VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

治療者と患者(158)追悼・日野原重明先生

治療者と患者(157)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多
 
巨星、日野原重明先生が亡くなった。
 
日野原先生は内科出身だから、
精神医療には関わりがない
などと思う人がいるかもしれないが、
けっこうそうでもないのである。
 
日野原先生は、中学生のころは、
今でいう対人恐怖症、人間関係障害であり、
赤面恐怖を克服するために弁論部に入ったのだという。
 
大学生のころも病気がちで、
自分の体力を心配し、
「仕事が楽な精神科医になろうと思った」
らしい。
 
内科出身とはいえ、
食育などの概念を通じて人間教育全般へ、
あるいは衛生学などを通じて社会的提言を多くされていき、
たんなる医師という枠組みを越えて活動されていた。
 
 
 
 
 
 
塞翁先生も、少なからず日野原先生を意識していた。
 
塞翁先生はあるとき、日野原先生について
さいおうミーティングで
こんなことを言った。
 
「あの日野原さんだってね、
下で働いている、メスの切れる、脂の乗った医者は
みんなクサってるよ」
 
これを聞いただけで、意味がわかる人は、
相当の「通」である。
 
かなり医療界の事情がわかったうえで聞かないと、
何のことかわからない、短すぎるつぶやきであり、
じじつ、その場でさいおうミーティングに出ている
さいおうクリニックの患者たちの大半は
右の耳から入れて左の耳から出ていっただけの
つぶやきであったろう。
 
しかし、これはなかなか奥行きの深いことを
塞翁先生は言っていたのである。
 
日野原先生について奥深いこと、
というよりは、
塞翁先生自身について奥深いことである。
 
ようするに、こういうことだ。
 
「日野原先生はあまりにも有名で、
いわば日本社会において『善の記号』と化しているが、
彼の下ではたらいている聖路加の医師たちで、
手術がうまいために、たくさん手術をしたがっている医師たちは、
上で日野原先生が『むやみに手術しない治療』を推奨するものだから、
自分の腕前を見せる場がなくて
くすぶっているんだよ」
 
 
外科手術における手技は、
精神療法における技法に相当するものだろう。
 
塞翁先生は、「技法を駆使したい」タイプであるから、
「たくさん手術をしがたる医師たち」に対応する。
 
その意味では
日野原先生の下にいるために、
手技を発揮する場をあたえられない
「脂の乗った医者」にシンパシーを感じている部分があったことだろう。
 
しかし、いっぽうで塞翁先生は、
日野原先生に自分を重ね合わせているところも多いはずである。
 
児童虐待」といった概念を社会に定着させた点などは、
生活習慣病」という概念を社会に定着させた日野原先生に匹敵するものがある。
 
また、自分の配下ではたらく者に対しては、
塞翁先生は絶対的なまでに管理したがるものである。
 
いいかえれば、
配下の者が、自分なりの能力を発揮しようとすると、
とことんつぶす。
とことん、自分の道具と化し、自分のやり方に染めようとする。
 
それは、まさに
「メスの切れる」中年医師たちに
メスをつかわせないようにした像に、
塞翁先生が自分自身を重ね合わせる部分であるだろう。
 
 
じっさい、
日野原先生の配下ではたらく「メスの切れる」医師たちが、
どのくらい、
日野原先生が上にいるために術技を磨けなかったのか、
そこは定かではない。
 
私の処方医であった奈良川先生は、
外科のご出身であるので、
外科医の世界にもいろいろ通じておられるのだが、
「そんなことはないと思う」
と言っておられた。
 
かたや、私と同じ進学校を出て、
東大医学部から聖路加の外科医になった、
いかにも「メスの切れそうな」男が、
さっさと聖路加を去っているのを
インターネットで知ったりすると、
はたして理由は何だったのか、詳しく知りたくなる。
 
 
 
 
 
 
いずれにせよ、日野原先生と塞翁先生の大きなちがいは、
患者と自分との対置の仕方であるような気がする。
 
たとえば、食育などということを言っておられた日野原先生は、
自らの提唱する食餌は、自分でも食べ、
その意味で、自分は患者と同じとみなしていた。
 
つまり、日野原先生は、患者という他者を治療し、
自分という患者をも治療しておられたのである。
 
それが、治療者としての日野原先生の在り方であった。
 
いっぽう塞翁先生は、
目の前の患者にはつぎつぎとあやしげな病名を与え
高踏的に論じていくが、
そういうことをしている自分という主体は、
論じられる対象とならないのである。
 
ちょっと自分が論じられると、すぐ
「誹謗中傷」
だのなんだの騒ぎ出すということは、
けっきょく自分だけは論じられる対象から免れている、
と考えている、
いっしゅの選民思想のようなものだともいえる。
 
つまり、塞翁先生は
自分という患者は治療しないで、
他者である患者のみを変えようとする。
 
ここにに大きなちがいがあるものの、
塞翁先生が日野原先生を意識している部分はたいへん大きい。
 
おそらく、日本にたくさんいるであろう
いわゆる「クリエイティブな医師」たちの皆が、
日野原先生をひとつの先達のモデルとして仰いでいたことだろう。
 
それだけに大きな巨星であった。
 
 
 
 
・・・「治療者と患者(159) 」へつづく
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