VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(30)口封じとしての守秘義務

性虐待と主体(29)」からのつづき・・・
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
by ぼそっと池井多
 
 
前回にひきつづき、
群馬兄妹近親姦事件(*1)から
人間関係のフラクタリティを考えている。
 
*1.「兄からの近親姦 親の反対で訴えず 群馬」
毎日新聞 2016.12.3 14:27配信
 
 
この事件では、兄が性行為を妹にしたわけだが、
この性行為が妹にとって
近親姦「被害」となる理由は、
性器の侵襲よりも先に、
この兄と妹のあいだの、そしてこの家族の中の
ミクロな権力構造に見い出されるのではないか、
というのが前回(*2)の要旨であった。
 
 
権力的に劣位でなかったサティさんの場合は、
同様のことをしても
それは性被害にはならなかった(*3)からである。
 
*3.サティさんのブログ「ひと夏の経験
 
 
裏返せば、性器の侵襲がなくても
当事者たちが持っていた人間関係の
権力構造によっては
同じような症例は生まれる
ということである。
 
 
 
 
 
 
この兄は妹に言っている。
 
誰にも言うなよ。言ったらおまえを殺すか、おれが死ぬかだ
 
たとえば、私の母の殺し文句は、
 
そんなことをしたら、死んでやるからね
 
であった。
 
 
「そんなこと」の内容には、
母が私におこなっている虐待を他者に話すことも含まれる。
 
したがって、今日の私が当時へタイムスリップして
傍らに立って通訳すれば、
ようするに母の言っていたことは
 
「私の虐待を人にいうな」
 
「第三者の介入なしに、私に自由に虐待させろ」
 
ということでもあった。
 
 
「誰にも言うなよ」
 
と妹をおどしている以上、
この兄は自分が何か悪いことをやっている意識がある。
 
同じように、私の母も、
家族の外の第三者に知られてはまずいと思っていた時点で、
自分がやっていることはほめられたものではない、
と知っていたのにちがいないのである。
 
のちのち、
 
「あれはしつけだった」
 
「あれは教育だった」
 
などと宣うようになったわけだが、
もしほんとうに「しつけ」「教育」であるならば、
どうして家族の外の人に言ってはいけないのか。
 
正しいことをやっていると思うなら、
誰にいわれても、堂々としていればよいではないか。
 
 
このような点を、じっくり時間をかけて聞いていきたいから
家族会議を開いたのだが、
そうすると今度は、私を家族から放逐することで、
母自身が問題から逃げてしまったというわけである。
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに人間関係のフラクタリティを敷衍して
治療共同体というものを考えてみよう。
 
私たちのように
成育歴による心的外傷を負ったものは、
家族・親族とのつながりがない者が多い。
 
むかし風に言えば
 
身寄りのない人
天涯孤独
 
また、いま風にいえば
 
独居老人予備軍
 
が多いのである。
 
私自身などが、すごくわかりやすい例である。
 
虐待した者(私の場合、母であるが)は
権力を持っているから虐待をする。
 
ところが、同じ権力を持っているから
虐待された者を家族や親族から放逐してしまうのである。
 
権力を持っていなければ、
気に入らない存在を放逐できない。
共存しなければならない。
 
虐待の加害者からすれば、
被害者は、まるで自分の排泄物のようなもので、
できれば、もう二度と見たくないのである。
 
だから、持っている権力をつかって
被害者を放逐するのだろう。
 
家族でおかしくなった者は「身内の恥」。
 
「恥」は取り除いてしまえば、
「恥じることのない家族」に戻れる。……
 
そのようにして、
「家族のゴミ箱」にされた者たちは、
その家族で良いように利用されたあげく、
放り出される。
 
いわば、存在を使い捨てにされたわけである。
 
こうして存在を使い捨てにされた者たちとして、
あちこちの家族から放逐された者が
私たちのような精神科の患者村にあつまってくる。
 
むかし風にいえば、
不運な者たちの「吹き溜まり」なのである。
 
すると、
患者村は、家族から放逐された患者たちにとって
「第二の家族」
のようになっていく。
 
そのため、なかなかそこを離れるのは容易ではない。
 
私に、
「早く患者村から離れろ」
と忠言してくださる方は多いが、
そんなかんたんに行かない理由の一つがそこにある。
 
ただでさえ私のような鬱の人は、
生活環境が変化することが苦手であり、
床が陥没しているボロアパートから引っ越しすらできないのに、
第二の家族のような、新たな故郷の村のような
患者村を離れて、新しい治療機関を見つけることなど
やすやすとできるわけがない。
 
常人には計り知れないほどハードルが高いのである。
 
昨年秋、一時期、塞翁先生がとつぜんに
クリニックを閉院すると言い始めた時に、
立てつづけに4名もの患者がみずから命を絶った(*4)のは、
そういう事情のあらわれでもあるだろう
 
 
 
 
 
 
 
かくして、
患者たちにとって患者村は第二の家族であるわけだが、
それゆえに原家族と同じような毒性をおびてくることがある。
 
「家族で起こっていることを外の他人には言うな」
 
という箝口令(かんこうれい)は、
いまの私の治療共同体にあてはめると、
 
 
 
 
に相当してくるのである。
 
 
もともと治療空間における守秘義務とは、
患者のプライバシーを擁護するために
導入された概念であった。
 
多くの人々が、
 
「精神科に通うような者は、
頭のおかしい、人間的に劣る存在である」
 
という偏見を持っており、
そうした無知なる偏見から、
通院してくる患者を守るために、
 
「ここで見聞きしたことは
 外ではしゃべってはいけません」
 
という守秘義務が患者に課せられるのである。
 
それが、もともと患者にとって
守秘義務という概念が必要とされた理由であった。
 
 
ところが、それがいつのまにか私の患者村では、
治療者の利益を守るために
守秘義務という概念が
使われるようになっているのである。
 
 
たとえば、さいおうミーティングなど治療空間は、
患者が録音や録画をとってはいけないため、
治療者による、およそ人を人とも思わない暴言や
医療ミスと思われる、治療的な観点からして誤った指示は
患者の側が記録することはできない。
 
こうした累積の結果、
たとえ医療ミスが起こっても、
患者側は証拠不十分で訴えられないようになっているのである。
 
このようなことが、内科など他科領域であるだろうか。
 
ないのである。
 
 
 
 
 
 
近親姦など虐待が起こった家族のなかに被害者は、
 
「私がこの被害を公にしたら、
 家族がバラバラになってしまう」
 
という危惧をいだいて、
被害を届けないことが多い。
 
「バラバラになってしまう」
 
とは、
 
「家族関係が断ち切られる
 
という危惧である。
 
かたや、塞翁先生は
 
「私の言ったことを、これ以上ネットに書くと、
 治療関係を断ち切ります
 
と患者に言っているわけである(*5)
 
 
これは、
 
「あなたにとっての第二の家族関係を断ち切ります
 
「第二の家族がバラバラになっていいのか」
 
という脅迫であるのに等しい。
 
 
すなわち、
1990年代には虐待家族を治す専門家であった塞翁先生が、
いつのまにか
虐待家族のメカニズムを利用して、
自分の治療空間を統治するように
なってしまっているのである。
 
これは、ほんらい
塞翁先生自身が願っていた事態ですら、ないのではないか。
 
患者たちの言論の自由を認めず、
発言を管理統制しよう、としはじめたあたりから
どんどん塞翁先生の精神医療はおかしくなっている。
 
 
  •        

    顔アイコン

    守秘義務」はビジネス上では至極当たり前である。
    処が「コミュニティー」内の其れは不文律の、沈黙の掟となり存在する。破ればその組織からのドロップアウトであるし、制裁が待っているケースさえある。
    ドロップアウトした者は、自身で単独で生きる事を余儀なくされる。チンケな権力に抗えば、権力構造として際限なく権力は大きくなる。上には上が有ると身にしみる出来事が起きる様になる。特に米の其れは凄まじい程だ。
    組織、家族がばらばらに成る事を前提にして抗う事が出来るかどうかが言動を決めて来る。物事には表もあれば裏もあるのだ。 削除

    goodじいさん ]

     

    2016/12/20(火) 午前 8:47

     返信する
  •        

    goodじいさんさま 2件のコメントをどうもありがとうございます。

    なぜ、ビジネスにおいて関係者同士が「守秘義務」という契約を結ぶかと申しますと、その関係に属することで、何らかの利得を供与されることが、前提として契約に含まれているからです。

    契約が不文律か成文律かは問題ではないでしょう。

    患者にとっては、「治療される」ということが「利得」に相当します。

    この利得が供与されないのに、患者の側だけ一方的に「守秘義務」という債務だけ果たす必要はありません。

    渡されない商品に、お金をはらう必要がないのと同じです。

    (下コメントへつづく) 削除

    チームぼそっと

     

    2016/12/20(火) 午前 9:25

     返信する
  •        

    (上コメントからの続き)

    > 組織、家族がばらばらに成る事を前提にして抗う事が出来るかどうかが言動を決めて来る。

    おっしゃるとおりです。
    それで私は今「抗う」段階にいるのでしょう。


    >一つ質問ですが、どん底まで、堕ちた時の人間としての生存本能は出て来るものなんですかね?

    生存本能は出てくるでしょうね。

    しかし、ヒトは大脳新皮質が異様に発達したために、他の動物がしないような抽象思考をするようになってしまいました。

    すると「生きよう」という気持ちが、たんに生物的な意味だけでなく、そこに精神的な意味が凌駕したりするのでしょう。

    そこで「肉体的に死ぬことによって、精神的に生きることを選ぶ」などという選択肢が出てくるのだと思います。 削除

    チームぼそっと

     

    2016/12/20(火) 午前 9:28

     返信する
  •        

    阿坐部村の人たちのぼそっとさんの批判でよく出てくるのは、ぼそっとさんが放逐されたのは、塞翁先生や、阿坐部村の人たちに問題はなく、ぼそっとさんがお母様との間で演じてきた成育歴の再演を塞翁先生にぶつけている被害妄想だというものですが、今回の記事は、塞翁先生が、家族療法の中で
    木乃伊取りが木乃伊になるが如く、
    家族の関係性の構造を患者との間で再演しているという反論と見受けられました。

    これは、物事の構造把握として、とりわけ心理学的に大変優れた御意見だと思います。

    医者と患者、うまくいっている時は良性転移、うまくいかなくなると悪性転移、例えば夫婦の離婚の理由は、光の当て方によってどちらかが悪いということになりますが、実は結婚という共依存関係においては、どっちもどっち、一方だけが悪いということでは片付けられない。

    関係性の構造を見る必要がある。そして、その関係性を権力という視点で見た場合、ぼそっとさんの意見は、俄然リアリティーを持ってきます。

    ぼそっとさんの言説は、被虐待者が皆ニャロさんのように、虐められるために生まれてきたと思うこと、思わされることに対する抵抗と感 削除

    痴陶人 ]

     

    2016/12/21(水) 午前 0:41

     返信する
  •        

    抵抗と感じました。 削除

    痴陶人 ]

     

    2016/12/21(水) 午前 0:44

     返信する
  •        

    時々、ぼそっとさんがこのブログでやられていること、やろうとされていることが、阿坐部村の住人や、我々第三者にどれだけ通じているかという疑問を覚えます。

    一般人には、あまりにも高度な論理学、病理学、倫理学で、特に利害関係のある阿坐部村の人たちには、塞翁先生への2チャンネル的な意趣返しとしか思われかねない発言もあり、誤解を生むのですが、私はぼそっとさんがやられようとしている根本は、以下のことに尽きると思っています。

    ニャロさんのように、「私は虐められるために生まれてきた」タダさんのように、「私は死んでも仕方ない人間だ」と思うことなく、「私にも虐められることなく、生きる権利がある」ということを、もっと、もっと、皆さん、恥ずかしがらず、臆することなく語りましょうということです。 削除

    痴陶人 ]

     

    2016/12/21(水) 午前 1:22

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