VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(31)ミイラ取りがミイラになる

性虐待と主体(30)」からのつづき・・・

#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害

by ぼそっと池井多

 

 

痴陶人:(編集者による改行と一部修正あり)
阿坐部村の人たちによる
ぼそっとさんへの批判でよく出てくるのは、
ぼそっとさんが患者村から放逐されたのは、
塞翁先生や、阿坐部村の人たちに問題はなく、
ぼそっとさんがお母様との間で演じてきた成育歴の再演を
塞翁先生にぶつけている被害妄想である
というものです。

しかし、「性虐待と主体(30)」の記事は、
塞翁先生が、家族療法の中で、
木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になるが如く、
家族の関係性の構造を患者との間で再演している
という反論と見受けられました。

これは、物事の構造把握として、
とりわけ心理学的に大変優れた御意見だと思います。

治療者と患者は、
うまくいっている時は陽性転移
うまくいかなくなると陰性転移


例えば夫婦の離婚の理由は、
光の当て方によってどちらかが悪いということになりますが、
実は結婚という共依存関係においては、
どっちもどっち、
一方だけが悪いということでは片付けられない。

関係性の構造を見る必要がある。

そして、その関係性を権力という視点で見た場合、
ぼそっとさんの意見は、
俄然リアリティーを持ってきます。

ぼそっとさんの言説は、
被虐待者が皆ニャロさんのように、
「虐められるために生まれてきた」
と思うこと、思わされることに対する抵抗と感じました。

時々、ぼそっとさんが
このブログでやられていること、やろうとされていることが、
阿坐部村の住人や、
我々第三者どれだけ通じているかという疑問を覚えます。

一般人には、あまりにも高度な論理学、病理学、倫理学で、
特に利害関係のある阿坐部村の人たちには、
塞翁先生への2チャンネル的な意趣返し
としか思われかねない発言もあり、
誤解を生むのですが、
私はぼそっとさんがやられようとしている根本は、
以下のことに尽きると思っています。

ニャロさんのように、
「私は虐められるために生まれてきた」、
タダさんのように、
「私は死んでも仕方ない人間だ」
と思うことなく、

「私にも虐められることなく、生きる権利がある」
ということを、
もっと、もっと、皆さん、恥ずかしがらず、
臆することなく語りましょう

ということです。

[ 痴陶人] 2016/12/21(水) 午前 1:22 
 
ぼそっと池井多
 
痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。
 
私の言いたいことを、
たいへんわかりやすい言葉に噛みくだいてくださいまして
まことにどうもありがとうございます。
 
そもそも治療者との関係で、
自分の母子関係が再現(*1)されるのは、
私のみならず「すべての患者」であるはずなのです。
 
*1.再現:同じ状況がつくりだされること
再演:同じ状況において同じ行為を選択すること
 
私が、治療関係で母子関係を再現させていることを
あげつらったり批判したりしている
hashuさんやラディッシュさんたちご自身も
もし塞翁療法で治療がすすんでいるならば、
必ずや塞翁先生との関係で
自分たちの母子関係を再現しているはずです。
 
それが再演されるかいなかは、治療者次第です。
 
そのへんがどうなっているか、
彼らはご自分の治療体験を語らないから、
こちらが指摘できないだけの話です。
 
ラディッシュさんは、私を
 
「もらえるはずの物をもらっていないから怒っている」
 
と批判なさいました。
 
しかし、
 
「もらえるはずの物をもらっていないから怒る」
 
ようになるのが、回復であり成長であるはずなのです。
 
ニャロさんやタダさんの世界観は、
 
「もらえるはずの物をもらえないことを受け容れてしまっている」
 
ために、いまだ病んでおられるし、
本人たちも苦しんでいるのです。
 
 
 
 
 
 
私はリカモリング・アホバイザーのように
精神医学について高等教育を受けたことはございませんので、
たぶんに間の抜けたことを申し上げると思いますが、
少し治療理論的なことに入っておきましょう。
 
なぜ、治療関係で母子関係が再現されるかというと、
ひとことで言えば、
人が人として生まれるのに
母は、最初に対峙する他者であるからです。
 
母は「他者の原型」といってもよいでしょう。
 
この「他者の原型」との関係がおかしくなってしまった人は、
大人になってからさまざまな人間関係障害や、
社会への不適応などの症状を呈することになります。
 
ここでいう母は、生物学的な母とはかぎらないし、
母の在りようは、配偶者(ふつうは父)との関係性において
決まってきますから、
母が母であることには父や周囲の人々も関係してきます。
 
治療者は、患者に
「他者の原型」である母との関係を再現させて、
しかるのちに
現実の母がまちがえてしまった方向へ行ってしまわないように
望ましい方向へ関係を持っていくことによって、
患者が「他者の原型」との関係を修正するようにもっていくのが、
ほんらいの治療過程なのです。
 
少なくとも塞翁療法のように
メラニー=クラインやウィニコットの流れをくむ流派ではそうです。
 
わかりやすく云えば、
こんがらがった紐を、いちばん原初の状態までほどいて、
今度は正しく結び直す、
という作業をするわけです。
 
ところが、塞翁先生が私にしたように、
わざわざ母子関係を再現させておいて、
「リンクバナーを切る」
「放逐する」
「発言させない」
などなどと、
私の母がやったのと同じことを再演させてしまっては、
わざわざ傷口がよく見える状態へ持ってきて、
さらに深く傷をえぐるのと同じです。
 
こんがらがった紐をわざわざ最初までほどいて
もっとこんがらがった結び方をするのと同じです。
 
これが、医療ミスでなくして、何でしょうか。
 
患者が日常空間でかってに外傷再演してしまうのは、
治療の対象となる事象ですが、
治療空間の中で治療者によって起こされる外傷再演は医療ミスです。
 
塞翁先生の好きな言葉をつかえば、
治療者による「セカンド・レイプ
なのです。
 
塞翁先生が
ミイラ取りがミイラになる
とは、まさしくそのとおりで、
暴君としての虐待父にみずからが成ってしまい、
虐待家族の閉鎖性を、そのままご自分の患者村に
持ってきてしまっておられます。
 
塞翁先生の過去の著作に、
 
「家族はこわい」
「家族依存症」
 
というのがありますが、
それはそっくりそのまま
 
「精神科はこわい」
「精神科依存症」
 
と題名を変えて、いまの患者村を語れます。
 
また、同じく塞翁先生の過去の著作に
 
「封印された叫び」
 
というのがありますが、これは
私のような患者の叫びが
ザスト通信にさえ掲載されず
そのまま封印されることを指しています。
 
 
 
 
 
 
 
一方では、痴陶人さんがご指摘のように、
私が書いていること、
あるいは、このぼそっとプロジェクト
やっていること、やろうとしていることが、
どれほど理解されているか、
ということに関しては
まったく心もとありません。
 
しかし、社会的に何の権力もない
一人の生活保護受給者が声をあげようと思ったら、
さしあたってこの方法しかない、
というのもまた事実です。
 
また、私が批判していることの一端が、
塞翁教団の情報の閉鎖性にあるのだとしたら、
このぼそっとプロジェクトにおいては
それを極力排し、
 
「他人の不幸は蜜の味」
 
とばかりに楽しんでいる視聴者や
 
「上から目線で教えてあげる」
 
とばかりに寄ってくる共依存症者も排除することなく
広く社会に公開するものでなくてはならないと思うのです。
 
 
 
・・・「性虐待と主体(32)」へつづく
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