VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

スパゲッティの惨劇(42)ひきこもり歴、断続的に三十余年<前篇>

スパゲッティの惨劇(41)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
今年は、私が属している精神患者団体、NPO法人ザストが、
その機関誌『ザスト通信』において
私が書く原稿はすべて不掲載(ボツ)にしてきたが、
それと対照的に、
『ひきこもり新聞』が掲載してくれ、
原稿料まで払ってくれた。
 
私の書く言葉の価値がわからない
阿坐部村、ザスト上層部の輩には、
ただただ呆れるほかはない。
 
それでは、『ザスト通信』においては、
私の原稿を不掲載にしたぶん、
もっと価値のある言葉が掲載されているかというと、
とてもそうは思えないのである。
 
そこで、本ブログのここ何回かのシリーズで、
私が今年『ひきこもり新聞 紙版』に掲載した
当事者手記を再掲させていただくことにする。
 
初掲時から時間が経っているため
不自然になった箇所などは、
適宜、手を加えさせていただいた。
 

 
ひきこもり新聞 紙版 2017年3月号所収
 
特集「中高年のひきこもり
 
当事者手記「ひきこもり歴、断続的に三十余年
 
~家族と精神医療に打ちのめされて~
 
2017年1月執筆
 
ひきこもりは「若者の問題」ではない
 
両親が苦労して建てた大きな家の二階の、いちばん奥の自部屋に立てこもって、アニメやゲームばかりやっている怠け者の息子。…それが世間にはびこっているプロトタイプな「ひきこもり」像ではないだろうか。
 
昨年9月の内閣府によるひきこもりの実態調査で、四〇歳以上が対象から外されたことは、社会のそんな偏見を上塗りするのに十分であった。WEB版の本紙に『ひきこもり放浪記』という連載を書き始めた私の動機には、「ひきこもり」というと「若者の問題」と考える人があまりに多いことに抱いた危機感がある。
 
 
ひきこもってわかったこと
 
私は現在五十四歳、独り暮らしのひきこもり当事者である。幼時からマンガを読んだりアニメを観たりする習慣はなく、部屋にはゲームは一つもない。
 
二十三歳で大学卒業を控えて最初のひきこもりを発症したときには、すでに私は実家を出て生活は自立していた。以後、さまざまな形で断続的にひきこもってきたが、人生の曲がり角となったのは三十三歳、一九九五年から四年間のひきこもりである。世の中の光や刺激に耐えられなくなり、窓という窓に雨戸を閉てて、洞窟のような暗い部屋にひきこもってしまった。
 
しかし、ひきこもりは時に豊かな思索をもたらす。私はその期間にフロイトを読み漁り、幼少期から自分が苦しんできた強迫性障害うつ病などの精神疾患の原因が、家族の構造と母親からの虐待にあることを悟った。
 
 
家族の構造を解き明かそうとするが…
 
私の家族では、父ではなく母が圧倒的な権力者である。工業高校を出ただけの父は、四年制女子大を出た母に頭が上がらなかった。この母が、長男である私を虐待した背景には、きっと夫への物足りなさがあったのだろう。虐待から生じた精神疾患を力動的に治そうと思ったら、このように家族の構造を解き明かすことが不可欠であった。
 
一九九九年、私は家族会議を開いてもらい、四年間のひきこもりで得た自らの気づきを語り、私が精神疾患から回復し本格的に社会へ出ていくためには家族の協力が必要なことを述べ、いっしょに精神医療につながってくれるように頼んだ。
 
しかし、これは我が家に封印されていたパンドラの箱を開けることであった。虐待をした過去が恥だと思ったのか、母は私の指摘すべてを「そんなこと、あるわけがない」と否認し、下僕である父や弟に命じて、私を家族から放逐させた。音信も絶たれた。家族として治療に協力するどころか、私は一族の恥として彼らの世界の外へ蹴り出されたのであった。「治って、働く」という私の計画は頓挫した。
 
やがて一人で精神医療につながった私は、たいした治癒も見られぬまま貯蓄も遣い果たし、このままホームレスとなって野垂れ死ぬのを覚悟した。当時、東京には浅草界隈、上野公園、日比谷公園、新宿西口と四つぐらいホームレスの集団生活地域があったが、自分がホームレスとなる場所は日比谷公園と思い定めた。そこには日比谷図書館があり、たとえケータイの一つも持てなくても、情報源が確保できると思ったのである。しかし、精神科のケースワーカーの勧めにより、東京西郊の昭和40年代に建てられた1Kのボロアパートへ入り、生活保護を申請して生き長らえることになった。
 
 
 
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