VOSOT ぼそっとプロジェクト

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治療者と患者(88)ナラティブ・ベイストと失敗例

治療者と患者(87) 」からのつづき・・・

治療者と患者(87+)」からもつづく・・・
by ぼそっと池井多
 
 
以前、「Dr.倫太郎の恋(5)(*1)でも取り上げたように、
現代の精神医療は大きく分けて
画像派と対話派に分かれる。
 
 
 
 
精神医療に関わりのない一般の方にもわかるように、
二項対立としてモデル化すると、
このような構図になる。
 

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もちろん、これはモデル化したものであり、
精神医療の現場、あるいは個々の治療者は、
両方の要素をそれぞれの方法でブレンドさせていくわけである。
 
対話派は、ともかく治療者の主観にもとづくために、
その治療共同体という集団が大きくなればなるほど、
「村」としての政治性を帯びるようになっていく。
 
それだけに、私のいう現代における古代の飛び地、
「古代王国」に成りはてる危険性も大きい。
 
塞翁療法は、かなりの比重で対話派である。
 
 
 
 
 
 
先日、私はこのように書かせていただいた。
 
森田療法に限らず、
一つの療法の宣伝としては、
その療法で治った人の体験談ばかりが表に出て、
治らなかった体験談が出てこないのです。

私は、それをnarrative basedな精神療法に広く共通する欠陥だと思います。
(*2)
 
文中「narrative based」とは、
さきほどの表で
「NB」「ナラティブ・ベイスト」「語りにもとづく」
と書いたものと同じである。
 
ようするに、患者本人が
「私にはこういう問題があります」
と語ることによって、問題があることを知る方法である。
 
極端なモデルとしては、
「私は苦しくてたまりません」
という患者がやってきたとする。
MRIなどを撮っても、何も異常は発見されない。
 
こういう患者は、
「EB」「エビデンス・ベイスト」「証拠にもとづく」
精神医療によっては
「異常なし」と診断され、
せいぜい安定剤を処方されてオシマイであり、
「NB」「ナラティブ・ベイスト」「語りにもとづく」
によっては、
「治療対象となる」
という結果となる。
 
 
 
 
このように、
「NB」「ナラティブ・ベイスト」「語りにもとづく」
の精神療法のほうが圧倒的に良いように聞こえるのだが、
一方では、患者の語りを価値評価するのが、
治療者の主観でしかないものだから、
へたをすればただの前近代的直観主義になりかねない。
 
治療者が、
「病気である」
といえば、病気にされてしまう。
 
治療者が、
「病気でない」
といえば、病気でなくなってしまう。
 
さらに、
「NB」「ナラティブ・ベイスト」「語りにもとづく」
の場合は、
治療者にとって都合のよい症例や治療例ばかりが表に出される
という傾向がある。
 
たとえば、流全次郎さんが語る森田療法
 
私は流全次郎さんとちがって、
森田療法にかかったことはないのだが、
昔の主治医に推奨されたために、
何冊か本を読んだことがある。
 
たしかに成功例ばかりが書かれていた。
 
しかし実際は、流全次郎さん自身がそうであるように、
森田療法では治らなかった人がおおぜい居るわけである。
 
同じことが塞翁療法にもいえる。
 
私たち患者村の外から、
わざわざ塞翁療法を習うために
リカモリ講座を受けに来る人たちがいる。
 
そういう人たちの中には、
塞翁療法が成功率100%のように信じている人が多いのではないか。
 
ところが、それは、塞翁先生が自身の失敗例を
外部に向かって発表しないことの成果でもある。
 
およそNBな精神療法というものは、
そういう傾向があるのだ。
 
じっさいには、塞翁療法では
患者がおおぜい死んでいる。
 
どこの精神科でも自殺者は出るものだろうし、
どの精神療法に自殺率が多いかといったエビデンスは、
発表されることはないから、
それこそEB、エビデンス・ベイストではありえないのだが、
それでもしかし、
「とても死ななくてもよかったろう」
と思えるような患者たちが
塞翁療法ではボロボロと死んでいる。
 
危うく私も、しばらく前に死にそうになった。(*3)
 
*3.「事務局地獄」参照。
 
 
私の場合は、危険信号は発信されていたのだが、
主治医である塞翁先生はなんら手を打とうとしなかったばかりか
危険を察知して知らせた第三者に、
 
自殺したら、
 しょせんそれまでの男であった、ということだ
 
と、泰然とおっしゃただけであった。
 
たとえ、自殺していても、
私は人間的に見くだされて、
すべてはオシマイだったわけである。
 
もし、私の既往に近親姦の一つでもあれば、
あるいは、性犯罪の一つでもあれば、
「いやいや、ここで死なれては困る」
ということで、
塞翁先生も本腰をあげて私という患者に向かい合ってくれただろう。
 
私の既往は母親による精神的近親姦ということで、
突き詰めれば立派に塞翁先生の症例的関心の範疇なのだが、
そこまで労力をかけようとしない塞翁先生にとって
私はただの都合のいい奴隷のような労働力だったわけである。
 
私は、家族会議で母親の虐待を指摘したために
家族から放逐されたので、
「身寄りがない」状態である。
 
父・母・弟などの「家族」は、むしろ
よけいなことを言い始めた私という存在は、
早く死んでほしいと本音では思っているにちがいない。
 
そんな私が、塞翁療法にかかって自殺したら、
彼らは「渡りに舟」とばかりに喜ぶだけで、
まかりまちがっても、
塞翁先生を「医療過誤」として訴えるようなことはない。
 
そのような私の家族的背景を、
塞翁先生もどこかで頭に入れていたのではないだろうか。
 
「あの男は、死んだら死んだで、騒ぎになることはない。
 だから、適当に使い捨てができる人材だ」
 
と。
 
電通の女性社員、高橋まつりさんの自殺が
過労死と認定されたが、(*4) あの件も、
「過労死だった」「パワハラだった」
と訴える母親の存在があったからこそ、
死後になって実態が明るみに出たのである。
 
毎日新聞 2016.10.08 00:06 最終更新
 
 
私の場合、死にぞこなったけれども、
少なくとも塞翁療法に17年もかかっておきながら、
主訴は解決されず、
さまざまな状況が悪化するばかりとあっては
私は塞翁療法の失敗例の生き証人であることには変わりはないと思う。
 
私という患者の失敗例に関して、
塞翁先生が謙虚に反省心をもって向かい合おうとしないので、
私はこのブログにおいて、
自分で私という患者を取り上げ始めたともいえるのである。
 
 
 
・・・「治療者と患者(89)」へつづく

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