VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

治療者と患者(153)患者村のイザコザを発信する理由

治療者と患者(152)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多
 
私はひごろアクセス数を意識することはないのだが、
今日は朝から異様にアクセス数が伸び、
さすがに私の目にも入ってきた。
 
「これはいったいどうしたことか。
 よっぽど、何か面白いことでも書いただろうか」
と思っていると、
どうやらそうではなく(トホホ)、
あるメジャーなウェブ雑誌(*1)が
弊ブログ「ぼそっとプロジェクト」を
取り上げてくれたかららしい。
 
by 池上正樹 ダイヤモンドオンライン 2017.07.13
 
これは短い記事だが、
とてもよくまとまっていると思う。
 
 
私はふつう、取材を受けると、
 
「自分がしゃべったことのうち、あそこが入れてもらっていない、
 ここを取り上げてくれなかった」
 
などとガミガミ文句をいうのだが、
この池上正樹さんというジャーナリストは、
私が語った複雑多岐にわたることを
じつに偏りもなく、コンパクトにまとめてくださったものである。
 
私自身、「まとめる」「かたづける」ということが
大の苦手ときているので、
こういう職人芸を見てしまうと、
やはりさすがフリーのプロとして書いている方の技量の
表に出ないすごさというものを垣間見るのであった。
 
 
 
 
 
 
今回、記事になったことは、そのまま
 
なぜぼそっとプロジェクトが始まったか
 
を語るものでもある。
 
 
 
私たちの治療共同体「阿坐部村」で、
2013年1月、それまで関わっていた私を排除するかたちで
シワブ(仮称)が誕生したとき、
私は思った。
 
「これで私のような患者は、発言する機会がなくなる」
 
かつて社会でそこそこの一隅におさまっていた私が、
人生の大舵をきって精神医療につながったのは、
地位や収入などすべて放棄しても、
自分には生きている間に言わなくてはならないことがある、
と思ったからであった。
 
ところが、治療と称して
あちこちのプロジェクトをたらい回しにされ、
都合のいい「無償ボランティア」「作業療法の対象」として
ほかの患者たちの回復に使われたあげく、
やがて打ち捨てられようとしている。
 
このままでは私の声は
この社会から「なかったこと」にされてしまう
ということに、ようやく気がついたのであった(*2)
 
*2.そのあたりのことは、
以前も書かせていただいたことがある。
 
 
塞翁先生が前面に押し出している、
近親姦の女性被害者や、性犯罪の男性加害者は、
それはそれで治療を要する深刻な精神疾患であろう。
 
そのことは私も認めるが、
だからといって
ただのうつ、ひきこもり、親からの精神的虐待などの
症状が地味な患者が、
治療をおろそかにされていい、
という理由にならない。
 
また、地味な患者も
近親姦や性犯罪といったエリート症状を持つ患者と等しく
治療機会を与えられるべきであるし、また
社会への発信の権利を持つべきである。
 
そう考えて、
私はこのぼそっとプロジェクトを始めさせていただいた。
 
そのうちに治療者から弾圧が強まってきて、
私の原稿は、
治療共同体の機関誌「ザスト通信」には
ぜったいに掲載されなくなった。
 
また、患者たちは
 
「あのぼそっとプロジェクトのウェブページを見るな。
 見た者は、治療関係を断ち切る」
 
などと脅されているらしい。
 
 
こうして、もともと治療者の検閲を経ないで
患者の生の声を社会へ発信する場であった本ブログは、
しだいに、
患者が治療者と対決する場となってきているようである。
 
そして、これは
21世紀はじめの日本の精神医療の曲がり角を
とてもよく象徴する現象なのだと思う。
 
オープンダイアローグをはじめとする
このように力で患者を屈服させる
父権主義的な精神医療からの反省から生まれている、
といってよい。
 
歴史の曲がり角は、
それが大きな転換点であることがわかるのは、
のちに何十年も経って、
年表に整理される時である。
 
同時代を生き、同時進行的に見ている人にとっては、
歴史の曲がり角などといっても、
きわめて些細な、つまらないイザコザにしか見えないものである。
 
だから、そういうイザコザを大切に扱い、
これからも発信していこうと思う。
 
 
 
 
 
・・・「治療者と患者(154)」へつづく
 

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  •         

    仰言る通り、池上氏の文章は、的確で客観性を持ち、あれ以上削ぎ落とすことができないくらいに過不足なく纏まっていますね。

    決してダイジェストではなく、ちゃんと本質を捉えてもいます。ぼそっとさん同様、私も感心しました。

    これこそがプロの仕事なのだと思います。

    ちゃんとしたジャーナリストに取り上げられたことは、ぼそっとの一員として嬉しくもあります。 削除

    痴陶人 ]

    2017/7/13(木) 午後 5:14

    返信する
  •         

    痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。

    おっしゃるとおりなのですね。

    ふだん私は、私自身が言っていることをまとめられないで困っているのですが、ああいうふうに端的にまとめればいいのだ、という一つの指標になりました。

    反対に、
    「そうか、ようするに私が言いたいのはそこなのだな」
    と気づかされる箇所も。 削除

    チームぼそっと

    2017/7/14(金) 午前 0:42

    返信する
  •         

    対話というのは実に面白い。

    池上氏の描くぼそっとさんは、妄執のないクールで知的なひきこもりの活動家、マリアテレサとの対話のぼそっとさんは、包容力に富んだ哲学者に映る。

    池上氏のぼそっとさんの台詞は、何一つ虚飾がないのに、池上氏を反映し、マリアテレサのぼそっとさんは、彼女がのり移ったかのように、慈愛に満ち魅力的です。

    でも、どちらも嘘はない。

    私とのぼそっとさんは…

    妄執と混沌、きっちり私が反映されてます(笑)

    しかし、どのぼそっとさんもやはり嘘じゃない。

    人と関わり、人がら引き出される自分というのがあるのですね。

    塞翁先生と闘うぼそっとさんは、紛れもなく、塞翁先生から引き出されたものなのでしょう。 削除

    痴陶人 ]

    2017/7/14(金) 午前 1:51

    返信する
  •         

    痴陶人さま おっしゃるとおりだと思います。

    痴陶人さんに引き出される私というものもあります。

    私自身、自らを語るのに他者が必要です。
    誰もいないところで独り言をくりだしているのと、誰かが目の前に存在し、そこへ向かって話しかけたり、文章をつむいだりするのでは、私から出てくる言葉がちがいます。

    それらは、どちらかが嘘ということではなく、どれも本当の私の言葉なのですが、引き出される部分がちがうのでしょう。


    >塞翁先生と闘うぼそっとさんは、紛れもなく、塞翁先生から引き出されたものなのでしょう。

    まさしくそのとおりですね。 削除

    チームぼそっと

    2017/7/14(金) 午前 7:26

    返信する
  •         

    顔アイコン

    痴陶人氏の仰る「嘘」は無い。誠に其のとおりで「どれも本当である」と言う認めるかどうかだと思っています。

    「人との関りから引き出される自分」此れも自己が成長すると言う意味に於いて、又生きると言う点では必須でしょう。
    ぼそっと氏、痴陶人氏にしろ卓越した能力をお持ちになって居る事は間違いのない処です。
    其れをどのステージで表現され、生かして能力を発揮されるかだけでしょう。 削除

    goodじいさん ]

    2017/7/14(金) 午前 8:01

    返信する
  •         

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    おっしゃるとおり、「嘘」ではないのですね。

    人は多面的な生き物であって、
    状況に応じて、いろいろな対応ができる。

    油断すれば、それらは統合されなくなり、
    ただの嘘つきに堕し、

    「あっちでああ言い、
    こっちでこう言い」

    というゲスな人間になってしまう。

    そうならないように
    人格の統一性を保った範囲で
    人はそれぞれの社会的場面に
    適応して生きているのでしょう。

    それが、塞翁先生のいうように
    「人格はない」
    などと言い切ってしまうと、
    たちまち統合のタガがはずれ、

    「あっちの患者にゃああ言い、
    こっちの患者にゃこう言い」

    と二枚舌、N枚舌となって
    嘘まみれの人生になっていきますね。

    フォイエルバッハ(だったか)は、
    「神がいないのなら、神を作り出さなくてはならない」
    と言ったそうですが、
    私は言うでしょう。
    「人格がないのなら、人格は作り出さなければならない」 削除

    チームぼそっと

    2017/7/14(金) 午前 8:11

    返信する
  •         

    顔アイコン

    ぼそっとさんが仰る様に「無ければ作り出す」その姿勢こそが大切だと思います。必要なのです。
    小さな組織の中でも、抗い、作り出す姿勢がないと既に死に体です。新入生にはそう訓示しています。 削除

    goodじいさん ]

    2017/7/14(金) 午前 9:24

    返信する
  •         

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    「人格」「自我」「超自我」といった抽象概念は、
    手に触れられる物質ではないため、
    いくらでも「ない」と言えてしまいます。

    しかし、私たちは
    社会生活を営むためにそれらを必要としているので、
    なければ作り出す
    くらいの考えでなければならない、
    ということであります。

    塞翁先生にしてみたら、
    患者が治って社会生活を送ってしまっては、
    リカモリ制度がたちゆかず、
    将来的に娘の財源が先細るので、
    いつまでも患者が社会生活へ戻っていけないように、
    「人格はない」などといい、
    責任ある人格の育成を止めているきらいがあります。

    その結果、
    痴陶人さんのいう「オバQ話法」のように、
    どこに責任ある主体の立場を獲得して言葉を発しているのかわからないディスクールが出現するのです。 削除

    チームぼそっと

    2017/7/14(金) 午前 11:17

    返信する
  •         

    >ふだん私は、私自身が言っていることをまとめられないで困っているのですが、ああいうふうに端的にまとめればいいのだ、という一つの指標になりました。

    >反対に、
    「そうか、ようするに私が言いたいのはそこなのだな」
    と気づかされる箇所も。

    質が高く密度の濃い対話というのは、相手との間に精神治療に於ける治療転移を起こさせ、自分の気づかなかった自分を掘り起こしてくれるということだと思います。

    ここに、ぼそっとさんの投げ掛ける大いなる疑問「精神治療に精神科医は必要か」という問題が抵触してきます。まあ、塞翁先生も精神科医が必要ないと考えるから、リカモリ制度を考え出したのでしょうが。

    マリアテレサ精神科医を目指しているというのは、非常に心強い限りですが、精神科医が、全て対話の名人かというとそうではないはずです。

    対話は、教えられて上手くなるものではない。ましてや、親に虐待されて育った人たちの大きな傾向として、幼少期に対話を阻まれているわけですから、対話が苦手な人が多いはずです。 削除

    痴陶人 ]

    2017/7/15(土) 午後 1:18

    返信する
  •         

    優れた話者が、必ずしも優れた対話者ではないはずで、シェアトークで他人を引き付ける話ができる人が、他人から上手く話を引き出せるかは別の能力です。

    もちろんどちらの能力にも長けている人(例えばぼそっとさん)はいるでしょうが、そんな人は少ない。

    塞翁先生は、そこをはき違えている。話法は、慣れや訓練で話術として上達するかもしれませんが、対話力は、技法でなんとかなるものではないからです。

    所謂、コミュニケーション能力ですから、対話力というのは。

    そして、精神に何らかの傷害を持つ人は、この能力を阻害されている人とも言い換えられるわけで、リカモリ修了生がカウンセラーやアドバイザーとして、職業的に通用するとは私は今でも思っていませんが、もし通用したとしても、それは、一番苦手なことを職業とすることになるのかもしれないわけです。

    先生のラーメン(治療)を食べたくてラーメン屋に来ている客をラーメン屋にする弊害は、ここにあります。

    包丁を握ったこともない人にとっては、チャーシューを切るための包丁が、苦痛により、自分や他人を殺める道具にさえなりかねない。そうならないことを私は 削除

    痴陶人 ]

    2017/7/15(土) 午後 1:20

    返信する
  •         

    祈ります。 削除

    痴陶人 ]

    2017/7/15(土) 午後 1:21

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