VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

スパゲッティの惨劇(51)根無し草と漂流 ~ 転勤族と孤独死

スパゲッティの惨劇(50)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
私が、かれこれ5年前に、
このぼそっとプロジェクトなどということを始めたのは、
一つには、私のかかった精神医療が、
治療者の自己満足と自己実現に終始して、
少しも私という患者に対して
治療的なことをやってくれないために、
治療の場を医療の外で獲得する必要があるためであった。
 
では、ぼそっとプロジェクトのどの部分が、
私に治療的に作用するかというと、
何もたいしたことではなく、
当事者として、他の当事者と
ありのままの言葉を交流させる、ということである。
 
治療者によって歪曲されない、ありのままの言葉を。
 
他の当事者の方は、ときに私以上に、
(もちろん、私の治療者、塞翁先生などよりもはるかに)
私のことを知っている。
私のことを言葉にしているのである。
 
それは、日本人だろうが外国人だろうが関係はない。
 
また、当事者同士の言葉の交流によって、
私自身のなかから、
私が知らなかった言葉が引き出されてくる、
ということもある。
 
他の当事者と対話することによって、
まだ言葉にされていなかった何かが
私の深部で溶かされ、言葉にされて、流れ出てくるのである。
 
これもまた、対話の相手が、
日本人だろうが外国人だろうが関係がない。
 
フランスの女性ひきこもり、テルリエンヌと対談したときに、
私から出てきた以下のような言葉は、
まさしくそのような例であった。
 
ぼそっと池井多: 幼少期に私は何回も引っ越しをしました。
それから、母が虐待的で過干渉でした。

私の母は、いっしゅのエリート意識を持っている人で、
ひとの悪口しか言いませんでした。
近所に住んでいる人や、
そこの家の子どもたちをみんな、
いつも馬鹿にしていました。

だから、私も近所の子どもたちと遊ぶ機会が
減っていったのだと思います。

このことは、私がどこへ引っ越しても、
結局そこに精神的な根を生やせなかったことと関係しています。
今に到るまで、私には「ふるさと」がないのです。
そのため私は、いつも旅をしているようです。
私の人生そのものが放浪です。(*1)
 
こういう言い方をすると、
奇異に聞く方もいるかもしれないが、
私は、自分の言葉を聞いて、
なにやら腑に落ちたのである。
 
謎が解けたような気がした。
 
なぜ、私が自分のひきこもり人生を
一大連載にしようと考えたときに、
それが「ひきこもり放浪記」などという
奇妙なタイトルになったのか。
 
なぜ、私が二十代に、
「外へ外へとひきこもる」
というはめになり、
ずるずると海外を放浪しつづけることで
「日本社会に生きる」を回避していたか。
 
それらの答えが、ここに語られている気がする。
 
また、私自身が、
精神的な根無し草になった理由の一つが、
幼少期に引っ越しが多く「ふるさと」がなかった、
という点に求められるのは、
フランスの男性ひきこもり
ギードと言葉を交わらせたからである。(*2)
 
 
彼も引っ越しが多かったために、
「ふるさと」が発生しなかった。
 
 
 
 
 
 
ギードの場合は、
彼の母親が暴力夫と結婚してしまったために、
そこから逃れるために引っ越しをつづけたわけだが、
私のような「転勤族の子ども」は、
結果的に同じように
引っ越しにつぐ引っ越しの幼少期となることが多いのではないか。
 
そして、転勤族の父というのは、
やはり核家族というものが家族の形態の主流になってきた
昭和の高度成長期に増えたであろうと思われるのである。
 
となれば、
私のように「ふるさと」のない根無し草は、
いっしゅの時代的な産物ともいえるのではないか。
 
根無し草の孤独者の究極的な問題は、
私のいうKHJ問題(*3)、
すなわち孤立死の問題である。
 
*3. KHJ問題
(K)腐って (H)発見される (J)自分という問題。
ひきこもりに関する某全国組織と
同じ略号なのはご愛嬌である。
 
 
その点に関して作家、五木寛之はいう。
 
「根無し草のように、孤独であれ」
孤独死は悪いことじゃない」(*4)
 
 
HuffPost 2018.03.07
 
 
そうなのだ。
自分の死体が腐って発見されようと、
なぜ、それが恥になるのか、
を考えてみる必要がある。
 
人は、死ねば皆、たんぱく質のかたまりではないか。
なぜ、それを責められる必要があろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
ただ、五木寛之がとらえているデラシネ(根無し草)とは、
フランス象徴派の詩などによく出てくる表現で、
ひと昔まえの誇り高きジプシーのように、
 
「体制の保護をあてにできない漂流者」
 
を指している。
 
私のように生活保護を受けている者は、
「体制の保護」
を受けている以上、
彼のいう根無し草には入れてもらえないかもしれない。
 
けれども、なんの体制の保護も受けていないデラシネは、
時代的にめずらしくなっている、ということも
また確かではないだろうか。
 
ジプシーといった語も、いまでは差別語扱いされ、
彼らはロマ人として
それぞれ居住国の国民としてパスポートも持っている。
 
また、日本でもホームレスにも戸籍はある。
 
あるいは、
「反体制」を旨とし、
「国家」と戦っていた、
団塊の世代の知識人は、
国立大学から給料をもらっていたものである。
 
「体制の保護を受けていない」
 
ということが自己尊厳の根拠となる時代は、
とうに終わっているように私は思うのである。
 
そんな現実離れした条件ではなく、
もっと今という時代の現実に即して、
「根無し草」「孤独」「漂流者」
というものを考えてみる必要を感じている。
 
 
 
・・・「スパゲッティの惨劇(52)」へつづく
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    本文とは無関係かも知れませんが、「体制の保護を受けていない漂流民」でロヒンギャを思い出しました。

    又ロマ人はジプシーと呼ばれなくなっただけで彼らへの差別感は依然と変わらないのでは?
    古代ローマに因むルーマニアが今ロマ人の国として差別されてるとYさんに聞いたことがありますが、彼はロマ人及びムスリムへの差別意識が根強く残っています。 削除

    迷えるオッサン

     

    2018/3/9(金) 午後 4:54

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    迷えるオッサンさま コメントをありがとうございます。

    よく「言葉狩り」を好む知識人というのがいて、
    自分が何かの言い方を変えただけで、
    それこそ歴史に名を残すほどの仕事をしたかのように自己陶酔し、
    差別の対象の言い方を片っ端から変えていきますが、
    たいてい言い方を変えても、
    差別意識はなくならないばかりか、
    もっと隠微に地下へ入りこんで、
    ますます始末が悪くなっていきますね。

    ロヒンギャやシリア難民など、
    「パスポートを持たない」漂流者を、
    今後どうしていくかというのは問題だと思います。

    しかし、それはかつてのジプシーのように、
    「体制に保護されないことを自己尊厳の根拠とする、誇り高き漂流者」
    とはまた別の問題だと思われます。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/3/9(金) 午後 5:31

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