VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(27)ドライな性虐待<前篇>

性虐待と主体(26)」からのつづき・・・

#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害

 

by ぼそっと池井多

 

今回は、<前篇><後篇>2回に分けてお届けする。
それだけ大事なテーマだからである。
 
大阪の近親姦裁判(*1)をとりあげたところ
多くの反響をいただいた。
感謝する。
 
 
いただいたコメントの一つがこれである。
 
女性が、かなり成熟してから、
近親者と、合意の上で性行為をする場合、
その女性は、幼い頃から、
将来、そういうことをするように、教育されてきたのではないか?
  
[ 流 全次郎 ] 2016/12/3(土) 午後 6:37
 
これは、以前から
流全次郎さんが持っている問題意識である。
 
私たち精神科患者村に関係ない方にもわかりやすいように、
少し問題をときほぐしていこう。
 
 
 
 
 
 
近親姦も、その他の児童虐待も、
いわゆる現代病などではけっしてなく、
昔からよくあることだったと思われる。
 
人間のやることが、
時代によってそんなに変わるとは思えないからである。
 
たしかに、歴史の表にはあまり出てこない。
 
近親姦が、歴史に記されている例も稀である。
 
たとえば、古代エジプトで有名な女王クレオパトラは、
弟のプトレマイオス13世と近親相姦の関係にあった、
と伝えられる。
 
父の遺言により弟と結婚したのである。
 
広く知られるように、この姉弟夫婦は、
のちに仲が悪くなり、ローマの介入を招き、
クレオパトラの新しい男カエサルによって
弟はナイル川で殺されることになる。
 
しかし、クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の近親相姦は、
太陽神の子孫ということになっている王室の神話的な物語という
非日常的な世界で起こったからこそ
歴史の表に残っているのではないだろうか。
 
裏を返せば、いくら古代エジプトでも、
一般庶民がおこなっていた日常的な近親姦は、
あまり歴史に残っていないはずである。
 
性器の挿入をともなわない、
もっと「乾いた(Dry)」(*1)児童虐待は、
もっともっと歴史に残らないと考えるべきである。
 
ちょうど、
美しい夕日の写真を撮って記録に残す人は多いが、
自分が排出する生ゴミの写真を撮る人は少ないように。
 
*1.「乾いた」「ドライ」:
酒びたりのアルコール依存症(alcoholic)に対して
酒を一滴ものまない、もしくは酒を止めたにも
かかわらずアルコール依存症と同じような症状
(たとえば気が短い、癇癪など)を呈する人を
Dry-Alcoholicと表現することがある。
私のいう性器の侵襲のともなう/ともなわない性虐待・近親姦は、
このWet/Dryの対立概念に近似している。
アルコール依存症の当事者グループには、
Dry-alcoholicについて別の見解を持っておられる方々もいる。
それについて否定はしないが、今は深入りしない。
 
虐待か虐待でないか、というのは、
また別の論議となるわけだが、
もし、それが虐待ならば、
歴史や社会の表にあらわれないとなれば、
それは「やった者」勝ちであり、
「やられた者」は泣き寝入りするしかなかった、
ということである。
 
「やった者」は、たいてい権力を持っている。
 
だから、「まわりの者」は「やった者」に都合よく動こうとする。
 
そのため、虐待を受けた者が被害感情を持つ場合、
「まわりの者」がよってたかって、
「やられた者」の口をふさごうとし、
そのため被害者はよけいに虐待されるという
いわば
「被害の多重化」「二重虐待」
が起こるのである。
 
児童虐待にも、近親姦にも、
同じ構造のことが起こってきた、そして今も起こっている、
と思われる。
 
 
 
 
 
 
問題点をもどすと、
もし被害者である子どもがいやがっているのに、
加害者である親が無理やり「やった」ならば、
それは誰しも認める虐待である。
 
私が子どもだったころは、
それでも「しつけ」などと強弁されて
誰も「虐待」と認めてくれなかったのだが、
いま2016年の日本の社会感覚では、
誰しも認める虐待であろう。
 
それでは、
子どもがいやがっていなかった(と見えた)場合はどうか。
 
これは、
 
あとあとになって
子どもにさまざまな心的後遺症が出てきて、
子どもが被害感情を持つであろうから、
やはり虐待である
 
と仮定法未来wouldで考えるようにしているのが、
いまの主流な考え方であると思われる。
 
しかし、するとそこで、
 
あとあとになっても、
子どもにいかなる心的後遺症も出てくることはなく、
ずっと被害感情を持つこともないとすれば、
はたしてこれは虐待であろうか
 
という単純仮定 if の問いが出てくるのである。
 
 
そして、これがまったく荒唐無稽な仮定ではないから、
私たちはここから逃げられないのである。
 
本ブログ「マヨルカ島の風(*2)でご紹介した
クリスさんとサラさんという事実婚カップルは、
実の父と娘であるが、
二人のあいだに子どもも生まれ、
幸せに暮らしているようである。
 
 
周囲の人々は、そのカップル関係じたいを非難しているが、
サラさんはたとえ全世界を敵にまわしても
自分たちの愛を守ると宣言している。
 
サラさんがインターネットで発信しているコンテンツを見ると、
政治的にも、美的センスも、非常に早熟な女性を感じさせる。
 
けっして発達遅滞などのハンディキャップを
背負っている人ではないことは明らかである。
 
このような近親姦カップルが生まれたのが、
性文化において先進的なニューヨークやサンフランシスコや
南米の巨大都市ではなく、
カトリック教会の影響が強いスペインの、
しかも大都市から遠く離れたマヨルカ島という、
地理的・文化的な環境もおおいに考えに入れなければならない。
 
となれば、今後、こういう父娘夫婦が
日本にも出てくることは十分に考えられる。
 
性虐待と主体(25)」で掲げた大阪の近親姦裁判(*3)を、
流全次郎さんはそんな予兆ととらえたのではないか。
 
 
女性が、かなり成熟してから、
近親者と、合意の上で性行為をする場合、
その女性は、幼い頃から、
将来、そういうことをするように、教育されてきたのではないか?
  

[ 流 全次郎 ] 2016/12/3(土) 午後 6:37
 
私なりの表現に言い換えると、
 
「それは、加害者である父親が、
自分を加害者として認識しないように
娘を自分の性の相手として教育し、
育て上げてきた結果ではないか。」
 
ということではないかと思う。
 
このとき、こういうカップルを「治療」し、
医療の名のもとに引き離す必要があるか、
という問いを流全次郎さんは立てているのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
性器の挿入や侵襲があれば虐待が重くなるとは思えないので、
これは非性器的な性虐待で考えても、
しょせんは同じことだと思う。
 
思うに、息子に対して過干渉的な母親というのは、
ほんらいの性的な対象である夫に
エロスが向かっていないのである。
 
からむ対象をもとめて、
ネット上をあちこち渡り歩く女性は、
配偶者との性生活が不毛であることが多い。
 
私の父は、私の母に対して学歴コンプレクスがあったので、
性的に弱かったのだろうと私は考えている。
 
それで母は、自分のエロスの受け入れ先がないために、
息子たち、とくに長男への虐待へと走ったのである。
 
虐待はけっして
性器の交接というかたちを取らなかったけれども、
強制的なエロスの交流であり、
私は、母によって夫代わりにさせられていたのである。
 
父から娘へ、しかも性器を介すれば、
強制的なエロスの交流は「強姦」と呼ばれる。
 
性暴力とは、なにも性慾だけによって起こるものではない。
そこには、二者の人間関係における力関係の要素も、
必ずや作用しているものである。
 
権威的な父からの強姦をうける娘の立場の弱さと、
欲求不満の母に、望まないことを強要される息子の立場の弱さは、本質的に同じである。
 
 
 
 
 

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