VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

長男の放逐(143)富士山の話の虚妄

長男の放逐(142)」からのつづき・・・

#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害

 

by ぼそっと池井多

 

前回、掲載させていただいた
暗渠の声(*1)
は、もともと2013年3月に
私たち患者村の機関誌「ザスト通信」に発表させていただいた
私の体験談である。
 
 
もちろん、書いたときは
のちにこれがそれほど問題になるとは思っていなかったのだが、
いまでは私にとって
私たち患者村のありようや、私の一連の放逐劇は、
この小品を抜きにして語ることはできない。
 
なぜならば、塞翁先生による私への批判の根拠となっている
 
富士山の話
 
というのは、この小品がいつのまにか塞翁先生の頭の中で歪曲されたものだからである。
 
すなわち、ほんとうに読んだのか、読んでいないのかわからないが、ともかく塞翁先生はこの小品をもとにして、
このような主旨のことをくりかえし言っているのである。
 
ぼそっと池井多が高校時代のころ、
池井多の母が、自慰の後始末のティッシュを集めて
机の上に富士山を作った。

こんなものは
「性虐待ではあっても近親姦ではない」
ため、江青さんが池井多の優位に立ったのは当然である。

本記事を読んでくださっている、患者仲間の方々も
少なくとも一度や二度、
塞翁先生がそんなことを語っているのを
聞いたことがあるだろう。
 
リカモリ講座でも、サマーキャンプでも、
塞翁ミーティングでも、
私のいないところで私を批判するときには、
必ずといってよいほど
この「富士山の話」が出てくるらしい。
 
逆にいうと、いまや私、ぼそっと池井多という患者は
塞翁先生にとって、
この「富士山の話」に集約されているのである。
 
しかし、
この「暗渠の声」の、どこをどう読めば、
「富士山の話」になるのだろうか。
 
ならないのである。
 
たしかに、母が高校時代の私の自慰の後始末のティッシュ
ゴミ箱からまさぐって机の上に置いた、
という事実が、この体験談の中には書かれている。
 
しかし、
「富士山のように積み上げた」
などとは書いていない。
 
「積み上げる」というからには、
そういう物片が複数、存在していなければならないし、
「富士山のように積み上げた」
などとというからには、
数十もの物片が存在していなければならない。
 
それだけの汚れたティッシュが、
一度に入手できるわけはないから、
母は、私の手淫ティッシュのかたまりを
ていねいに収集してためこんでいたことになり、
だいぶ話の内容が変わってくるのである。
 
こうして「富士山の話」は「暗渠の声(*1)とは、
かなりちがう話になることは、
精神医学に何の知識もない一般の方々の目にも
明らかではないだろうか。
 
 
これは、塞翁先生という精神科医は、
この手の証言の歪曲や誇張は平気でおこなう
ということを物語っている。
 
私がいるところで、塞翁先生が
「池井多さんのお母さんが富士山つくっちゃった」
と話すときには、
すぐさま私は
「それは事実とはちがいます」
と指摘する。
 
また、私たち患者村の「官報」にあたる
ザスト通信でも、
その話は塞翁先生の誇張であると
私ははっきり書かせていただいた。
 
しかし、それでも塞翁先生は
「富士山つくっちゃった」
という話をやめない。
 
そして、それを
江青さんを優位に立たせるための根拠へ持ってくるのである。
 
否定しても、否定しても、塞翁先生は
いちど自分が作って発表してしまったら、
かたくなにその作話を語りつづける。
 
自分がつくった嘘を、
いつのまにか自分で信じてしまっているのかもしれない。
 
そのため、たいがいは、
しまいに患者のほうが根負けして否定するのをあきらめる。
 
すると、そういう話は既成事実となっていき、
塞翁先生の著書にも書かれるのである。
 
だから、塞翁先生が著してきた多くの本に書かれている
患者の症例にまつわる話は、おおかた嘘だろう、
と私のような永年の患者は考えている。
 
そういう本を、まるで聖書のように
あがめたてまつっている塞翁教信者をみると、
少なからず哀れに思うこともある。
 
そういう誇張や虚飾にまみれない
私たちの「真実」を「生の声」で世に出したい、
という気持ちが、
私にこのぼそっとプロジェクトを始めさせた動機の一つとなっている。
 
 
 
 
 
 
書いた本人に言わせていただくならば、
暗渠の声」は、
母親がティッシュを机の上に置く話でまとめられるものではない。
 
それは、何も精神医学などに知識がなくても、
たしょうの日本語の文章を読むことに慣れている人ならば、
誰でもわかりそうなものだと思う。
 
たとえば、母親自身が仕掛けたエロスの罠に
「私」がはまって、少年らしい行動をうっかり起こしてしまうと、
母がそれを「ハレンチな色恋沙汰」などといって責める。
 
言われた少年は恥辱にまみれ、母の言葉で強姦されていた。
 
ティッシュの塊を掘り出して机の上に置くという事件は、
そのような母親の、息子のエロスへの侵入が
誰の目にもわかりやすい形で行動化された部分ではあるだろう。
 
しかし、じっさいには全篇にわたって描かれているような
そこまで明確なかたちでは行動化されない
母親の私へのエロス侵入こそが、
私の幼少期から青年期へかけての生活全般に
瀰漫(びまん)していたのである。
 
性器の挿入であるとか、
手淫ティッシュの暴露であるとか、
そういう物象的なかたち以前の精神的近親姦
……いわば、そういうふうに物象として明示できないからこそ
被害者も訴えようがなくて苦しみ、
治療につながってからも治療者に理解されずに苦しみ、
肉体的近親姦の患者に比べて治療も後回しになることで苦しむという、
精神的近親姦という虐待の被害者の救いようのなさを、
ほんらい塞翁先生には感じ取ってほしかったのである。
 
しかし、もともと病的なまでの女性偏重のきらいがあり、
エロスに関しても
男は加害者、女は被害者というわかりやすい図式でしか
理解しようとしない塞翁先生には
どうやら無理であったようである。
 
そういうことでいうと、
私の訴える精神的近親姦は、
ここで問題となった「暗渠の声」よりもむしろ、
本ブログにも連載させていただいている
に顕著であるようにも思われる。
 
 
もちろん性器の挿入は出てこない。
 
自慰のティッシュも出てこない。
 
にもかかわらず、この話のほうが
精神的近親姦を象徴的により稠密に物語っており、
私という患者を要約するのに
ふさわしい話であると思う。
 
むろん、一つや二つの体験談で
一人の人間の成育歴がすべて要約できるものではないが、
少なくとも「富士山の話」などのように
塞翁先生がかってに作りあげた、
愚にもつかないフィクションよりもはるかに
スパゲッティの惨劇」のほうが
私という患者の既往を語っている。
 
その中で描かれる「主体の剥奪」が、
虐待の本質であり、
それは塞翁先生が優遇する肉体的近親姦においても
やはり起こっていることであろうからである。
 
 
・・・「長男の放逐(144)」へつづく
 
 
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    顔アイコン

    私にはぼそっとさんが塞翁先生をはるかに凌駕する精神科医に見えます。
    それは塞翁先生との17年間の治療と患者の関係を経て確立されたように思えますが・・いずれにせよぼそっとプロジェクトが一番安心できる精神化治療施設のように見えます。 削除

    迷えるオッサン

    2016/9/22(木) 午前 10:41

    返信する
  •          

    迷えるオッサンさま コメントをどうもありがとうございます。

    これはなんとも過分なお言葉、恐れ多い事でございます。

    しょせん私は一人の患者にすぎませんし、リカモリング・アホバイザーですらありません。
    しかし、自分が17年の末に結局あのような理不尽なかたちで追い払われるという体験をいたしまして、患者たちが自分たちで治っていくという道筋はつけられないものかと、ぶざまな悪戦苦闘をしているというわけでございます。

    迷えるオッサンさまはじめ、理解ある多数の一般市民の方々があたたかく見守ってくださる視線につとに感謝しております。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/22(木) 午前 11:45

    返信する
  •          

    「二人のフェミニスト

    ボーヴォワールが嫌いだ。

    ジェンダーという概念を発明し、女性開放運動の創始であり、サルトルと対等に付き合い、フランス婚の礎を作ったともいえる、この偉大な女性哲学者が私は嫌いなのです。

    といっても私はボーヴォワールの著作を一行も読んだことはありません。ですが、もし読んだら、現代のフェミニストたちにあるヒステリックな論調はおそらくないと想像はしています。

    優れた思想というのは、後世の論者に都合のいいように政治的に利用され、曲解されるもので、ボーヴォワールにその意図はないことが想像できるのです。

    にも関わらず、私は今でもある理由から、ボーヴォワールを読んでみようとは思わないのです。

    かといって、フェミニズムというものを私が嫌っているわけでもありません。

    例えば、ぼそっとさんが嫌われている上野千鶴子女史の著作を、私は一時期面白く読んでいました。 削除

    痴陶人 ]

    2016/9/22(木) 午後 3:14

    返信する
  •          

    「スカートの下の劇場」で上野女史は、女性の下着を考察する中で、男性の下着にも触れ、ボクサーパンツなどなかった時代に、女性がトランクスよりもブリーフを好む理由を、夫や息子が下着の中で男性器をぶらぶらさせているイメージを嫌うからだという大胆な心理学的考察をされていました。ブリーフは、ぺニスの拘束、性器の管理だというのです。

    そして、下着を買い与えたり、洗濯する妻や母親の役得で、女性は、夫や息子の性器の管理もしていたというわけです。

    女の子が生理で汚れた下着を父親にチェックされる心配がないのに反し、男の子は男性の生理ともいえる夢精の証拠を、洗濯物として母親に供する屈辱を味あわねばならないことを私は何度か経験していましたから、下着の管理=性器の管理という発想を非常に面白く思ったわけです。

    今回のぼそっとさんのいう暗渠、塞翁先生のいう富士山の話で、私は私にもあった同じような体験を思い出しました。

    それは私が中学の2年か3年の時だったと思います。 削除

    痴陶人 ]

    2016/9/22(木) 午後 3:16

    返信する
  •          

    ぼそっとさんと同じように、ある日ゴミ箱の中にティッシュの証拠を残したまま通学し、それを授業中に思いだし、ドキドキしながら走って帰宅したのです。

    しかし、証拠は、私以外の者の手で既に隠滅され、代わりに怪盗ルパンが犯人の手懸かりを自ら残すように、私の勉強机の上にあるものが残されていたのでした。

    それがボーヴォワールの「第二の性」という本でした。本の帯には、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と書かれていました。

    私は母の陰湿なやり口を恨みました。そして、誰がボーヴォワールなんて読んでやるものかと思い、意思の弱い私が、未だにそれを励行しているわけです。

    母は、私が男の性を露呈する度に、例えばぼそっとさんが給水タンクの隙間に隠したような悪書を、スピーカーの木の箱の上げ底に隠しているのを見つけたりした際に、その悪書を晒す代わりに、私の机の上に「第二の性」を置くのでした。 削除

    痴陶人 ]

    2016/9/22(木) 午後 3:18

    返信する
  •          

    自分自身は、古い価値観に雁字搦めになり、父親の奴隷のように生きているくせに、ぼそっとプロジェクト風にいうなら、「ボーヴォワールを読んでいる私」は、進歩的で知性のある女性だと勘違いしている女、「婦人公論」辺りの影響でボーヴォワールの本を買ったけど、その意味を理解できているとは決して思えない、似非インテリに私は怒りを覚え、その後何度か、証拠のティッシュをわざとごみ箱に残し、その女に処理させてやりました(笑) 削除

    痴陶人 ]

    2016/9/22(木) 午後 3:19

    返信する
  •          

    痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。

    私は、自分の母親が単純な虐待母でなく、へたに知的であったために、似ても焼いても喰えない存在となりましたが、痴陶人さんのお母さまもまたずいぶんとへたに知的で始末の悪い母親だったのですね。

    私は上野千鶴子をけっして全否定していません。フロイト的思考を受けつけない点は困ったものだと思っていますが、おおいに評価している部分もあります。本物のフェミニストは、まわりまわって私のような反フェミニストと同じことを言っているものです。

    (下コメントへつづく) 削除

    チームぼそっと

    2016/9/22(木) 午後 4:21

    返信する
  •          

    (上コメントからのつづき)

    ボーヴォワールとも懇意であった、私の大学時代の主任教授は、「ボーヴォワールは一言でいうと『出来のいい女子大生』」、つまり本人のオリジナリティはそれほどなく、サルトルの焼き直しであった部分が大きいということでした。

    さもありなん、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」は、サルトルが泥棒作家ジュネについて言った「人は泥棒に生まれるのではない、泥棒になるのだ」ですよね。

    婦人公論」。かつて私もボロクソに書かれましたが、じつに興味深い雑誌です。あれほど女性の知的虚栄心を支えながら、じつは女性を侮蔑している雑誌もめずらしいですね。

    「同じ少女を愛した私たち」はどうやら蘇生しないようなので、この玉稿「二人のフェミニスト」を皮切りに、いよいよ痴陶人さんも「いい子がやめられない私」という自分のお店を開きませんか。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/22(木) 午後 4:31

    返信する
  •          

    〉私は、自分の母親が単純な虐待母でなく、へたに知的であったために、似ても焼いても喰えない存在となりましたが、痴陶人さんのお母さまもまたずいぶんとへたに知的で始末の悪い母親だったのですね。

    全くその通りです。

    母親の知へ憧れ、そのくせ何の思想もない紀伊國屋の紙袋を持って歩くような似非セレブと同じような似非インテリの影響で、私も煮ても焼いても食えない似非インテリになってしまいました(笑)。

    同い年で似たような体験がありながら、何とかギリギリ社会生活を営めているのは、私が両親から虐待までは受けなかったことと、その時々にガス抜きというか細ギレの反抗(わざとごみ箱に証拠を残す)が可能だったからだと思います。

    それでもACにはなる。況んや虐待を受ければです。

    「いい子がやめられない私」、今少しお待ちください。「期待を裏切りたくなる私」まで思考は進んでいるのですが、まだ書けるような域までいきません。 削除

    痴陶人 ]

    2016/9/22(木) 午後 4:51

    返信する
  •          

    > チームぼそっとさん

    婦人公論」。かつて私もボロクソに書かれましたが、じつに興味深い雑誌です。

    婦人公論に何か批判されたことがおありなのですか? 削除

    痴陶人 ]

    2016/9/22(木) 午後 4:57

    返信する
  •          

    痴陶人さま 

    いやいや、痴陶人さんは、そういう似非インテリの方を近くに反面教師に持ったから、という成育歴の賜物かもしれませんが、民間に埋もれている本物のインテリでしょう。

    婦人公論に何か批判されたことがおありなのですか?

    そのへんのことをまとめた文章を、過去にザスト通信に書いたことがあるので、そのうち掲載させていただきます。やはり「暗渠の声」に関連する事柄なのです。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/22(木) 午後 5:09

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  •          

    顔アイコン

    情緒的近親姦によって困ることは、主体の剥奪ですか?
    今は、主体のない人がわかるくらい、主体があるんですよね?
    主体が剥奪されて大変だった、そうならないように、ということを表現されているのですか? 削除

    ラディッシュ ]

    2016/9/22(木) 午後 9:41

    返信する
  •          

    ラディッシュさま コメントをどうもありがとうございます。

    >情緒的近親姦によって困ることは、主体の剥奪ですか?

    そうですね。「困る」よりも「苦しむ」の方が近いと思いますが。さまざまな症状が出ます。

    しかし、精神的近親姦と主体の剥奪が、一対一で対応しているわけではありません。
    肉体的近親姦の人も、ある意味、主体が剥奪されているから後遺症に苦しんでいるのでしょう。


    >今は、主体のない人がわかるくらい、主体があるんですよね?
    主体が剥奪されて大変だった、そうならないように、ということを表現されているのですか?

    「そうならないように」というよりも、もっとその前の段階として、精神的近親姦の被害者も、肉体的近親姦にけっして劣らない熾烈な虐待を受けて育ってきたのだから、その傷の重さを認め、肉体的近親姦と同じだけの治療の対象としてほしい、また、肉体的近親姦よりも人間や患者として下に見ないでほしい、ということです。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/22(木) 午後 10:05

    返信する
  •          

    顔アイコン

    治療の対象!?
    主体を剥奪された後遺症が原因だとしたら、主体のある今のあなたは、なにを治療してほしいのですか?
    既にぼそっとの中で、語られていることであったら、すみません
    m(_ _)m 削除

    ラディッシュ ]

    2016/9/23(金) 午前 0:31

    返信する
  •          

    ラディッシュさま

    もともと私は、塞翁先生が家族療法の専門家だということで、さいおうクリニックへつながりました。強迫、感情障害、うつ、睡眠障害、疼痛障害などを主訴とする私の病気は、家族の構造からくる病気であることがわかったからです。そのうち強迫は、私は「セルフ精神分析」で治すことができましたが、残りはまだ苦しんでいます。

    ところが、そうした家族療法は、塞翁先生が症例的関心をいだく肉体的近親姦の女性や、性犯罪の男性たちを優越的に治療の対象とするだけで、近親姦も性犯罪もない私のような患者は、適当に都合のよい人材として使い捨てられ、ノラリクラリとかわして治療に本腰を入れてくれません。

    その詳しいプロセスにつきましては、ぜひ本ブログの「長男の放逐」「治療者と患者」「ザスト通信を読む」などのシリーズを初めの方からご高読ください。だいたいのことはすでに詳しく書いてあります。これからも書きます。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午前 0:59

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  •          

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    ぼそっとさんは「自縛」しているだけではないのか?!が僕の結論です。
    「治療者」「患者」?その定義は?ぼそっとさんにすれば僕も上記の如く、患者、治療者かもしれない。主体を言葉で表現すれば必ずズレや齟齬が生じるのは必然だと思っているのですが、時間を掛けて話す作業が必要でしょう。
    何時の間にか起業した会社も総勢1000名近くになりました。社員、その家族の悩みを聞いていると思わずにこりとして答えと思われる選択肢が出てくるもんです。ぼそっとさん程切れる訳でも無く、平凡に抗ってきた僕の経験則の中で平々凡々と過しています。 削除

    goodじいさん ]

    2016/9/23(金) 午前 9:09

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  •          

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    「自縛」というのはうまい表現だと思います。私たちの精神科に通う患者は、外から見ると、みな何らかの意味で「ただ自縛しているだけ」に見えます。ところが、それが本人にはわからないために、治療者なり患者仲間なり「他者」が、「こうやってほどけばいいんだよ」と具体的に助言することで自縛はほどけていくことになっております。

    従業員1000名もの大きな会社をご経営するにいたったgoodじいさんさまがけっして「切れない」「平凡」な方とは思いませんが、よけいな「自縛」をかけないために、人生がそれだけスムーズに栄えていった、という言い方はできるかもしれません。

    私が一般市民の方々から学びたいのは、そういうところです。患者村に閉じ込められているだけでは、けっして学べない領域だと思っております。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午前 9:40

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  •          

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    僕は貴殿でしたら、さっさと患者村より抜けられる方だと推察しているのですが・・・
    もったいない人物だと思っている次第です。
    「村人」でいるかたでは無いと思っています。
    ボソッとさんから見れば「上から目線で・・」と御叱りを受けるのかな・・なんてふと思ってしまいました。悪しからず御了承下さい。 削除

    goodじいさん ]

    2016/9/23(金) 午前 11:43

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  •          

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    > 「上から目線で・・」と御叱りを受けるのかな・・なんて

    いえいえ、めっそうもございません。


    > もったいない人物だと思っている次第です。
    「村人」でいるかたでは無いと思っています。

    過分なお言葉、まことに恐れ入ります。

    私も、今日のような末路があると初めからわかっていれば、塞翁先生の患者村になどつながらなかったと思うことがあるのですが、しょせんそれは過去の仮定「たられば」であり、一度つながってしまうと、なかなか村から抜けられない種々の事情があるのです。

    そのへんの事情は、たとえば

    2016年4月22日掲載「私が転院しない理由」
    http://blogs.yahoo.co.jp/vosot_just/65275540.html
    などに書かせていただきました。
    ご参考になれば幸いです。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午後 4:15

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  •          

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    先生が本腰をあげれば、感情障害、うつ、睡眠障害、疼痛障害などが治る?解放される?苦しまなくなる?のでしょうか?
    治ったら、なにがしたいのでしょうか?

    私もやりたいことの先に、なにがあるのかまでは、考えられてません。
    私も上記症状も含めありますが、やりたいことに挑んでいます。
    このブログを書く、先生に本腰をいれてもらう、それがやりたいことなのかな?と思いました。 削除

    ラディッシュ ]

    2016/9/24(土) 午後 9:20

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  •          

    ラディッシュさま 2件のコメントをどうもありがとうございます。

    私のやりたいことは、まず「治る」こと、となりますが、この「治る」というのが「幸福になる」というのと同じくらい抽象的で、それ以上具体的になりません。しかし、確かにいえることは、「治ること」「このぼそっとプロジェクトをおこなうこと」「塞翁療法を言葉にすること」などが最終的に同じ方向であるということです。

    ラディッシュさんのやりたいこととは、何ですか。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午後 10:06

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    不妊治療です。 削除

    ラディッシュ ]

    2016/9/25(日) 午後 2:07

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    なにか具体的な目標があったほうが、わかりやすくて、そのために何をすればよいか考えられるから、いいかもしれないなと思いました。
    ぼそっとをおこなうことや言葉にすること、というのが、具体的なことなのかな??と思いました。

    私は、5年間入院しないということを目標としてます。(先生に言われたわけではありません)
    前回は、4年11カ月だったんで。 削除

    ラディッシュ ]

    2016/9/28(水) 午前 6:08

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  •          

    ラディッシュさま コメントをどうもありがとうございます。

    なるほど、「言葉にする」というのが私にとってそれに当たるのかもしれませんね。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/28(水) 午前 10:09

 

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