得て、
そこに存在することを承認される。
 
となると、
 
成育歴のなかで存在承認に飢えた男は、
承認されるためなら
いくらでも加害者にもなる。
 
 
逆に、自分の被害という側面を
ためらわず前面に出すようになった私は、
放逐の対象となっていった(*5)
 
 
 
 
 
 
 
 
トラウマの治療には、
まずは被害者としての自己を自覚するのが
重要なステップとされている。
 
そのステップを経て、
自分の被害がきちんと認識されたうえで、
それをどのように癒すかが考えられ、
やがてそれが癒されて、社会的に再生していくというのが
トラウマ治療の基本モデルである。(*6)
 
*6. J.L.ハーマン『心的外傷と回復』
 
ここ二、三十年の精神医学の変遷はいちじるしいが、
キューブラー=ロスの「受容の五段階」と同じように、
この基本モデルは揺らいではいないだろう。
 
しかし、男性が被害者としての自己を
できるだけ認識しないように環境が作られているのである。
 
それは、もしかしたら
ポスト・フェミニズムの時代と呼ばれる、
こんにちの日本社会ぜんたいに
うっすらと靄(もや)のようにかかっている現象かもしれない。
 
男性が自分の被害を語ることは、
女性を敵視することなどでは、まったくないのだが、
 
「女性を敵に回したくないから」
 
などと考えて、その一歩が踏み出せない男性が多い。
 
もちろん、自分の被害など語る男は
傍目にはみっともない、情けない存在である。
 
だからこそ、男たちはその姿を回避して生きてしまう。
それは、強さを演じた、一つの弱さである。
 
恥の殻を内側へ突き破る、真の強い意思がなければ、
とうてい先へ進めるものではない。
 
その意思は、いままでの男たちが奉じてきた
「恥をさらさないように」と動機づけられる意思と
反対の方向をむいているために、
行く手をはばむ困難はなおさら大きい。
 
……。
……。
 
 
「やっていないという者は、たいていやっている」
 
などと言われてしまったら、
ほんとうにやっていない者は、
いったい何と言えばよいのか。
 
何も言えないのかもしれない。
 
それでもボクは黙ってない。
 
 
 
 
 
 
 
 

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