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スパゲッティの惨劇(36)模範生で学級委員などやっていた私

スパゲッティの惨劇(35)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
前回「スパゲッティの惨劇(35)」において、
私が高校時代、生徒会長などという野暮なことをやっていた
という話をさせていただいた。
 
これは恥の記憶である。
 
しかし、考えてみると、
そのような習癖は、
もっと醜悪なことに、
小学校時代の学級委員へさかのぼるのであった。
 
母親の教育圧力のもとで虐待成育された私は、
小学校4年生まで模範生などと
教員やPTAのあいだで呼ばれている存在であった。
 
当たり前である。
主体を剥奪されて、
生身の人間として生きていないから、
何も悪いことはしない。
 
自分を生きていないロボットだから、
何も悪いことはしない。
 
その結果が「模範生」であったのだ。
 
小学校の「模範生」が、
中年以降、精神科通い、無職、生活保護といった
「底辺」「下流」を絵に描いたような人生になることを
いまの小学校教育で
ぜひとも子どもたちに教えてやってほしい。
 
学校の先生方の研修会にでもお招きいただければ、
いくらでも私は、
「優等生」「模範生」だった私と、
「社会のクズ」である現在の私の整合性について
タダで講演して差し上げるだろう。
 
生活保護なので、へたに講演料をもらってしまうと、
そのお金は福祉事務所に差し出さなくてはならないので、
タダでいいのである。
 
もっとも、こういう「ほんとうのこと」を語る人間は、
教員集会などに招いてくれないだろうけれど。
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、「模範生」であった私が、
クラスメイトの長である
「学級委員」であることに何の不思議もなかった。
 
ボクは、学級委員になって、
自分より成績のわるい子たちを啓蒙してあげるのだ。
 
ボクは、あの子たちを
「良かれと思って」支配してあげるのだ。
 
そんな態度とともに、
ある種の慈愛的なまなざしを持って、
私は自分の学級を「治めていた」。
 
ひそかに強迫神経症に苦しんでいた
小学校低学年の私は、
このような選民思想をもって
周囲の子どもたちを見まわし、
学校では学級委員をつとめていたわけである。
 
そして、その選民思想は、
まぎれもなく母から受け継いだものであった。
 
それが母から施された「帝王学」でもあったのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
私たちは、父が勤める中小企業の社宅に住んでいた。
 
社宅とは、団地や官舎と同じく、
まるで郊外に浮かんだ島のようなものだ。
 
その外の地域社会と交流がないわけではないが、
だいたいその敷地の中だけで
日常の交流が成り立っている。
 
もともと父が高卒であるから、
父の同僚である、近所の社宅のおじさんたちは、
みな高卒の人だった。
 
そういう男たちの妻たちも、
やはり高卒や中卒が多かった。
 
ということは、私たち家族が住んでいた
「社宅」という島の住民の人口構成は、
みな高卒以下で成り立っていた。
 
そこへ母は、ただ一人の、
当時にして四年制の女子大を卒業したインテリとして
鶴のように降り立った。
 
以前にも書いたように、
母は、八ッ橋大学へ通っていた男子学生へのあてつけで
高卒の父と結婚した(*1)ようなので、
さぞかし、
 
「なんで私がこんな学歴の低い連中と
 いっしょに暮してなくちゃいけないのよ!」
 
という憤懣をかかえていたのだと思う。
 
 
母が、塾を始めたのも、
そうした知的欲求不満であった。
 
「自分は周りとは違う」
 
という自己証明でもあり、
 
「こんな、優秀な私を認めて」
 
という存在承認欲求でもあった。
 
これらのことは、
私が勝手な想像で言っているのではなく、
当時の母が放っていた言葉の数々を思い起こすとき、
なかば実証的に確信できることなのである。
 
 
母の
 
「自分は、周囲のこの連中とはちがう」
 
という選民思想が、
子どもである私に受け継がれていくことは、
ごく自然であった。
 
母が、そのような選民思想を言葉で私に語ったかもしれない。
 
しかし、たとえ言葉で語らなくても、
母がもつ社会観というものは、
その呼吸のはしばし、一挙手一投足から、
言語外言語で、しぜんに子どもへ伝承されていくのである。
 
それが文化というものだろう。
 
日本人の子どもは、
アメリカ人のような派手な身振りもなく、
日本人のように言動するようになる、
というのと同じである。
 
そして、我が家に生まれた、この選民思想的な文化は、
淵源をたどっていくと、
やはり母の「あてつけ」「腹いせ」としての結婚(*2)から発生しているのである。
 
 
 
 
 
 
このようにして、
私が生徒会長をやっていた精神というものは、
古くは私の学級委員をやっていた選民思想にさかのぼり、
さらにそれは
母の「あてつけ結婚」に淵源をたどることができる。
 
だが、そこでもう一つ考えなくてはならないのは、
私の原家族が、しょせんは転勤族根無し草の一家であった、
という事実である。
 
母の塾経営は、少なく見積もっても
父が会社からもらう給料の3倍の収入を
我が家にもたらしていた。
 
しかし、私が大学は通うために19歳で実家を離れるまでは、
結局は父の任地の都合を優先して、
我が家は居住地を決めていた。
 
いくら東京郊外で母の塾が流行っても、
父が名古屋へ転勤になれば、
たちまち母は成功している塾をたたんで、
一家そろって名古屋へ引っ越し、
母は、また一から塾を始めていた。
 
この選択は、私たちがどこの地でも
その地に根差した威が張れない、
ということにつながっている。
 
たとえば、ヨーロッパにおけるユダヤ人に、
医者や弁護士が多いのは、
居住する先の国において地主になれなかったからである、
とされている。
 
言い換えれば、
「地主」というかたちで威が張れないので、
しかたなく根無し草でも育成できる知性を磨き、
「医者」や「弁護士」などの知的職能に
能力を発揮するように自らを形成していった、
というわけである。
 
私も、海外ひきこもり時代に、
何人ものユダヤ人の友人がいたが、
彼らの生活を見ると、実際そうなのだろう、
と思う。
 
規模はちがうが、それに似たことが
我が家にもあったように思われる。
 
たとえば、私が通った高校などを見てみると、
いま、卒業後30年以上経って、
同窓会の会長や理事をつとめている同窓生は、
私たちが現役の高校生だったころには、
まったく目立たない少年だった。
 
生徒会役員になることなど、さらさらなかった。
 
しかし、そういう同窓生は、
父も、祖父も、代々その学校の出身であったり、
名古屋という経済圏に根を深くおろした商売を営んでいたり、
とにかく「土地に根差している」のである。
 
生徒会長だった私は、
吹けば飛ぶような将棋の駒のような存在で
今ではすっかり忘れられているだろうが、
同窓会長をやっている彼などは、
何十年にもわたって、私たちの代に「威を張る」ことができる。
 
外来者ユダヤ人でなく、ネイティブな民族の強みである。
 
ああいう彼らは、きっと高校生のころは、
父親などから言われていたのにちがいない。
 
「いいか、生徒会なんかに立候補するんじゃないぞ。
 あんなものになったって、
 なんの得もないし、
 大人になれば、なんにもならないんだ。
 
 今はおとなしくして、
 私の齢くらいになったら、
 同窓会の役員になったりすればいい。
 そのほうが名誉も役得もある。」
 
私には、そのように実の詰まった教えを垂れてくれる
父親がいなかったのだ。
 
だから私は、やがて父探しの旅に出ることになる。
 
 
 
・・・「スパゲッティの惨劇(37)」へつづく

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