VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

長男の放逐(144)ザ・ステイト・オブ・シングス

長男の放逐(143)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
by ぼそっと池井多
 
私の母自身は、古い価値観に雁字搦めになり、
父親の奴隷のように生きているくせに、
ぼそっとプロジェクト風にいうなら、
ボーヴォワールを読んでいる私」は、
進歩的で知性のある女性だと勘違いしている女、
婦人公論」辺りの影響でボーヴォワールの本を買ったけど、
その意味を理解できているとは決して思えない、
似非インテリに私は怒りを覚え、
その後何度か、証拠のティッシュをわざとごみ箱に残し、
その女に処理させてやりました。


[ 痴陶人] 2016/9/22(木) 午後 3:19(*1)
引用者により改行、
一部改変。
 
婦人公論」。
かつて私もボロクソに書かれましたが、
じつに興味深い雑誌です。
あれほど女性の知的虚栄心を支えながら、
じつは女性を侮蔑している雑誌もめずらしいですね。
 
[ ぼそっと池井多 ]
2016/9/22(木) 午後 4:31
 
婦人公論に何か批判されたことがおありなのですか?

[ 痴陶人 ] 2016/9/22(木) 午後 4:57
 
 
痴陶人さま 以下の如しです。

ザ・ステイト・オブ・シングス

by ぼそっと池井多
ザスト通信83号(2014年5月発行)所収(*2)

前号、ザスト通信82号に書かせていただいた拙稿『暗渠の声』は、私の原家族に満ちていた、母の私に対する、交接や挿入をともなわない性的な支配の一角を、言葉にしようとあがいたものである。
そうした支配のかたちは、ほとんどが今どきの日本語でいう「空気感」であって、私のように菲才な者には、書かれた言葉に変換するのがたやすくはないということが、書いてみて改めてわかった。
しかし、そこで書いたようなことを、2011年夏、私は塞翁先生に話し、
母のしたことは性虐待だったのですか
と訊いたことがある。
そうだね
とのお答えであった。

塞翁先生のこの返事を受けて、私は2012年に性虐待被害者たちのためのプロジェクト、セイフに関わることになり、近年は素人でもかんたんに創れるようになった映像で、社会からほうむられがちな事柄について発信する方法を考案した。

ここで私が「女性を救いたかったのだ」と云えば、女性からの受けが少しは良くなるかもしれないが、そのかわり嘘をつくことになる。自分の回復を棚上げにしてまで他者の回復に貢献したいと考えるほど、私は共依存症ではない。私は、自分の治療や回復に役立てたいから、そのプロジェクトに関わったのだった。

たとえば、性虐待の被害者は、被害体験のさなかに自分が快感をおぼえたことに罪悪感をいだいたり、被害体験ゆえに「自分が汚れた」という錯覚をいだくことが多い。ところが、前号『暗渠の声』でも触れたとおり、私にも似た体験があるのだ。
これはなぜだろう。

近年の私はこう考える。
……快感をおぼえるのは身体的な反応である。目の前に何かが飛んできたら、思わず瞼を閉じるのと同じである。だから、それに罪悪感をおぼえる必要がない。でも、おぼえてしまうのは、その快感の中に自分の主体がなかったからだ。主体は虐待者によって剥奪(はくだつ)されていたのではないか。……

私はこの「主体の剥奪」という概念を手がかりに、これまでの体験をひもといてきた。「ひもとく」というのは、「理解する」「腑に落ちる」ということであり、納得が行ったぶんだけ自分が楽になることでもある。この考えを他の人々の体験や感覚とすりあわせて、今後さらに磨きをかけていきたいと考えた私は、セイフの中でもそうした発言をおこなった。

しかし2013年1月、江青さんによって突然セイフは終了するということが私に伝えられるとともに、江青さんを代表者とする後継プロジェクトのシワブを新たに起こし、そこからは私をはずすと告げてきた。
「(私、池井多は)自分の意見を言っている(から、切る)」
ということ以外、説明らしき説明はなかった。

自分の意見を言って、悪いのだろうか? 
はじめに確認しておきたいのだが、私は「性虐待は、性器の挿入によって深刻な後遺症を起こす」という説を否定しているわけではない。
挿入とは、自分の体内に自分ではない何かが進入してくることだから、このうえない違和感が体感レベルで記銘されるであろうし、それが解離性同一性障害(DID)の発症率を高めるというのは想像にかたくない。

けれども、もしそれだけが唯一の理由ならば、近親姦を含む性体験を持っても後遺症を発症しない人や、逆に挿入されていないのにDIDを発症している人の例は、どのように説明されるのだろうか。

一つの現象が起きるのに、理由は一つとは限らない。二つ目の理由が存在するかもしれない。いろいろな意見が述べられてもよいのではないか。

また、このようなモデルも考えてみたい。ある子どもが、AとBという二つの「人に言えないような」被害を受けたとしよう。Aは物象的なこと、Bは抽象概念を用いなければならない精神的なことである。言語能力の発達過程を考えたとき、この子はAとB、どちらを先に大人に話すだろうか。この視点は、いずれ過誤記憶の生成をも説明しうるかもしれない。

思えば、人間の性とは、他の動物の交尾のように、性器の交接だけを指すのではない。交接や挿入に至るまでの様々なプロセスや、ときには挿入に「至らない」やりとりが、けっきょく私たちの文化を形づくり、そうした文化が心の病気を生みだしている面もあるのではなかろうか。

ところが、そのような問いも、「男には、女のことはわからない」といった安直で世俗的な言葉の前に、すべて退けられなければならないのだろうか。
私は、このような自分の視点を正当化したわけではないし、他のメンバーに押し付けたわけでもない。映像の中で他のメンバーが私に「いや、そうは思いませんよ。だって…」と反論してくれることは、そのプロジェクトを通してもっと多くのことを学ぶために、私はむしろ望んでいたといってよい。
ところが、私は問答無用でとつぜん追い出されたのに等しかった。

 

こうして迎えた2013年4月のザストの年次フォーラム。
午後の討論の時間、私は前号『暗渠の声』で触れた事例を出しながら、支配と性虐待の関係について発言を求めた。

なんでも人間を男と女に分けてしか物事を考えられない人や、「性とは性器の挿入のことである」などと考えている人にとっては、私の発言は異質なものであったことだろう。それは十分に承知していた。

けれども、フォーラムとは、「広場」に語源を持つように、オープンな公開討論会のことである。テーマをめぐって、さまざまな人が考えを述べて交流する場である。そのために、私たちはいつも集まる場所を出て、私たちにとっては安くはない会場代をはらって、日常の外に空間を設定する。
そこで人は、それが万人のものでないと知りつつも、自分の眼から見える光景を語る権利があるはずで、人が考えているのと同じことなら、むしろあえて発言する必要は減る。人とは違う考え方だからこそ、そこで発言する価値が増すと私は思う。

ところが、それは面妖な展開をたどる。そのときの様子を、取材にきた雑誌『婦人公論』の記事から抜粋してみる。
 
シンポジウムの質疑応答にハプニングはつきもので、この日も会場にいた中年男性の発言から脱線しかかった。高校生の頃、マスターベーションしたあとのティッシュを、母親が屑かごから探し出し、机の上に置いた。そうした行為の数々も『性的虐待』にあたる、というのだ。
塞翁氏とのやりとりは噛み合わず、会場に男性を疎む空気が生まれていた。と、村山さんがマイクを持ち、(……中略……)『気持ちはわかりますよ』と語りかけた。返答に立つ、男性の口調がやわらいだ。
『しかし、あなたはバランス感覚のいいひとだね』
と塞翁氏から声をかけられたのは、シンポジウム終了後の控室。村山さんは複雑な思いだったという。
『あのときは、私が交通整理をしなきゃと思った。せずにいられない性分なんですよね』(後略)
 
朝山実「時代を創る女たち 村山由佳」より
婦人公論』2013年7月22日号, P112
 
塞翁先生を含め、皆が私の発言の後に楽屋裏でどのようなことを話したのかがうかがわれる。
この記事を書いた朝山実には『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』『父の戒名をつけてみました』など何冊かの著書があり、1970年代ふうの党派的な社会感覚を強く持っているようだが、もっと広い視野を要する問題、たとえば汎性欲論となるとお手上げのライターである。だから、村山氏が私をやさしく慰め、私が心ほだされて引き下がったかのような、安っぽい演歌の歌詞みたいな話にまとめられてしまったのだろう。

あのとき私が発言をやめたのは、村山由佳氏になだめられたからでも、「交通整理」されたからでもない。塞翁先生によって、発言者が途中から他に振られてしまったからである。

求められもしないのに、村山氏が「交通整理」に入った真の理由を、私は次のように推測している。
村山氏は、あのフォーラムのもっと早い段階で彼女自身が言っているように、なぜ自分があのテーマにゲストとして招かれていたのかわからず戸惑っていた。そこで、同じ出演料をもらうからには、招聘者である塞翁先生の気に入ることを何か一つして帰らなければ、と焦っていたのだろう。
かたや塞翁先生は、村山氏をゲストで招いたのには、テーマ的な理由などほとんどなくて、2011年の金美里氏(仮名)がそうであったように、近々いっしょに仕事をする作家に、フォーラムに集まってくる自分の患者たちとのやりとりを見せておきたかったのではないか、と私はおしはかる。

ちなみに、その後2013年7月に、塞翁先生と村山氏は一冊の共著を出版している。

このように私は「会場に疎まれる中年男性」となり、その発言は「ハプニング」「脱線」とされてしまった。とちくるった中年のオヤジが、わけのわからないことを言い出し、村山氏はとっさに心の広さを発揮して、塞翁先生がそれを評価したというエピソードに描かれたと言える。

いわば私は、あの場にいた人なら誰にでも私、池井多のことだとわかる形で、公のメディアによって愚弄されたわけだが、あのとき満場の空気にさからって発言したことを、私は悔いていない。
私は、自ら信じるところのことを、正当な手続きを踏んで述べようとしただけであって、けっして狂人の発作ではないのである。

ところが、私がげんに精神科に通う患者であるという事実が、ここで不利に働くだろう。
つまり、社会から見れば、私はたやすく「狂人」に分類される存在であり、そのため周囲の意に沿わない私の発言は「発作」や「錯乱」と処理したほうが「めんどくさくない」のだ。

私がフォーラムの「場を乱した」とお考えになったのか、退場のときに塞翁先生は私のことを深くにらみつけて帰っていかれたが、塞翁先生であれば、いずれ私の趣意はわかってくださるだろうと思い、あえて追加の弁を垂れることはしなかった。そして、私の期待通り、塞翁先生はその後二つの機会において、私に回答を返してくれたのだと思う。
一つ目は、2013年サマーキャンプの塞翁講演において、シワブが対象とするのは性器の挿入から先の被害にあった女性であることが明言された。これで、シワブから私がはずされたことも理由づけられたと私は納得した。
二つ目は、シワブの代表者、江青さんと私と塞翁先生のあいだで2013年10月に持たれた話し合いの中で、塞翁先生は「セイフをシワブに改変したのは池井多さんをはずすためだった」「池井多さんの説は間違っているとは言わないが、マイノリティなので採用しない」と言われた。

賛同はできないが、塞翁先生の説明と意思表示が明確であったので、私はそれを受け容れることにした。
そのうえで、私が立ち上げたVOSOTと、江青さんが率いるシワブが友好的に協力しあえる関係を築きたいと思い、江青さんに海外在住の経験があることにかんがみて、
「日本人は意見がちがうと共存したがらないけど、我々はちがう意見でも遠慮なく言い合って共存しましょう」
江青さんに申し上げて別れた。
これで一件は落着したと思っていた。ところが、それは思わぬところから再燃していったのである。



2013年11月、私に編集責任のある小誌ザスト通信に、シワブの宣伝を載せるため、江青さんから寄せられた原稿に、私が塞翁先生の言葉にもとづいて校正をして、江青さんに差し戻させていただく機会があった。
こうした編集手続きは、なにも相手が江青さんでなくてもおこなわれていることは、寄稿者ならば誰もがご存じのことと思う。

ところが、江青さんからは私が想定していなかったすさまじい反応がかえってきた。氏は、私が塞翁先生の言葉にもとづいて校正稿に書いたシワブの定義は、私がかってに文言を捏造(ねつぞう)し、氏の原稿を改竄(かいざん)したものであるということを、氏の言葉でメールのCC送信を通じてシワブの仲間にも訴えるのだった。

私はいわれのない罪を着せられた思いがして当惑したが、さらに、そこにこういう一文が含まれていることに首をかしげた。

塞翁先生は、そんなこと言いませんて。

つまり、それは私が一度、塞翁先生の説明によって納得した私の解任の理由を、江青さん自らがくつがえし、私をふたたび疑問の海の中へ投げ返す言葉であったといってよい。
だとすれば、真の理由はいったい何だったのだろうか。

そもそも塞翁先生がそれを言ったサマーキャンプの場には、江青さんはいなかった。なのに、どうしてそう断言できるのだろう。

また、10月の会談では、塞翁先生はサマーキャンプで用いた明からさまな語句は出さなかったが、同じ論旨であると私には聞こえる。記録を再生して確かめてみたが、その点は変わらなかった。

シワブを率いていこうという江青さんの気概と覚悟は評価できるが、だからといって、数々の事実を検証しようとせず、自分の直感と印象だけにたより、あとは剣幕で押し切ろうとする氏の態度に、私は共感できなかった。

私へのそうした非難のすえ、編集の任にある私を越権して、江青さんが「これで確定」と指定して送ってきた最終版の中には、治療者も「当事者」とする規定へと稿が意図的に戻してあり、私は承服できないままこれを掲載するしかなかった。
この件は、些事に見えるが多くの問題をふくむので、時が来たら、いずれ詳しく考察してみたい。

私から見れば、シワブの対象範囲や、シワブのザストからの独立性をめぐって、塞翁先生と江青さんのあいだに、微妙な思惑のちがいがあるように思われる。
それはお二人ともわかっているのだが、日中国交正常化のときの尖閣諸島みたいなもので、お互いそこには触れまいとし、わざと曖昧にされているようにも感じられる。すると、そこからさまざまな喰いちがいが生まれるのだ。それを第三者である私に押しつけられるのは困る。
明らかにされない領域があることは、自分はプロジェクトの立ち上げに利用され、もう要らなくなったから切り捨てられただけなのだろうか、という疑惑を私にもたらした。その疑惑は、原家族での体験とあいまって、私の記憶の奥底に暗い渦をまいた。
江青さんのメールには、最後に次のような言葉たちが連ねられていた。

いい加減 わかってくださいよ。
ホントに頭固いな
だから、関わって欲しくないんですよ。
いつまでも、自分の正当化ばかり押し付けないでください
いい加減 めんどくさい

そして、「ご本人(池井多)も、ちゃんと意見交換したいと、前回、話し合いの時に言っておられたので」このようなメール群を出したと説明されていたが、私が10月の話し合いのあと江青さんに申し上げた「意見交換」とは、感情をぶつけたり、罵言を浴びせ合うという意味ではなかった。

しかし、なんといっても江青さんには塞翁先生が後ろ盾についている。それがわかっているから、氏もこう強気に出てくるのだろう。こうなると、もう私が何を言っても無駄のように思われた。

このような経緯のもとに、江青さんが「関わって欲しくないんですよ」というので、私はシワブが関係する行事には、納得をともなわないまま、トラブルを避けるため、それ以後関わっていない。
多くの方から「VOSOTとシワブが仲良くやってほしい」などと言われるたびに、
「それを、私に言われても…」
と強い戸惑いをおぼえるのだが、日常会話の中では長くなるので、説明してこなかった。
今回、名詞の扱いを一つ一つ検討しながら、やや長めの筆を進めているのは、そうした方々への私の説明責任を果たすためでもある。

念のため、先の江青さんのメールを塞翁先生にもお見せしたが、やはり反応はすこぶる鈍かった。江青さんがどんな理不尽なことをいっても、今の塞翁先生は江青さんをかばうであろう。これはもう致し方ないのだと思う。なぜならば江青さんが、塞翁先生が求めている既往を語る人だという事実は、私にとって「変えられないもの」であるからだ。
塞翁先生も集団療法の「臨床家」と「研究家」という二つの側面を、どこかで折り合わせなくてはならず、いまの状態がその着地点なのではなかろうか。

とはいえ、属している共同体が女性のための治療空間となっていき、男性は単にそこで都合よく使われるだけの存在になっていくのではないか、という感覚を、私はぬぐい去ることができない。
人口の再生産は女性だけでできるから男性は価値の低い性だとする観点では、すでに生まれて生きている現存在としての男性の価値は測れない。

誤解のないように強調しておくが、私はまったく女性たちの被害を否定しているわけでもなければ、女性たちの運動を邪魔しようとしているわけでもない。シワブが発展するのは好ましいことであるし、じじつ江青さんの猛烈なリーダーシップのもと、今後おおいに広がっていくことだろう。

私を虐待したのはたまたま女性だったが、だからといって私は女性一般を敵視したりはしない。
私の母にとっては、ザスト通信79号『未了の告発』、同82号『暗渠の声』に書かせていただいたように、英語塾の経営がおそらく自己実現であった。

母はしきりに私という息子のために塾を経営していると言ったが、母は自身にも嘘をついていたと思う。母が塾をやっていたのは、母自身のためであった。そして、私が母の塾経営から利得を受けることはなく、苦しい悲しい思いばかりをした。

私は母の自己実現のためにタダでこき使われる、主体を剥奪された奴隷にすぎなかった。おまけに、それは母が脱税までして塾で稼いだ金を、むだに他の塾へ資金移動するだけの奴隷であった。

母に生殺与奪の権をにぎられている父は、母の言いなりになるしかなかった。だから、私がどんなに母の不正を父に訴えても、父がそれを取り上げてくれることはなかった。
そのことへの絶望が、私が社会的ひきこもりになっていった一因に、明らかに含まれる。

こうした原家族の構造が、塞翁先生と江青さんを焦点とした、私にとっての治療共同体の今にかさなって見える。このごろ私が再びひきこもっているのは、私のみごとな外傷再演であり、まさしく私は精神医学の理論どおり「act-in」しているのだろう。

したがってこの拙文は、書いている私の病理を映し出すとともに、治療者たちの論文には書かれない、集団療法の記録の一部ともなることだろう。
「シワブが始まったとき、このようなことがあった」
ということは、後世のために言葉にして残しておく価値が十二分にあると思う。
 
「ザ・ステイト・オブ・シングス」完。
 
*2. 引用者後記
一般読者の理解のため
固有名詞など些末な部分を複数箇所改訂した。
また、太字、色字は引用時の改訂。
 
 
 
  •      

    >……そこで、同じ出演料をもらうからには、招聘者である塞翁先生の気に入ることを何か一つして帰らなければ、と焦っていたのだろう。

    >出演料をもらうからには、
    >先生の気に入ることを…

    彼女がそんな事を考えたか考えてないかは
    本当のところはわかりません。

    あなたがそう思ったと思うのなら、
    そうなんでしょう。

    しかし、
    村山さんに失礼だなと私は感じます。

    お金(出演料)?のため?

    彼女が心底そのような人ならば、そもそも、
    あの会場には来ませんし、呼ばれませんでしょう。

    幾らでも稼げる人が、ゲストとして行くかどうかはご本人がお考えになり、時間を共有する意義をお感じになり、参加する意思があったからだと思います。
    「気持ちはわかりますよ」とおっしゃったわけでしょ。

    塞翁先生とのやりとりが、あの場の限られた時間の中で、解決できるような事ではないのも、あなたはご存知でしょう。 削除

    [ hashu ]

    2016/9/23(金) 午後 0:37

    返信する
  •      

    …つづき…


    >ところが、私がげんに精神科に通う患者であるという事実が、ここで不利に働くだろう。
    つまり、社会から見れば、私はたやすく「狂人」に分類される存在であり、そのため周囲の意に沿わない私の発言は「発作」や「錯乱」と処理したほうが「めんどくさくない」のだ。


    社会からみたあなたは、たやすく「狂人」に分類される⁈


    社会とは、原家族から取り込んだ思考でしょうか。
    原家族からの取り込みが、あなたを生き難くしているように思います。 削除

    [ hashu ]

    2016/9/23(金) 午後 0:38

    返信する
  •      

    hashuさま コメントをどうもありがとうございます。

    > 村山さんに失礼だなと私は感じます。
    > 彼女が心底そのような人ならば、そもそも、
    > あの会場には来ませんし、呼ばれませんでしょう。

    いやいや、それは逆でしょう。

    ギャラを30万円ももらって、とくに講演をするわけでもなく、
    一日中ただ舞台の上に座って、無責任なコメントをときどき発しているという状態では、
    村山さんでなくても、良識的な人であれば、
    「申し訳ないから、何かしなければ」
    と思うはずです。

    村山さんの著作など読んでも、彼女はそういうときに
    「申し訳ないから、何かしなければ」
    と思うタイプと人だと私は思います。

    (下コメントへつづく) 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午後 4:20

    返信する
  •      

    (上コメントからのつづき)

    > 「気持ちはわかりますよ」とおっしゃったわけでしょ。

    じっさい、まったくわかっておられませんでしたけどね。

    簡単にわかるわけもないのに、
    「気持ちはわかりますよ」
    などということ自体が、
    吐き気を誘う薄っぺらいパフォーマンスです。

    わからないなら、「わからない」と正直に言ってくれた方が、私としては100倍も良かった。

    そうすれば、私のさらなる発言を
    塞翁先生がさえぎることもやりにくかっただろうし、婦人公論の三文記者がまるで的外れの記事に仕立てることもありませんでした。

    (下コメントへつづく) 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午後 4:21

    返信する
  •      

    (上コメントからのつづき)

    > 塞翁先生とのやりとりが、あの場の限られた時間の中で、解決できるような事ではないのも、あなたはご存知でしょう。

    それはおっしゃるとおりですね。


    > 社会からみたあなたは、たやすく「狂人」に分類される⁈

    私は建前論では話しておりません。

    現実的に、永年、精神科に通っている人は、
    精神科に通っていない人よりも、
    社会によって「狂人」に分類されてしまうハードルは確実に低いと思います。

    「じっさい精神科につながっていない人の方が狂っている」
    といった話が、私たち患者村の中ではよく出るわけですが、そういう論理は、村の外、つまり一般社会では、悲しいかな、あまり通用しません。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午後 4:23

    返信する
  •      

    > ぼそっとさん


    「無責任なコメント」ですか。

    そう言われる、ゲストに来る方も大変ですね。

    私もあの会場にいましたが、
    彼女が無責任な人とは思いませんでした。
    はじめ緊張なさってけれど、話をじっくり聴ける方という印象でした。
    先生はあなたとのやりとりを、きっとクリニックでなさるのだろうと思いました。

    あの会場には、沢山の狂人がいた訳ですな。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    >こうした原家族の構造が、塞翁先生と江青さんを焦点とした、私にとっての治療共同体の今にかさなって見える。

    【かさなって見える】

    >私のみごとな外傷再演であり、まさしく私は…

    【外傷再演】


    お母様との間で起こった事が、繰り返されていたという事ですね。 削除

    [ hashu ]

    2016/9/23(金) 午後 6:05

    返信する
  •      

    hashuさま

    > そう言われる、ゲストに来る方も大変ですね。

    もちろんです。
    彼らは仕事で来ているのです。
    斬るか斬られるかで、金を取って壇上にあがるのです。
    「あ、有名人だ」と眩しく温かい視線で存在承認してもらうために来ているわけではありません。


    > 私もあの会場にいましたが、
    > 彼女が無責任な人とは思いませんでした。

    彼女は、もらったギャラの分は仕事をして帰ろうとする意味で無責任な人ではありませんでした。

    しかし、彼女が作品、……たとえば「放蕩記」を書いているような感性をフルに動員して、コメントを発しているとは、とうてい思えませんでした。


    >お母様との間で起こった事が、繰り返されていたという事ですね。

    そうです。
    患者は誰しも多かれ少なかれ幼少期の成育環境と治療空間が構造的にかさなります。それを上手に治癒の方向へ持っていくのがほんらい優れた治療者なのですが。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/23(金) 午後 6:32

    返信する
  •      

    > ぼそっとさん

    >患者は誰しも多かれ少なかれ幼少期の成育環境と治療空間が構造的にかさなります。それを上手に治癒の方向へ持っていくのがほんらい優れた治療者なのですが。

    心理学的 転移 という事ですね。

    塞翁先生との間に、本来はお母様へ向かうはずだった怒りの感情が、先生へ向けられていると。

    一方、
    主体の剥奪だという事がありましたが、
    あなたは、主体が剥奪されている状態だという事なのでしょうか?

    「主体」の定義が、よくわからなくなります。
    きっと、ラディッシュさんも、その辺りでの質問だったのかもしれません。

    お母様から、剥奪さたものがあるのですね。

    あなたが失っている、ぼそっと池井多さんの「主体」とはなんでしょう。
    「主体」があれば、貴方は、これから先どうなるのでしょう。削除

    [ hashu ]

    2016/9/23(金) 午後 10:42

    返信する
  •      

    hashuさま

    >塞翁先生との間に、本来はお母様へ向かうはずだった怒りの感情が、先生へ向けられていると。

    いいえ、そうではありません。

    前にも書きました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/vosot_just/65451816.html#65457173
    をご参照ください。

    >「主体」の定義が、よくわからなくなります。
    きっと、ラディッシュさんも、その辺りでの質問だったのかもしれません。

    以下をご参照ください。
    「主体と客体」
    http://blogs.yahoo.co.jp/vosot_just/65432514.html 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午前 0:26

    返信する
  •      

    顔アイコン

    聖師の残された課題は何なのか、我々で対処できることは?
    大本事件で聖師の現界の神業は頓挫してます。命令者は誰なのか、聖師が賠償を放棄されても人権問題として変わりはありません。当局が国体の変革を危惧したなら、国体とは何かを明確にしたい。国家権力による宗教弾圧/政治弾圧では、当方として納得できない。持論では西園寺公望/西園寺八郎/昭和天皇がぐるになったです。今から蒸し返すわけですから、多少強気に出ましょう。
    聖師は戦後、破壊された神殿の灰を信者に渡され、花咲爺とおっしゃたり、瓦礫を集めて月山不二と命名し至聖所とされた。
    軍備と戦争への批判そして皇室問題から課題を抽出したい。削除

    [ 大本柏分苑 ]

    2016/9/24(土) 午後 3:09

    返信する
  •      

    >ぼそっとさん

    「主体と客体」の関係の説明ではなく、

    あなたは、幼少期に、お母様によって主体の剥奪が行なわれたわけですよね。

    《「ぼそっとさんの主体」の剥奪》

    とは、なんぞやです。 削除

    [ hashu ]

    2016/9/24(土) 午後 4:55

    返信する
  •      

    大本柏分苑さま 私は、私たちの教団「塞翁療法の治療共同体」のライヴ・レポートをお届けしているわけですが、一般市民の方々は塞翁先生とはどういう人か、ご存じないのを前提として書かなければならないので、ときどきたいへん苦労することがあります。

    私たち教団の中では当たり前のことでも、一般読者の方々にとってはまったく当たり前でない、…それどころか、想像もつかないことだからです。

    同じように、あなたの教団の外部にいる私たちは、あなたにとって当たり前のことも、まず解説されないとわかりません。

    まず聖師とはどういう方なのですか。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午後 5:36

    返信する
  •      

    hashuさま

    なんぞや、とは?

    たとえば、どういう答えを選択肢として想定しておられますか。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午後 5:37

    返信する
  •      

    >ぼそっとさん


    お母様から、奪われたものは、
    あなたの「主体」ですね。

    それは何ですか? 削除

    [ hashu ]

    2016/9/24(土) 午後 6:12

    返信する
  •      

    hashuさま

    >それは何ですか?



    主体です。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午後 6:38

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  •      

    > ぼそっとさん


    その「主体」は、具体的に何を奪われたのでしょう。 削除

    [ hashu ]

    2016/9/24(土) 午後 6:42

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  •      

    hashuさま

    具体的と申しますと?

    たとえば、どういう答えを選択肢として想定しておられますか。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午後 6:50

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    > ぼそっとさん

    お近くの公園で、鈴虫の声は聞こえますか?
    すっかり、涼しくなりました。
    彼岸過ぎ、秋が参りました。

    お互い、身体無理せず、風邪ひかずに。

    50代ですからね。
    労わりましょう(^_^) 削除

    [ hashu ]

    2016/9/24(土) 午後 7:06

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    hashuさま

    たとえば、拙文

    「スパゲッティの惨劇(2)」
    http://blogs.yahoo.co.jp/vosot_just/65214284.html

    をお読みくださったとしたら、
    私がそこで具体的に何を奪われたと
    hashuさんだったらお答えになるでしょうか。 削除

    チームぼそっと

    2016/9/24(土) 午後 7:49

 

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