VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(28)ドライな性虐待<後篇>

性虐待と主体(27)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
by ぼそっと池井多
 
 
性暴力とは、なにも性慾だけによって起こるものではない。
そこには、二者の人間関係における力関係の要素も、
必ずや作用しているものである。
 
父から娘へ、しかも性器を介すれば、
強制的なエロスの交流は「強姦」と呼ばれる。
 
権威的な父からの強姦をうける娘の立場の弱さと、
欲求不満の母に、望まないことを強要される息子の立場の弱さは、本質的に同じである。
 
いっぽうでは、「ドライな性虐待」をわかっていただくのに、
一つの例と思われるのは、
SMなどで「放置プレイ」と呼ばれる分野である。
 
残念ながら、私はあまり詳しくないのだが、
SMプレイには
縄でしばったり鞭でひっぱたいたりするだけでなく、
「放置プレイ」と呼ばれるジャンルがあるらしい。
 
これは、性器の交接がないどころか、
身体の接触もないままに、
相手の存在自体を支配する恥をかかせたりすることで、
S(サディスト)の側が自らのエロスをみたすプレイである。
 
たとえば、
M(マゾヒスト)はSに絶対服従しなければならない事情がある。
Sが命じて、Mは人々が見る通りに裸で立たされる。
Sは、それを遠くで眺めて性的に満足する、
……といった例である。
 
私の母が私によくやったことを象徴的に要約すると、
そういうことになる。
 
これは、もしM(マゾヒスト)の側が
S-Mという性的相互性に同意していなければ、
これは性器を介さない性虐待であることは明白である。
 
Mは、恥ずかしいので、
その場に自分がいないことにしなければならない。
 
「ここに裸で立っているのは自分でない」
と思うような防衛機制がはたらく。
 
すると、強姦の被害者によく起こる
幽体離脱のような解離症状になるのである。
 
こうした一連の事実から、私は、
「母から精神的近親姦を受けた」
と表現している。
 
先ほどの表現でいえば
「ドライな近親姦
である。
 
母は、学歴もプライドも高い女であったし、
学歴の低い父とは、充実した性生活はなかったと思う。
 
父もまた、
 
「おれは学歴は低いが、
女を悦ばすことにかけては、足立区で一番だ」
 
というような豪胆さは
みじんも持ち合わせていない小心者であった。
 
その結果、母は充たされないエロスを一人息子に向け、
しかも持ち前の知性により、
エロスを高度に、かつネガティブに知性化したのである。
 
私が一人息子であったのは、
私が8歳になるまでにすぎないが、
それまでのあいだに、
母と私の関係性も、
母が私へ向ける行動のパターンも
すっかり固定してしまったために、
弟ができてからも、母は私にだけ
何かにつけてドライな性虐待という陰惨な所業をつづけた。
 
もしかしたら母は
弟に対しても少し同じようなことをしたのかもしれないが、
8年という時間が示すものか、
だいぶ弟が被虐するはうすまっていたはずである。
 
母が私を産んだのが26歳、弟は34歳。
弟を産むまでの8年のあいだに、
母も、女として、大人として、だいぶ成長したのである。
 
いまは30歳以上のグラビア・アイドルなど腐るほどいるので、
34歳といっても「若さピチピチ」の年齢だが、
当時の社会風土からすると、
三十路に入ったのは、女にとって大きかったと思う。
 
そのことを弟は理解しない。
 
「母は、兄を産んだ時も、自分を産んだ時のようであった」
 
かのような前提を持ってしまっている。
 
私が「母が虐待した」というと、
弟は私が母を「責め過ぎ」であるように考えて、
1999年の家族会議以降、
私を家族から放逐するほうに加担したのである。
 
それはちょうど、今の私たちの患者村で、
hashuさんやラディッシュさんなどが出てきて、
自分の被治療体験などに基づいて
私の塞翁先生批判の口を封じようとするのと
構図が似ている。
 
人は、しょせん自分の体験しか知らないのだから、
彼らに対して、
 
貴方にはわかりません。
 
などと突っぱねてみても、仕方のないことなのである。
 
私が説明するまでは、彼らはわからない。
 
その意味でも、私が患者村でいま体験していることは、
原家族における外傷体験の再演なのである。
 
そして、hashuさんも
 
「楽にしてやる」
 
などと言いながら、
私の古傷に塩を塗りこんでくださっているのである。
 
もちろん、ご本人に悪意はない。
 
 
 
 
 
 
 
 
塞翁先生自身も、1990年代はみずから
「情緒的近親姦
という表現で、ドライな性的侵入を虐待として肯定していた。
 
ところが、江青さんなど、
ウェットな近親姦の症例が、
塞翁先生の手元にストックされてからは、
もうドライな症例には見向きもしなくなった。
 
それどころか、昨年出された本では、
そういう虐待親は、毒親ですらない
と書いているのである。
 
このような変化に呆然とした私は、
治療機関、患者村において
ウェットな近親姦をうけた女性患者たちの、
「おでんのダシ」
「蒲焼のタレ」
で終わるいわれはない、と声を上げ始めたのであった。
 
いつも繰り返すが、
それはウェットな近親姦をうけた女性たちの被害を
否定するものではけっしてない。
 
しかし、ウェットかドライかという違いがあるだけで、
構造的に私たちは同じ虐待被害者だと申し上げているだけなのである。
 
ところが江青さんは、
塞翁先生をバックにして
蛇蠍のごとく私をセイフから蹴り出し、
その追放が、現在の私が
ザスト通信にも声を発表できない状況へとつながっている。
 
近親姦の大家を自称する主治医、塞翁先生は、
17年間も私を診ていながら、いっこうにこのことを理解せず、
私に対しては、
 
「富士山の話はね、あれは近親姦ではないよ」
 
などと話をすりかえてしまうのである。
 
「富士山の話」自体が、
ほとんど塞翁先生の創作であることは
前にも述べた通り(*4)である。
 
つまり、塞翁先生はこのようにして
自説を「証明」する症例も創作してしまうし、
「反証」する症例も創作してしまうのである。
 
となると、その理論体系は、
もはや科学ではなく、
むしろ宗教に近くなる。
 
「教育」だの「道場」だのといいかえても、
その内実は「科学教育」でなく「宗教教育」に近くなるのである。
 
このような塞翁療法を、リカモリ講座などといって
60万も払って、ありがたく伝承していく意味というものを
私は原点から問い直しているわけであるが、
そうすると機関誌「ザスト通信」にすら
発言させてもらえないというわけである。
 
これを宗教団体といわずして、いったい何であろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
私と同じような虐待を母親からうけてきた男性というのは、
日本社会の中に他にも多くいると思う。
 
しかし、彼らのうちの多くは、
自分が母親に精神的な虐待、もしくは
非性器的な近親姦をうけてきたということを、
自覚はもちろん、意識化できるわけもなく、
ただ、わけのわからないものに怒っているだけなのである。
 
私も何人か、これまでに会ってきた。
 
「あ、この人、私と同じだな」
 
と思っても、
私ほど被害を意識化できていない人々であった。
 
わけもわからない怒りを無意識に自己治療するために、
アルコール、ギャンブル、仕事、その他
多くの嗜癖対象へ傾斜していたり、
あるいは、母親への敵意を無意識に女性一般に敷衍し、
「女は敵だ」と考えていたり、
女性そのものを自分の性慾をみたす道具とみなし、
一人ひとりの生身な人間とは見ていなかったりした。
 
しかし、
アルコール依存で自分の身体を痛めたり、
仕事依存で家族を痛めたり、
女性を道具とみなして虐待するよりも、
もっと怒りの本態を意識化して、
自分の母子関係に焦点をあてたほうがましだろう、
と私は思うのである。
 
ところが、私のように母子関係に焦点をあてると、
たちまち周囲から侮蔑の的とされ、
嘲笑と迫害をうけるのが、いまの日本社会である。
 
「母親へのマイナスの愛着」ということが、
私の人格攻撃をしようとする人々にとっては好餌であるらしい。
 
hashuさんやラディッシュさんなど
私を批判する人たちは、
私の批判を反証していこうとはせず、
そのかわりに、まるで鬼の首でも取ったように、
私の母子関係をあげつらい、
私が母子関係に「固着している」さまを批判するのである。
 
まったく本末転倒とはこのことである。
 
 
 
 
 
 
 
このように、父から娘への近親姦虐待と、
母から息子への精神的虐待は、
構造的に同じものを持っているのだが、
それゆえに、
父との関係に充足しているかに見える被害者の娘と、
母との関係に充足しているかに見える被害者の息子は、
同じ立場にいるのである。
 
「母親にされたこと」を意識化できていない男たちは、
見かけ上は母親との関係は平穏である。
 
こういう人たちに、私が近づいていって、
 
もしもし、あなたは被害感情がないかもしれないけど、
あなたは昔、母親に虐待され、
その被害が自覚できていないのですよ。
 
あなたの今の生活のあちこちで生じている問題は、
お母さんの昔の虐待に、
あなたが被害感情を持たないことが原因なのです。
医療機関につながりなさい
 
というべきだろうか。
 
私は、答えは否だと思う。
 
私は、すでに結界のこちら側に来ているけれども、
彼はまだあちら側にいるのである。
 
あくまでも本人の気づきがあってこそ、
治療なり回復なりは始まらなくてはならない。
 
誰も家族で困ったり気づいたりしている人がいないのに、
あちら側の人を治療の対象とするのは、
それは医療帝国主義精神医療の傲慢である。
 
 
同じように、
マヨルカ島のクリスさんとサラさん(*5)のような
父娘近親姦カップルで、本人たちが
 
「存在を賭けても、その近親姦カップル関係を守る」
 
といっているのであれば、
もうその人たちの世界観、人間観、セクシュアリティであり、
外から野次馬がとやかく言える問題ではないと私は思う。
 
 
ましてや、本人たちがそれでいいといっているのに、
「治療につなげましょう」
などというのは、
医療帝国主義精神医療の傲慢である。
 
そういう領域へ踏み出すことが、
それこそ医療の宗教化の一歩だと思う。
 
ただし、クリスさんサラさんの場合は、
隠れた被害者としてクリスさんの元妻(サラさんの母)がいる。
 
この人が何を発言・発信するかによって
彼らを医療の対象とするかいなかの論議
大きくちがってくるだろう。
 
また、大阪の近親姦裁判(*6)の一家も、
母親がどのような動向を示すかに
私は関心を寄せているのである。
 
 
報道では、嘆願書は母からも出された、とのことであった。
 
 
 
 
 
 
 
今年はレインボウ元年ということで、
いろいろなセクシュアリティが公認された。
 
何の変哲もない、ただの女好きスケベという
退屈なほど古典的セクシュアリティの私にとっても、
レインボウ元年は、一つの解放であった。
 
なぜならば、
これからは、たとえばゲイやレズビアンについて語るときに、
いちいち声を低めなくて済むからである。
 
おおっぴらに、
「あの人はゲイで、…」
とふつうに語ってよくなった。
 
ゲイやレズビアンも、
昔は「心の病気」などといわれていた時代もあった。
 
それが、社会が成熟してきて、
ひとつの性の多様性として認められたのだ。
 
同じように、もっと性の多様性を容認する社会になっていけば、
近親相姦という一つのセクシュアリティ
市民権を獲得する時代が来ないとも言い切れない。
 
そのときは、
虐待ではなく双方の完全な合意がある父娘の性行為は、
母の合意があれば、
医療や処罰の対象ではなくなるではないか。
 
だとすれば、コインの裏表として、
そのときこそ、
近親姦・性暴力にかぎらず虐待である行為について、
社会のみんながより深い見識を
持っている時代となっていることも期待できるのである。
 
 
 
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