VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

長男の放逐(145)江青の誕生

長男の放逐(144)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
 
by ぼそっと池井多
 
 
前々回「富士山の話の虚妄」で詳しくみてきたように、
「富士山の話」は、私の「暗渠の声」を勝手に歪曲した
塞翁先生の創作に他ならないわけだが、
そんな体験をでっちあげることによって、
塞翁先生は何を言おうとしているのだろうか。
 
途中経過を省略すると、ようするに、
 
「だから近親姦患者の江青さんが、
 お前より優位に立つのは当たり前だ」
 
というところへ塞翁先生は持っていきたいのである。
 
一言でいえば近親姦優越主義」。
 
私たちの患者村では
そのように症状や既往のの種類によって
人間の優劣が決定されるところなのである。
 
あまりに馬鹿馬鹿しいことなので、
こんなことを社会に向けて訴えたら、
気違いだと思われる。
 
だから、いままで誰も患者村の中の者は
村の外へ向かって、このようなことは訴えなかった。
 
しかし、私は思う。
 
どうせ長年、精神科通いなのだから、
いまさら気違いだと思われたところで、
そんなに痛くもないわい、と。
 
私は、過去に受けた虐待が
「肉体的近親姦でない」
というだけで、
私の人格も、知識も、業績も、
治療機関につながった17年間も、
すべてを否定されて、
ザストを追放されたのに等しい。
 
ザスト通信の編集長は解任され、
ザストのワークアカウントは削除され、
ザストのウェブメールには私の知っているパスワードでは入れなくされ、
ザストのホームページからは
私たちぼそっとプロジェクトのバナーは無断で削除され(*1)
そのかわりいちばん上に
近親姦グループのシワブのバナーが燦然とかがやいている。
 
および
 
 
「ザストそのものが、近親姦のグループなのでは?」
と錯覚する人が出てくるほどの
近親姦シワブの優遇ぶりである。
 
 
シワブの座長をつとめる江青さんは、
かつて私を追い出すときに、
精神医学の関連分野である疫学の概念について
彼女がいったことに私が異議を唱えたために、
私に叩きつけるように、こうのたまったものである。
 
塞翁先生も、
どうせ池井多さんは
 精神医学のことなんか何もわかってないから
 って、言ってました!
 
こうした言葉の背後には、
 
「ざまあみろ、いまや肉体的近親姦のないお前は
この患者村ではもう何を言っても無駄なんだ。
観念して出ていけ」
 
という勝利宣言がふんぷんと漂っていたものだ。
 
江青さんはとても周到な人だから、
シワブのホームページなど、自身の発信の場所では、
そのようなことはおくびにも出さない。
むしろ、その反対の
恭謙で、つつましやかなキャラクターを自己演出している。
 
私という人間を否定するために、
自分が近親姦患者であって、
患者村の序列ではトップに置かれているという事実を
江青さんは最大限に楯に取ったのであった。
 
ちょっと、近親姦者として
NHK教育テレビEテレに出たというだけで、
すっかり「文化人」気取りで、
いい気になっておられるのである。
 
 
そんなに近親姦がえらいのか。
 
そんなに近親姦
ほかの虐待より重いのか。
 
 
そもそも、ほんとうに塞翁先生が
「どうせ池井多さんは
 精神医学のことなんか何にもわかってないから」
などということを江青さんに言ったのだろうか。
 
 
A)言った場合
B)言わなかった場合
 
に分けて考えてみる。
 
 
A)もし塞翁先生がそんなことを言ったのなら、
 
「肉体的近親姦がない」
 
というだけで、
私は頭の中までバカ扱いされたのである。
 
 
 
B)もし塞翁先生がそんなことを言っていなかったのなら、
これは江青さんの僭称(せんしょう)である。
 
たとえていうならば、
ちょうど鳥羽伏見の戦い(*2)において
兵力で劣る薩長軍が、
そのへんの村々からかきあつめた布切れでつくった
錦の御旗をかかげただけで
徳川幕府の軍勢を退けたようなものである。
 
 
すなわち、江青さんに
 
いまや私は、塞翁先生が
特別に目をかけている近親姦の女王。
ザストでもっとも優遇されているシワブの長(おさ)。
 
私がいなくなってしまったら、
塞翁先生は自己実現が果たせないから、
私が何をいっても、
塞翁先生は私をかばってくれる。
 
私が何をいっても、
どうせあとから塞翁先生が追認してくれる
 
という自信があったからこそ
かましてきたハッタリである。
 
じじつ、その時期、江青さんが言ったことは
 
治療者も治療しているのだから近親姦当事者
 
という、
どう考えてもまちがっていることさえも、
塞翁先生は追認なさるのであった。
 
身も蓋もない言い方をすれば、
江青さんは、近親姦があるというだけで、
私たちよりその他の患者よりも、
人間として「上」に置かれたのである。
 
学識のある者よりも、
学識のない者が権力を持ち、優位に立つという意味で、
私は中国の文化大革命(*3)に似ていると思った。
 
 
 
 
だから彼女を、このブログの中で江青と名づけたのである。

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右の写真はウィキペディアからで、
ほんものの江青女史である。
 
1976年の撮影だというから、
権力の末期であるか、
失脚したあとかはわからない。
 
江青女史は、
毛沢東がいなければ、
けっしてあの地位を保つことはできなかった。
 
建国に功あり、治国に過ちあり、
といわれる。
 
自分のつくった中華人民共和国という国で、
もはや時代が過ぎ
自分の地位が下がってきたので、
権力を奪回しようとして
文化大革命を推進した。
 
主力となって暴れまわった紅衛兵たちは、
毛沢東の思想を理性と知性をもって咀嚼(そしゃく)することができない大衆で、
毛沢東の言うことならばすべて正しい」
とばかりに、
毛沢東語録をそれぞれの手にかざし、やみくもに突進した。
 
そんなふうにあばれまわる若者たちへ向けて、毛沢東は、
 
 
と存在承認欲求をみたしてやり、
自分の王国をつくるための先兵として利用した。
 
さまざまな屁理屈が捏造され、
すべて毛沢東が正しいことに帰結された。
 

 

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良識ある知識人は
迫害され、追放された。
 
ここぞとばかり
大衆のコンプレックスが晴らされた。
 
日本流にいえば、
一般大衆の「学歴コンプレックス」の裏返しが
何千何万もの知識人を追放し、下放し、虐殺したのである。
 
そうしたコンプレックスを
うまく正当化し、理念化してくれる
毛沢東という存在がてっぺんにはいた。
 
劉少奇の失脚ですら、
私怨をいだいていた江青女史の個人的復讐であった。
 
よく、政治をめぐる闘争は高尚で、
妬み、嫉みなど個々の人間感情をめぐる闘争は下等だ、
などと考えられがちである。
 
しかし、何億人もの人々がうごめいた政治的な動乱ですら、
細かく解析していけば、
けっきょくは個々の人間の妬み、嫉み、やっかみなど
つまらない感情の集積であり、
それらに後からもっともらしい理屈をつけたものにすぎない。
 
だから、
つまらない感情のもつれ
を蔑視するにはあたらないのである。
 
そう考える私は、
高尚な政治闘争と低俗な人間闘争を同列に置く。
 
大国の歴史と、個人の人間関係史を同等にあつかう。
 
そうしてみると、
文化大革命は、一つの宗教運動だったのだと思う。
 
いちおう、もっともらしい理念は存在したが、
それは現実から遊離しており、
大衆レベルでは「毛沢東教」という宗教に等しかったのだ。
 
……。
……。
 
同じことを、何億分の一かに縮小した現象が、
私の患者村で起こっている。
 
 
 
 
  •          

    > J.I.

    塞翁先生は、江青さんには、「 精神医療の治療的介入 」を、なさったのか? 削除

    流(ナガレ) 全次郎 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 9:27

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  •          

    流全次郎さま

    >そして、必要な治療的介入は、しておられるのではないか?

    ならば、あなたを苦しめている強迫症状も、もうすぐ治るということですね。
    メデタシ、メデタシ。

    >塞翁先生は、江青さんには、「 精神医療の治療的介入 」を、なさったのか?

    もちろんです。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/9/24(土) 午後 10:07

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  •          

    顔アイコン

    仏教からは無常と浄土観そして空や無のイメ-ジを、儒教からは修養、西洋から個人主義を受け入れ、重層化させて、日本人は人格形成を進めている。そして意識の底にある神道的な感覚で自然、世界観を包み込んでいる。天地万物に神が宿る古来からの信仰がベ-スになっている。見ようによっては、多神教といっても良い。山本七平さんは多元的価値を認めるありようを<日本教>と名ずけた。多元的な世界はひょっとすると、世界教的な共生が日本の土壌に伝統として育ってきた。但し生きる事だけに執着するエゴイズムではダメで、人類の為の<普遍宗教>が必要に思います。多元的価値を共存させる日本人の伝統的な宗教感覚が一つの意味ある貢献をはたして貰いたい。 削除

    大本柏分苑 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 10:12

     返信する
  •          

    顔アイコン

    芸術と宗教について: 造化の偉大なる力に依りて造られた、天地間の森羅万象は皆神の芸術的産物である。大芸術者、造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、生き、動かむとするのが、真の宗教でなければならない。霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、共に完全なる生命を与えて、真の天国に永久に楽しく遊ばしめむとする微意からである。宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にある事を覚り、霊界物語を出版するに至ったのである。 削除

    大本柏分苑 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 10:13

     返信する
  •          

    顔アイコン

    大国以都雄宣伝使が神島(兵庫県沖)の事を質問すると、聖師様は<誌上にそのまま発表したら皆が迷うから、霊界物語の顕真実と未顕真実のところに書いておいた。要するに、みろくの神が姿を変えて一切の神の審神をする。開祖様にわからなくとも、開祖様の神業を果たされたら、それでよいわけだ。霊界へ行けば、開祖様は艮の金神ではなく、稚姫君命になっておられる。皆は霊界のことがわからんから、いろんな事を言っとるんじゃ。わしだよ。そのわしがわからんようでは、大化物としてわからんようにしてあるんじゃが本当にわかった時が、改心のできる時じゃ。まあそれまでよう勉強せい> 削除

    大本柏分苑 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 10:14

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  •          

    顔アイコン

    出口王仁三郎聖師の著作は「道の栞」そのほか多くの随筆、歌集など膨大な量に及びますが、その中でも霊界物語大本神諭とともに根本教典になっています。全81巻83冊の長大な物語であり、世界的に見ても類のない宗教教典です。
    聖師はこの物語を三日に一冊の割合で何の参考書も見ずに口述されていきました。それを考えても、決して人間業とはいえません。 削除

    大本柏分苑 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 10:18

     返信する
  •          

    顔アイコン

    よく「聖師が救世主であることは認めるが、死んでしまったら意味がない、死んだ獅子よりも生きた鼠(ねずみ)の方が偉い」という人がいますが、とんでもない間違いです。霊界物語の出現によって救世主としての聖師は不滅となったのです。

    「瑞月(聖師)が霊界物語を編纂するのも、要するに法すなわち経蔵または教典を作るので、すなはち神を生みつつあるのである。また自己の神を現し、また宣伝使といふ神を生むためである。ゆえにこの物語によって生まれたる教典も、宣伝使も、神言も、みな神であって、要するに瑞月そのものの神を生かすためであると確信している。『霊界物語』そのものはつまり瑞月の肉身であり、霊魂であり、表現である。」(霊界物語第40巻緒言) 削除

    大本柏分苑 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 10:18

     返信する
  •          

    大本柏分苑さま なるほど~。教祖さまというのは、どの教団でも似たようなしゃべり方をなさるもんですな。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/9/24(土) 午後 10:25

     返信する
  •          

    そう、教祖さまは、わからないことをいうことを有り難がるありがたい人々によって成り立つ、お客様を神様とする神々かもしれません。 削除

    痴陶人 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 10:35

     返信する
  •          

    > J.I.

    塞翁先生が本腰を入れて治療的介入をすれば患者の病気は治ると思っているのか? 削除

    流(ナガレ) 全次郎 ]

     

    2016/9/24(土) 午後 11:53

     返信する
  •          

    > J.I.

    江青さんの場合は、彼女を性的に虐待していた近親者が、さいおうクリニックを訪れたのではなかったか? 削除

    流(ナガレ) 全次郎 ]

     

    2016/9/25(日) 午前 0:26

     返信する
  •          

    流全次郎さま

    コメントを見落としていました。
    申し訳ありません。

    > 塞翁先生が本腰を入れて治療的介入をすれば患者の病気は治ると思っているのか?

    これはいったい何を問いたい疑問文なのでしょうか。

    病気を治そうと何がしかのことをおこなうことを「治療」というのではないですか。

    それとも、患者を「治さないための治療」というものがあるということですか。


    江青さんの場合は、彼女を性的に虐待していた近親者が、さいおうクリニックを訪れたのではなかったか?

    そうですね。家族療法の結果、加害者が治療機関につながりました。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/9/26(月) 午後 10:40

     返信する
  •          

    > J.I.

    <1>

    塞翁先生が、本腰を入れて治療的介入をしたところで、すべての患者の病気が必ず治るわけではないだろう?

    <2>

    御自分の患者を虐待した、その患者の家族を、さいおうクリニックに来させる力を、塞翁先生は持っておられるのか?

    その力を使って、君の母親を、さいおうクリニックに通わせることを、君は、塞翁先生に期待していたのか? 削除

    流(ナガレ) 全次郎 ]

     

    2016/9/27(火) 午前 0:26

     返信する
  •          

    流全次郎さま 

    >塞翁先生が、本腰を入れて治療的介入をしたところで、すべての患者の病気が必ず治るわけではないだろう?

    もちろん、治療者が手を尽くしても治らない病気というものが、この世にはあります。
    しかし、私の事案やあなたの強迫はじゅうぶんに治る範疇の病気でしょう。

    治療者を正当化するために、治る病気も不治の病にしてしまうのは、
    本末転倒です。

    私たちは病気を治すために治療者のもとへやってくるのであって、
    治療者をあがめたてまつるためにやってくるのではないはずです。



    >御自分の患者を虐待した、その患者の家族を、さいおうクリニックに来させる力を、塞翁先生は持っておられるのか?
    その力を使って、君の母親を、さいおうクリニックに通わせることを、君は、塞翁先生に期待していたのか?

    2016年8月28日「書かれざる手紙」をお読みください。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/9/27(火) 午前 10:37

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