VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

無差別殺人犯を読む(25)相模原事件と主体

無差別殺人犯を読む(24)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
相模原大量殺傷事件は、
もしかしたら秋葉原無差別殺傷事件よりも深く、
忌まわしい記憶となって
私たちの歴史に刻まれるかもしれない。
 
こういう事件が起こったときに、
やれ、「障碍者を差別するな」とか
やれ、「人の命は貴重なものだ」とか
もっともらしいきれいごとばかり言っていても
しょうがないと思う。
 
大麻の陽性反応が出たことから、
植松容疑者が薬物でボロボロになったために及んだ凶行である、
という解釈におちついて安心している論者が多い。
 
しかし、パトカーで護送されていくときの
あの自信に満ちた笑顔は、
けっして、いっときの錯乱状態で凶行におよんだわけではない
といった経緯を想わせる。
 
彼は、彼なりの思想を持ち、
その思想にもとづいて一つの行動を選択したのだ。
それだけに、この事件はより深刻なのだ。
 
最近、世界のあちこちで起こった
フロリダやバングラデシュ
ニースやミュンヘンのテロと同じく、
確固たる思想をもって決行されたテロといってもよいだろう。
 
その確信の気配が、
見かけ上はいつもと変わらない日常生活を送る私たちに
暗い影を投げかけている。
 
 
障碍者として暮らすことが幸せなのか。
 障碍者は家族を不幸にする」
 
彼は、そんな思想をどのように醸成していったのか。
 
「両親は、息子を大学にまで通わせて成人させたので、
親の責任を問うべき事件ではない」
 
と言われる。
 
たしかに、それはそうだが、
そういう思想を懐くようになった者の成育歴をたどることは
阻まれるべきではない。
 
それは、「親の責任を問う」こととは別問題である。
 
そのうえで考えると、
彼は教員の一人息子だったらしい。
 
私の母も、教師であった。
 
窮屈な成育環境が、
「なにごとも効率よく処理する」
という思考パターンを生み、
障碍者は生きていても仕方がない」
という思想へつながっていったのではないか、
という仮説を私は持つのである。
 
 
 
 
 
 
きれいごとは書くまい。
 
私の親兄弟は、私という精神障碍者
「早く死んでほしい」
と思っているのが本音だと思う。
 
「早く死んでほしいんだろう?」
と正面から問えば、
まちがいなくおおげさに否定するだろうが、
本音はそうだと思う。
 
面と向かって、そう言わなくてもすむように、
彼らは私から逃げ回っている。
 
私は今回の舞台となった相模原の施設も、
犠牲者やそのご家族のことも何も知らない。
 
今回、犠牲者のお名前は
ご家族の希望により公表されていない。
 
「被害者の二重被害をふせぐ」
という警察の判断なのだろうが、
そうであるなら一般事件にも適用されるべきであり、
犠牲者が障碍者であるときだけ、
「家族の希望で」
名前を公表しないとなると、これはどうなのか。
 
この事実には、全国の障碍者たちに
 
「まさか自分たちが生きていることを
家族が『ないこと』にしようとしているのでは…」
 
という疑念と動揺が走っている。
 
 
私自身、社会の下層で生きてきて
いろいろな障碍者やその家族との出会いがあった。
 
「出会い」と書くと、
なにかほのぼのしたもののように聞こえるかもしれないが、
つねにそうとはかぎらない。
 
砂を噛むような出会いもある。
 
障碍者のあの子は、
 べつに死んでほしいとは思わないけど、
 でも、それはあの子の障害年金が入ってくるから」
 
という家族も、この広い世の中にはいるのである。
 
そういう貧困層の家族では、
障碍者の存在が、一家をささえる
唯一の収入源になってしまっている。
 
そういう家族に、もし障害年金が下りなくなったら、
家族は本人に「死んでほしい」と思うようになる
可能性がないと誰が言いきれようか。
 
世間は、天使ばかりではない。
 
このように考えてくると、
植松容疑者のとなえている優生思想が、
一から十まで荒唐無稽なものだとは言えないのである。
 
彼を「悪だ、悪者だ」となじっていれば
それで済むような事件ではないのである。
 
それだけに、この事件がもたらす暗黒は、
私たちの日常をうっすらと
雨の日の夕闇のように覆っている。
 
 
 
 
 
 
そのような中で、
「それでは障碍者自身はどうなのか」
というところに、論点は帰ってくるべきだ。
 
「主体」というところに、
やはり問題は還ってくるべきだ。
 
「ほら、また始まったぞ。
 ぼそっと池井多の主体(チェチェ)思想だ」
 
などと鼻先であざ笑っている人びともいるだろうが、
つまるところ虐待でも虐殺でも、
主体の意思を抜きにして語ることはできないと思う。
 
 
障碍者それぞれに家族がいる。
 だから殺してはいけないんだ」
 
という論法では、
 
「それじゃあ、家族のいない障碍者はどうなんだ。
 家族から捨てられた障碍者は」
 
ということになる。
 
 
たとえ私を放逐した家族が私に死んでほしいと思っていても、
私が私に死んでほしいと思っていない以上、
私を殺すことは正当化されない
 
同じことが今回の犠牲者にもいえる。
 
殺された障碍者一人ひとりに、
 
「明日、あの山を見たい」
 
というような気持ちがあったのではないか。
 
事件前の植松容疑者に何人もの人が問答している。
 
「君の考えではヒトラーと同じだ」
「そう考えてもらってけっこうです」
 
そんなやりとりが報道されている。
 
しかし、
「たとえ君の考えに百歩ゆずって
かりに障碍者の家族が死んでほしいと思っていたとしても、
殺される障碍者自身は生きたいと思っていたのではないか」
という、
いささかタブーを侵し、
良識の花園を踏み荒らす問いかけを、
事件前の植松容疑者に
誰かぶつけてみたのだろうか。
 
措置入院していた先の治療者たちはどうか。
 
 
……。
……。
 
 
そこで私の目が留まった語がある。
 
「実存的殺人」
 
これを言ったのは、
まったく目も見えず、耳も聞こえない東大教授の
福島智さんという人である。(*1)
 
 
 
肉体的な生命をうばうのとはまた別に、
人間の尊厳や生存の意味そのものをうばうことを
福島教授は「実存的殺人」という語でいいあらわした。
 
障碍者自身からこんな語が発せられるとき、
私たちは「人生」も「生命」も「生」も、
およそ英語にするとみんな「life」 になるような概念たちと
「主体」との、切っても切れない関係に
あらためて想いを駆られる。
 
家族うんぬんよりも、
障碍者一人ひとりに実存があったのだ。
 
今回の事件を読み解いていく出発点も
やはりそこにあるような気がするのである。
 

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・・・「無差別殺人犯を読む(26)」へつづく
 
 
  •     

    こんにちは☆*
    そうですね、確信犯による大量殺人として歴史に残っていいと思います
    大麻の影響も無視は出来ませんが・・
    ディフェンスもあまかったですね・・
    残念な事件でした 削除

    ジュピター *☆*

     

    2016/7/30(土) 午前 10:54

     返信する
  •     

    ジュピター *☆*さま コメントをどうもありがとうございます。
    今年は世界中で大量殺傷事件が続発していますね。
    悲しい事件でした。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/7/30(土) 午前 11:18

     返信する
  •     

    顔アイコン

    障碍者一人ひとりに実存がある」は大変重い言葉ですね・・そこまで考えの及ばなかった自分への戒めとします。 削除

    迷えるオッサン

     

    2016/7/30(土) 午後 4:42

     返信する
  •     

    迷えるオッサンさま コメントをどうもありがとうございます。
    事件の現場を訪れた、ある政治家が「どこから手を付けて、どこから考えればいいかわからない」と言ったとか。
    たしかにいろいろな問題が入り組んで、そういう気分にさせられるのはわかりますが、入り口は「障碍者の実存」なのではないかと私は思い至った次第です。
    オッサンさまがどのような背景から「自分への戒めと」するかはぞんじませんが、ともかく私はそのように考えました。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/7/30(土) 午後 11:11

     返信する
  •     

    顔アイコン

    この記事を<相模原事件と「実存的殺人」>として私のブログで紹介させてください。
    天才可として頂ければ有り難いです。 削除

    迷えるオッサン

     

    2016/7/31(日) 午前 10:27

     返信する
  •     

    迷えるオッサンさま ありがとうございます。
    「転載可」に変更させていただきました。
    よろしくお願いいたします。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/7/31(日) 午前 11:33

     返信する
  •     

    アバター

    はじめまして。ねえねと申します。
    迷えるオッサンのところからお邪魔させていただきました。
    まず犠牲になられた方のご冥福をお祈りいたします。

    植松容疑者に対して
    「なんて酷い」とコメントするのは簡単です。
    しかし植松容疑者も秋葉原の犯人も、テロリストも、
    私達との差はたった紙一重ではないかと思います。

    虐待とか歪んだ愛情とかマインドコントロールの中で
    幼少期から過ごしてきたとしたら~。
    「それでも私は変な思想にならない」なんて誰が言い切れるでしょうか。
    私が凶悪犯に対して非難できるのは、
    そういう環境下になくマインドコントロールもされず、今まで生きてきただけ。たまたまなんです。 削除

    ねえね

     

    2016/7/31(日) 午後 10:23

     返信する
  •     

    アバター

    ねえねはプチ・ヒンズー教徒なので、
    健常者も障碍者も、善も悪も、美しいもの汚いもの、
    全てがあるから、生きていけるのだという考えです。
    健常者ばかりの世界なんて、今よりもっとおぞましいと想像します。
    絶対的な幸せもないし、絶対的な不幸もないので、
    どこに焦点あてるかだと思います。

    障碍者年金をあてにしている家族も、たしかにいるでしょうが、そういうのは一部だと思います。
    おおかたの家族が、障がいがあろうがなかろうが、
    大切な家族であることに違いないので、
    負のほうばかりにフォーカスすると、自分の見える世界が、負だらけになっちゃいます。

    今回の事件は、許しがたい犯罪だけど、
    このことによって障がい者施設の在り方や、
    障がい者の人権を見直すきっかけとなって欲しいと
    願います。 削除

    ねえね

     

    2016/7/31(日) 午後 10:32

     返信する
  •     

    ねえねさま 2件のコメントをどうもありがとうございます。

    まさしくおっしゃるとおりだと思います。
    酒鬼薔薇聖斗事件も、秋葉原事件も、今回の相模原事件も、凄惨な事件が起こるたびに、自分という存在が、被害者にも加害者にも、ふと紙一重で成りえたということを想わざるをえません。

    たしかに負の方ばかりフォーカスすると、見える世界が負だらけになってしまいますが、目を開けると負ばかり見えるところに住んでいる人もいるわけで、そういう人にはまず負にフォーカスすることを禁じないであげることが第一歩なのではないか、と思います。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/7/31(日) 午後 11:23

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