VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

スパゲッティの惨劇(27)-2 続・国内の反響 ~ 然るべき治療者とは

スパゲッティの惨劇(27)-1」からのつづき・・・
by 痴陶人
 
痴陶人
ぼそっとさんとマリアテレサさんのやり取り、
とりわけマリアテレサさんが、16歳である
という驚愕の事実がもたらした
久しぶりのコメント欄の盛り上がりから、ここ数日、
私は様々な想念にとらえられています。

その想念は、とても微妙でとりとめなく、
言葉にするのが大変難しいのですが、
非常に大切なことのように思われますので、
何とかやってみようと思います。

まず、マリアテレサさんが16歳だった
という驚愕の事実ですが、
この事実は、真実のほんの一側面だ
ということを申し上げておきます。

私は、今回のことで、最も大切なことは、
マリアテレサさんが16歳であったことではなく、
16歳の少女が、精神治療を考える上でもたらした影響と
様々な問題点を洗い出してくれたことだと思います。

ぼそっとさんは、
「精神治療に精神科医は必要か」
と、改めて問題提起されています。

そして、goodじいさんさんは、
ぼそっとさんの場合は必要ないと断言されています。

しかし、もし、心を病んだ者たちに、
精神科医が必要ないのであれば、
代わりに何が必要なのかを私は考えました。
そして、その答えに近いものを、
私はnoelpixさんのコメントに見いだしました。

お金は必要ありません。
その人のこころに寄り添う存在がただの一人でもいれば大丈夫と思います。
いや、その人自身が寄り添う存在があれば。
僕の場合は大いなる存在でした。
いや、宗教の話ではありません。
真理の話と捉えていただければ幸いです

「その人の心に寄り添う存在」。これです。

ほんらい精神科医とは、こういう存在であるべきで、
またそういう存在であったはずなのです。

ところが、精神科医
金儲けやノーベル賞をもらいたいという名誉欲に走り、
自分の出世栄達のために患者を利用するなら、
私も「精神科医は、必要ない」と断言してもいいと思います。

これはhospitalityの問題といってもいいのですが、
「医は仁術なり」といわれるように、
hospitalityを無くした医など何の意味もない、
しかも心というhospitalityと最も密接に関係する精神医療には、
百害あって一利なしです。

マリアテレサには、このhospitalityがあった。
患者の心に寄り添おうとする意思です。

マリアテレサというのは、本名ではなく、
おそらくハンドルネームだと思いますが、
このネーミングには、そのhospitalityが色濃く反映しています。

私がマザー・テレサやアンネ・フランクを想起した背景には、
マザー・テレサのマザーにある
聖母をマリアと置き換えた彼女の純粋なhospitalityにあります。

この無邪気さは、あるいは16歳の少女にしかできない。
例えば既に医学部に在籍していたら、
烏滸がましく恥ずかしくてできなかったかもしれません。

彼女がある日の朝起きて、
精神科医になろうとしたことの背景には、
純粋な少女が世の中の「病んだ心」を救いたい
という紛れもない真実なのだと思います。
それは、宗教的な救済願望にも等しい。

一方、ぼそっとさんの側にも
治療者に対する理想のビジョンかあった。
それは、アリス・ミラーという今は亡き精神科医です。

アリス・ミラーなら、自分の悲しみや苦しみを理解し、
自分の心に寄り添ってくれた筈だ
とぼそっとさんは述べられています。

この予めぼそっとさんが措定した理想の精神科医のビジョンを
私は、巫女やユングのアニマに例えました。

また、私はぼそっとさんとマリアテレサのやり取りを
文学に昇華したと述べましたが、
その根拠を完全には言葉にできませんでした。

しかし、マリアテレサが16歳の少女だと知って、
hit*****さん同様、ストンと腑に落ちた部分があります。

それは、感性豊かなお二人が、
それぞれの真実をネットで照らし会わされたということです。

マリアテレサの凄いところは、
その純粋で豊かな共感性と
大人びた観察力と判断力のバランスにあると思いますが、
もし彼女が既に精神科医としての何らかの教育を受けていたら、
その共感性は、これほど発揮されていたかどうかは疑問です。

16歳の少女だからこそ、
悲しみ苦しんでいる心に純粋に感応できた
と私は思うのです。
純粋な心だからこそ、悲しみや苦しみの真実を理解できた。

一方、ぼそっとさんも、
彼女の傷ついた心に寄り添いたいという
hospitalityが嘘偽りのない真実と理解した。
つまりマリアテレサの心に感応した。

この奇跡的な出合いが文学に昇華させたのだと思うのです。
ある種のシンクロ二シティーですね。

アルプスの少女ハイジ」のおじいさんが、
ハイジの無垢な心に触れて、
気難しい閉ざした心を開いて行くように、
日本の片隅で、老獪で欲深き老精神科医
彼が作ったその閉鎖的村社会に日々孤軍奮闘され、
ささくれ立った心を開いていく過程が、
読むものに感動を与えたのだと思います。

私やgoodじいさんさんは、
それを文学の中に於ける往復書簡と感じましたが、
迷えるおっさんさんは、端的にラブレターと仰言いました。

そして、ぼそっとさん自身も
それを愛とは呼ばないけれど、
「精神治療=エロス説」
として述べられています。

これまでぼそっとさんは、
何度かこのことを言われています。
私にはいまいちよくわかりませんでしたが、
今回やっとそれを理解しました。

それは、治療関係にある治療者と患者の治療転移が
恋愛のアレゴリーであるということで、
患者の側からだけ語ると、それは、エロスである
ということですね。

「愛」という言葉に、
ある意味敏感過ぎて臆病なぼそっとさんは、
それを愛とは呼ばないけれど、
エロスとは仰言るわけです。

しかしここは、矢張り愛というべきだと私は思います。
精神治療は、愛であると。

私はぼそっとさんとマリアテレサさんのやり取りの中で、
サトウアイコを思い出したと、
コメントに述べましたが、
同時にナガレの発言を思い出していました。

ナガレは、もし、サトウアイコが彼を愛して結婚し、
自分に寄り添って共に生きてくれれば、
自分の病気も治ったかもしれない
というニュアンスで語りましたが、
その言葉は、今、私にも大きくのし掛かって来るのです。

彼がサトウアイコを愛し、
28年間も操を捧げ、今もまだ童貞を維持し、
それを誇りにさえ思っているようなのは、
彼の逆説が、
17歳の時から、
サトウアイコのhospitalityを欲していた現れとして、
同じ少女を愛した私にも理解できるのです。

あの時、顔面至上主義ではなく、心至上主義として
ナガレを擁護したことの正統性は、ここにあります。
それは、サトウアイコのhospitalityの擁護でもあるのです。

そう、彼女は、ナガレや私には、
noelpixさんのいう、「心に寄り添う存在」の象徴です。

人はそれを愛と呼ぶのだと思います。

人はすべからく、
そういう存在を求めて生きざるを得ない存在であり、
心の病とは、その愛の欠落、欠損により生じるのではないか
とさえ私には思えてきました。

そこでエロスです。

本来この言葉は、人間の神に対する愛を意味しました。
それを希求する感情の比喩としてエロスはあります。

そして、ぼそっとさんが
「精神治療=エロス説」
を患者の側に当て嵌められる時、
治療者は神に準えられることになります。

このことは、
普段、塞翁王国を宗教として否定されるぼそっとさんには、
矛盾すると思う方もあるかもしれませんが、
これは違います。

ぼそっとさんは、
医療や精神治療の宗教的側面を否定されてはいません。
現にぼそっとさんは、
終末医療などの例を挙げ、
全否定していないことを表明されています。

ぼそっとさんや私が否定するのは、
精神治療を新興宗教の教団ように、
まやかしの陳腐な運営で患者を騙し、利用する、
そのマルチ商法的技法、やり口の否定です。

さて、そこで私は、
エロスの本来的な反意語を語らねばなりません。
それは、アガペーです。

アガペーは、神の人間に対する無償の愛を意味します。

エロスを患者の治療者に対する愛のアレゴリーとするならば、
治療者の患者に対する愛のアレゴリーは、アガペーです。

医者は、神ではない。
現代医療は、その事を訴えることをしかしなくなっていますが、
病を治すことは、ついこの前まで、神の領域でありました。

無論我々は、医者が神でないことを百も承知しています。
しかし、「医者の患者に対する」無償の愛だけは、
まだ信じる余地が残っていると私は思うのです。

奇しくもマリアテレサは、
そのことを我々に回帰させてくれました。

missさんが、
マリアテレサをアリス・ミラーの生まれ変わりと思いたい感性は、
神を信じたい我々の心の中に否定しがたくある何かです。

愛と神に懐疑的なぼそっとさんですら、
今回いい意味でそのことを露呈されています。

ぼそっとさんは、
ミラーの主著「For  Your  Own  God」(*2)を
「あんたのためを思って」と訳されましたが、
私は「 汝自身の神の為に」と直訳したく思います。

*2.原題は『For Your Own Good

どんな宗教の神であれ、
神としての資格は、
この「無償の愛」にあるような気が私にはするのです。

そして、それを生まれながらに奪われた者たちに掛ける言葉として、
ミラーのこのタイトルは、
何と示唆にとんだ素晴らしい言葉であることか。

ここ数日、悩まされた想念の何割が
言葉にできたか心許ないですが、
これがいま現在の私の想念の概略です。
え!godでなくgood!
いやいや、お恥ずかしい限りです。
穴があったら入りたい。
老眼、酔っぱらい以前の話ですね。
ショック…。  


[ 痴陶人 ] 2017/6/11(日) 午後 4:18 
 
痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。
 
えっ? 
論をアガペーに持ってくるために、
痴陶人さんが意図的に「もじった」のではなかったんですか。
 
「For Your Own Good」は、
直訳すれば、
「あなた自身によいために」で、
日本語の「良かれと思って」に相当します。
 
それを私は、塞翁先生の口ぐせ
「あんたのためだ」
に重ね合わせて考えているわけです。 
 
[ ぼそっと池井多 ] 2017/6/11(日) 午後 6:06 
 
いやあ、先程から私は、
何故この間違いを私がしでかしたかを考えてたんです。

今からすると、
ぼそっとさんのもほぼ直訳ですから、
意訳と考えた時点で既に、
godと思い込んでいたようです。

ぼそっとさんが塞翁先生を捩ってたのは、
何となく感じていましたが、
私は、これをどうしても
godと思いたかったみたいです。

神を必要としているのは、
ぼそっとさんではなく、
どうやら私の方みたいですね。

「汝自身の神の為に」
とタイトルにもしたように、
今回のこの発言は、ここがキーポイントですから、
この記事自体が意味を成しません。

ちょっと悔しいミスですが、
goodとgodの語源が同じなのかもと、
自分を慰めています(笑)

矢張り言葉にするのは、難しい想念でした。

[ 痴陶人 ] 2017/6/11(日) 午後 6:20
 
となれば、
もう「もじり」だった、
ということで通されては?
 
いただいたコメントも承認しなければ、
読者の方にはわかりません。  
 
[ ぼそっと池井多 ] 2017/6/11(日) 午後 6:45
 
いえ、これは、何かを示唆しています。

私としては、今メールでの
ぼそっとさんと私のやり取りもアップしていただければ
と思います。

恥ではありますが、
そんな恥は、とるに足らないことです。


[ 痴陶人 ] 2017/6/11(日) 午後 6:52
 
hashu:
> 痴陶人さん

おひさしぶりです。 
実は私も同じく『god』と読んでいました。何とおもしろい事でしょうか!

さておき、
noelpixさんの
「…その人自身が寄り添う存在があれば。
僕の場合は大いなる存在でした。」

寄り添う存在とは、
(僕)が
寄り添ってもいいと思える
事なんです。

ここが実は大変重要な事だと思っております。
感情をさらし、委ねられる力が必要であるし、言葉では言い尽くせないタイミング、もちろん、受ける相手の力も必要なんです

(自分)が
「寄り添ってみよう」と思える気持ちこそ
何であったか……。

noelpixさんには、大いなる存在。
私の場合は以前話した最初のカウンセラーでした。存在だけでありがたかった人です。
彼女がいなかったら、私も、今もこうして存在していたかと思うくらいの人でした。
絶妙なタイミングで現れた人だと今でも
そう思ってます。  


[ hashu ] 2017/6/11(日) 午後 9:39
 
痴陶人
> hashuさん
おお!神を必要とする人がもう一人いましたか。
それが、hashuさんとは、何と心強いことか!

god(神)にO(無)を加えるとgood(無神=良きこと)となるとは、何と哲学的なことでしょう(笑)

良きことから点をとると、艮(うしとら)=良くないこと=鬼(艮の方角を鬼門という)というのに似ています(笑)

そうですか、hashuさんには、アリス・ミラーがいたのですね。

そう、タイミングですね。ぼそっとさんにもマリアテレサさんの出現は、絶妙なタイミングだったと思います。

hashuさん、またよろしくお願いいたします。  


[ 痴陶人 ] 2017/6/12(月) 午前 7:09
 
ぼそっと池井多
 
私がアリス・ミラーの診察をうけたいと思ったのは、
アリス・ミラーが女性であったこととあまり関係はなくて、
彼女が精神科医として探求していたことが
児童虐待の本質であり、
その結論が私と同じ、もしくは非常に近い
ということでした。
 
アリス・ミラーが男性の治療者でも、
私は同じように診察をうけたいと思ったでしょう。
 
性器の挿入や侵襲が虐待でない、
などとは私は一言も申しません。
 
それは、虐待なのでしょう。
 
しかし、それは主体の蹂躙という意味で虐待なのであって、
性器の挿入や侵襲をともなわない虐待よりも
重症であるとは断じて思わないのです。
 
流全次郎のいう、
「性器の侵襲をうけた被虐待者の前では
グウの音も出ない」
というのは、
そういう世界観をもった治療者に
洗脳されたからそう言っているだけであって、
患者である自分自身の声に耳をかたむけていない、
と私は感じています。
 
もし、そんなに自分の症状が軽いのなら、
なぜいつまでも医療にかかっているのか
が逆に問われることでしょう。
 
 
・・・「スパゲッティの惨劇(28)」へつづく

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・・・「ザスト通信を読む(108)」へもつづく

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