VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

性虐待と主体(32)内部告発と抵抗

性虐待と主体(31)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
昨年の暮れに掲載した、
前回性虐待と主体(30)にひきつづき、
群馬兄妹近親姦事件(*1)に関する記事の続きを読みながら、
人間の集団にまつわる構造を考えていく。
 
 
中学1年の冬。学校で警察官による防犯講話が開かれた。
不本意な形で体を触られることは犯罪被害です」。
警察官の言葉に、
初めて兄の行為が強姦(ごうかん)という犯罪だと知った。


(……中略……)

学校のスクールカウンセラーのところに駆け込んだ。
泣きながら包み隠さず話すと、
「教えてくれてありがとう」
と言われた。

すぐに担任教諭と教頭が加わり、家庭に連絡が入った。
しかし、駆けつけた母親は娘の顔を見るなり、こう言い放った。

うそでしょ。お兄ちゃんがそんなことするはずない
 
なぜ、この母親はこんなことを言ったのか、
ちょっと口当たりがくどくなるが、
少していねいに考えてみたい。
 
 
 
 
 
 
人は、いったいいくつの原因から、
一つの行動を起こすものであろうか。
 
現実は、いくつもの原因が複雑に重層的にかさなって
一つの行動を生み出すものであろうが、
それに反して、一般の人は、
一つの原因と一つの行動を直線で結びたがるものである。
 
 
こうだったから、ああなった
 
という単純な図式であったほしいと思うものである。
 
たとえば、
テレビの昼メロなどでやっている
サスペンス劇場を考えてみよう。
 
こういう番組を見ている視聴者層は、
およそ自己分析には縁のない人々が多い。
 
番組を見ながら
「犯人は誰か」
を考えることが、
「頭をつかうこと」
だと考えているような視聴者層だろう。
 
だから、こういうサスペンス劇場では、
やがて主人公である美人刑事の、
こういうセリフにたどりつくのである。
 
「あなたは、彼を愛していた。
 だから、彼女を殺してしまったのです」
 
この直線的なわかりやすさに、人々はすがりつく。
 
私が愛してやまない名作、
アルベール・カミュの『異邦人』でも、
主人公は、アラブ人を殺した動機を
 
「太陽が黄色いから」
 
と供述する。
 
そのリアリティの持つばかばかしさが、
不条理の哲学などともてはやされたわけだが、
じっさいは「太陽」のほかに、
いくつも犯行の動機となる伏線が埋めこまれているものを
「太陽」だけに理由を絞ってしまった点においては、
主人公ムルソーもサスペンス劇場と変わらない。
 
 
 
 
 
 
このように、人が一つの言動を起こすときには、
「一つの」ではなく「多くの」理由が重層的に複合しあって、
一つの言動を無意識に選択しているのである。
 
今回、考察の対象としている
この群馬兄妹近親姦事件の家族において
母親が、
 
「うそでしょ。
 お兄ちゃんがそんなことするはずない」
 
という言葉を発したことについても同じである。
 
背景には、いくつもの理由があったはずだ。
 
まず、この母親は、
妹と比べて兄のほうを大事にしていた、
ということが前提としてあるのかもしれない。
 
どの親でも、
自分の子どもは平等に愛していることになっている。
 
しかし、それは外向けの、
世間さま向けのステイトメントであって、
じっさいは親の心の中に、
 
「この子は、あの子に比べて、ちっともかわいくない」
 
というようなことが、きっとあるのだと思う。
 
たとえば、これはひがみで言っているのではないのだが、
私の母親にとって、
26歳で産んだ長男の私よりも、
34歳になって産んだ次男の弟のほうが
無条件にずっとずっとかわいかったのだと思う。
 
そのことが、やがて私が原家族から放逐され、
一族から切り離された、
孤独死予備軍の生活保護受給者となる遠因の一つであろう。
 
記事中の母親は、
妹よりも、兄を、子として愛していたのではないか。
 
それは、兄が「異性の子」だったからではないか。
 
そこに、非性器的なエロスの交流があるかもしれない。
 
さらに、兄は「男」で、
やがて「家を継ぐ大事な跡取り」である
という視点もあったかもしれない。
 
近代家族はずいぶんと解体されてきたものだが、
それでもなお
「家を継ぐ」
という封建的な意識は、
とくに村落部では残っていると聞く。
 
そして、これらのことが
この家族の権力構造の形成に影響しており、
 
兄妹の関係でも、兄が圧倒的に優位であり、
それゆえに兄と妹のあいで性器的な近親姦
 
という事象も起こったのだろう。
 
前に、「口封じとしての守秘義務」で詳しく見たように、
たった二人だけのミクロな人間世界でも
「権力」という構造はあらわれるものであり、
性虐待とは性器の侵襲うんぬんだけでなく、
この「権力」の行使であるからこそ虐待なのである。
 
 
 
 
 
 
上記のように述べてきたことは、
わかりやすい言葉でいえば、
 
が を より えこひいきしていた
 
ということになる。
 
ただ、その「えこひいき」だけが理由ではないこともまた、
明白である。
 
2017年現在の日本社会において
近親姦という事象は「タブー」であり、
発覚したら家族の「恥」となる行為である。
 
その家族が、崩壊してしまうほどの恥である。
 
この事件における母親は、
彼ら「家族」という体制の護持を図るために
家のなかで起きた近親姦をなかったことにしょうとして、
 
「うそでしょ。
 お兄ちゃんがそんなことするはずない」
 
と言った部分がどうしても大きいだろう。
 
この群馬の家族において、
被害者である妹が、
兄からの近親姦を訴えたことは、
家族という共同体組織からの内部告発であった
と考えられる。
 
家族という小さな共同体のみならず
会社や国家といった大きな共同体にいたるまで、
ひとつの組織から内部告発がおこなわれようとするときには、
必ずといってよいほど
 
体制護持派が、その内部告発をつぶそうとする
 
という現象が起こる。
 
考えてみれば、当たり前のことだ。
 
体制護持派は、その体制から利得をえている
 
内部告発は、その体制から利得をえていない
 
だから、この
内部告発をつぶそうとする」のは、
利害対立なのである。
 
 
 ・・・「性虐待と主体(33)」へつづく

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