VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

言葉に掘り起こされる私(2)高銀、吐血の詩

 

言葉に掘り起こされる私(1)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
韓国の詩人、高銀(コ・ウン)氏に
ぜひともノーベル文学賞を獲ってほしい
という記事を出したところ、
私の患者村からは何の反応もなかったが、
一般社会の方々、
いわゆる「娑婆(しゃば)」のブロ友さんには
大きく共感していただけたようである。
 
 
 
高銀氏も此処毎年候補に上がっているのですがね。出来たら取って欲しいです。いぶし銀の存在ですよ。(^^)

[ goodじいさん ] 2016/10/3(月) 午前 11:39
 
タイに住むブロ友、迷えるオッサンさんは、
弊記事をもとに、高銀氏の他の作品を紹介されている。
 
東日本大震災3.11のときに高銀氏が詠んだ、
「日本への礼儀」
という感動的な詩が、
色彩豊かなレイアウトで編集されている(*1)
 
*1.迷えるオッサンさん『韓国ノーベル賞作家?の日本礼賛詩
 
高銀(コ・ウン)は、
4度の自殺未遂あり、反政府活動の時期あり、
出家して山にひきこもってしまった時期あり、
投獄され牢屋の中でくすぶっていた歳月あり、
と他者から見たら
じつに起伏に富んだ人生を送ってきた人であるが、
本人はまったくパフォーマンスで劇的に生きているのでなく、
これはもうこの人の性(さが)としか言いようがない。
 
「生きる」という行為を真剣に突き詰めるとはどういうことか
といったことを自然と考えさせる文学者である。
 

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 せっかくだから、このほかにもいくつか
高銀氏の言葉を紹介したい。
 
いかなる火災の心配もない引火性の低い物質のように、
安心させる文学は文学ではない。
 
蹴鞠(けまり)としての文学
      vs
吐血(とけつ)としての文学
 
という対立する図式を描いてみたが、
高銀はまぎれもなく後者である。
 
私たちトラウマ・サバイバーが言葉をつむぎだすときにも
やはり吐血のような言葉になると思う。
 
吐血が、人を安心させるわけがない。
 
 
一生涯、言語の一部を酷使することで
私は詩人であろう。

この事実は希望でもあるが、
時に絶望でもあった。

近代法学でいう言語の不明瞭性や
言語が事物の本質を引き出す唯一の行為か否かをめぐる苦悩にもかかわらず、
私はすでに言語なしには存在できなかった。
これは私たちぼそっとプロジェクトにおいて、
自分たちが自分たちで治っていくために
どうしても言葉を必要とするプロセスを語っている。
 
たしかに言葉で語れないこともある。
言葉ですべて語れるわけではない。
しかし、それでもなお言葉を信じ
言葉を掘り起こしていかなければ
私たちに心の治癒はないのである。
 
近代法学でいう言語の不明瞭性
とは、そのまま流全次郎が
で語っている「語義の迷路」の入り口なのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
以下の一節などは、
私のように主体の剥奪を受けてきた者が、
なぜ国境を越えて高銀氏の言葉に共感するかを
よく明らかにしてくれるものだと思う。
 
日本帝国主義の初期、朝鮮の主権や主体を奪うものとして植民地政策が進められた。当時、朝鮮の言語と文字は自治の象徴として一応残されていた。ところが、主体を喪失したら、その主体を代行するものが叙述主体だという事実と、その叙述主体を失ってしまった主体をいつかは復元する力の文化的エネルギーであるという事実も確認されたのだろう。
1933年生まれの高銀氏は実存主義の世代だったと思うが、
以下の文章などは、
実存主義の「教祖」となったサルトルに対して、
全身全霊で内的格闘を果たしたすえにたどりついた
貴重なエキスのような結論に、私には聞こえるのである。
 
(民族分断などの社会的・政治的現実を見据えて)
文学に関する限り、私はいかなる解答も望まなかった。

(……中略……)

文学は文学に始まり、文学に終わる。隠喩は私を歴史的にし、芸術的にする。そうした後、隠喩の詩体はすぐに消える。もし私の文学が政治的現実やイデオロギーの下部構造として奉仕する事態が起きたなら、私はそれと闘わねばならない。
以上、高銀氏の言葉はすべて
彼が2002年に書いたものである
 
日本語では、以下の文献で読める。
 
『高銀 詩選集』 藤原書店 2007年
青柳優子・金應教・佐川亜紀 訳  金應教 編
 
 
いつもギリギリのところで
生き長らえてきた者という印象がある。
 
同じようにギリギリのところで生きている人間たちに、
強壮剤のような力を与えてくれる文学者である。
 
83歳。
もう先も長くないだろう。

彼のような人がノーベル文学賞を獲ることは、
そのまま全世界で精神的にギリギリのところで生きている者たちに、希望の天雨となって降り注ぐことだろう。
 
そもそもそういうことのためにあったものだと思う。
 
村上春樹がいけない、というのではない。
しかし、物事には順序というものがあるだろう、というのである。
 
 
 
・・・「言葉に掘り起こされる私(3)」へつづく
 
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    「吐血」の如き言葉には、重みがあり感動せざるを得ない。削除

    goodじいさん ]

     

    2016/10/7(金) 午前 8:27

     返信する
  •       

    goodじいさんさま どうもありがとうございます。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/10/7(金) 午前 8:53

     返信する
  •       

    新年明けましておめでとうございます。
    (^^)

    「吐血」→「山の噴火」
    早々から、なぜだかフッとこのような連想が沸いて参りました。(笑)

    相変わらずですが、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。(^^) 削除

    miss ]

     

    2019/1/1(火) 午前 1:29

     返信する
  •       

    missさま コメントをどうもありがとうございます。

    長年眠っていた怒りが内奥からいっぺんに出てくるさまは、「山の噴火」にも例えられるでしょうから、「吐血」から「山の噴火」を連想されるのは、ごもっともなことだと思います。削除

    チームぼそっと

     

    2019/1/1(火) 午後 0:59

     

 

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