VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

無差別殺人犯を読む(27)東海道新幹線3人無差別殺傷焼身自殺事件

無差別殺人犯を読む(26)ー2 」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
凄惨な事件が、新幹線という密室の中で起き、
無実の方々が犠牲になり、被害に遭われた。
 
亡くなられた方は、
人望の篤い自己犠牲的な方だったという。
深く哀悼の意を表したい。
 
このような無差別殺傷事件が起こるたびに、
私は、私のいう「市民」の方々とともに
 
「いつ、自分が被害者となるかわからない」
 
という恐れを持つのと同時に、
 
「いつ、自分が加害者になっていたかわからない」
 
という恐れをもまた、持つのである。
 
今回の事件を起こした小島一朗容疑者に、
私は同情共感もしないが、
図らずも遠い記憶の一部が共振していることは
認めなければならない。
 
私も彼のような心になっていた時期が、
人生のなかで幾度かあった。
 
私の場合、
さいわい人を殺(あや)めるまでには行かずに済んだが、
多くの無関係な他者にいろいろなご迷惑をかけた。
 
小島容疑者はようするに死にたいのだ、と私は思う。
 
しかし、
 
「どうせ死ぬなら、やりたいことをやっておきたい」
 
という心残りや、
 
「自分だけ死ぬなんて、そんなの許せない」
 
といった怒りがごちゃまぜになって、
まったく噛み合わないブロックのように重なったまま、
今回の凶行へすべりだしたのではないか。
 
彼は、もしかしたら
秋葉原無差別殺傷事件から十年という区切りを
どこかで意識していたのかもしれない、とも思う。
 
2008年6月8日、秋葉原で起こった
あの異常な事件からちょうど十年プラス一日を数える夜であった。
 
一日ぐらい、何かの都合でずれるのがふつうである。
 
秋葉原事件が起こされたとき、
小島容疑者は12歳だった計算になる。
 
閉塞的な家庭空間の中で虐待されていた私は、
10歳のときにテルアビブ乱射事件をテレビで見て、
何か出口を見たようにも錯覚したのだ。
 
今回の事件は秋葉原事件と類似点がある。
 
それは、いうなれば、
 
 
という点であろう。

f:id:Vosot:20190715225147p:plain

*1.ytv 情報ライブ ミヤネ屋 
2018年6月11日放送による
 
暴力がいけないことだ、というのはわかっている。
しかし私は、自分自身の正義の方を優先したい。

それこそが私の幸福であり、
自分自身であるということである。
 
 
小島容疑者はそう書いていた、という。
 
般若心経、聖書、ドストエフスキーなど
多くの古典を読み漁っていた形跡もあるらしい。
 
それをもって、
小島容疑者はとても聡明で論理的な性格だった、
という見解もあるようだが、
はたしてどうだろうか。
 
「暴力がいけないことはわかっている。
しかし自分の場合は許されている。
なぜならば、これは正義の暴力だから」
 
という論理は、
じつは昔から使い古されている、
暴力を正当化する常套手段なのである。
 
約半世紀前、学生運動の時代は、
自分を抑圧する「悪い暴力」を「暴力」、
自分が行使する「良い暴力」を「ゲバルト」
と呼んで区別した。
 
なんのことはない、
ゲバルト(Gewalt)はドイツ語で「暴力」であり、
なんでも欧米語でいえば正当化されたように感じてしまうという
日本人の情けないくせを利用しただけである。
 
ほんとうは、小島容疑者も
「正義」ではなく「欲望」であり、
 
暴力がわるいことはわかっている。
しかし私は、自分自身の欲望は優先したい
 
ということではなかったのか。
 
だが、欲望を正面から認めて自己の充足を図ると、
エゴむき出しであることがあらわになってしまうので、
そこをなんとか語彙の言い換えや、
派生した論理でごまかしたい、と人は思う。
 
そこで、学生運動世代は、
「ゲバルト」などという新語を生みながら、
長大な革命理論を作り出していったのだと思う。
 
いうなれば、欲望を欲望のまま見せないための
隠れ蓑としての論理であり理論である。
 
社会変革や革命ということを表に掲げていても、
根底には「親子問題」がある若者が中心となり、
長大な理論を口にしながら、
「社会」という名の、
漠然とした「親」に刃向かっていったのだろう。
 
しかし、そのような欺瞞は、
すぐ下の世代によって、たちまち見抜かれることとなった。
 
私個人は、その「すぐ下の世代」に属しながらも、
父性のない父の代わりを見つけるため
上の世代にこびへつらう情けない青年になっていたため、
なかなかその欺瞞が見抜けず、右往左往していたが、
賢い同世代人はスイスイと見抜いていった。
 
私たちの世代は、
暴力の隠れ蓑としての論理や思想を発明しなかったため、
シラケ世代などと呼ばれ、政治運動は沈滞した。
 
ところが、そんな私たちが30代を迎えたころ、
私たちの世代の弱点をうまく突くものがあらわれた。
宗教である。
 
オウム真理教のなかで中心的なメンバーであった
上祐も、青山も、みんな私と同じ齢であった。
 
暴力がわるいことはわかっている。
しかし私は自分の欲望を優先したい。
それは他者に自分の価値観をおしつける布教である。
 
というのが彼らの本音であったことだろう。
 
こうして彼らにおいては
人間的エネルギー、つまりエロスの矛先が
政治から宗教に変わっていった。
 
正当化された暴力の理論が「ポア」であった。
 
そして、これは世界史的な普遍であろうか、
宗教は組織化されると
また政治にもどってくる。
 
オウム真理教のなかで省庁制度などつくり、
霞が関ごっこ」をやっていた。
 
やがて地下鉄サリン事件という形で彼らのエロスは破裂し、
もはや宗教さえも暴力を正当化できないことを
彼らのみならず、私たちは骨身にしみて知った。
 
すると、そのあとに出てくる
エロスや欲望の実現といったものは、
私のいう「大義なきテロ」、
政治信条も宗教的動機も何もない、
はじめから理論武装することをあきらめているような、
 
「誰でもよかった」
 
などという、身も蓋もない、
無差別暴力として多発するようになっていったのである。
 
もはや、すべてのイデオロギーは欺瞞であることが
ほとんど身体的なレベルで
わかってしまっている世代であるものだから、
いまさらすがりつくイデオロギーを持たない。
 
それが、ある意味、日本社会で頂点に達したのが
2008年の秋葉原事件であったように、
私は見ている。
 
 
 
 
 
 
 
小島容疑者の母親が発表したコメントの中に
「正義」
という語が一回、出てくる。
 
今回このようなことになり、どちらかといえば正義感があり優しかった一朗が極悪非道な、一生かけても償えない罪を犯したことに未だに困惑しています。(*2)
 
「正義感のあった子がなぜ
正義の真逆のようなことをやったのでしょう」
 
という意味で、
この母親は書いているつもりなのだろうが、
その「正義感」が煮詰まって
彼を無差別殺傷事件に駆り立てたことは、
いったいどこまで理解しているだろうか。
 
そして、こういう事件を起こしてしまった結果からいえば、
彼にとって「正義」とは、
 
「自分のいうことを聞いてくれること」
 
にすぎなかったことになる。
 
おそらく彼自身も、
彼が殺傷した他者たちが、
なぜ彼の「正義」の犠牲にならなければならないか、
説明できないのにちがいない。
 
そして、説明できないことは、
責任能力がない」こととはちがう。
 
彼はちゃんと罰せられるべきだと私は思うし、
彼もおそらくそれはわかっている。
 
しかし、一方では私はこうも考える。
 
すでにかなり煮詰まってしまった彼の「正義」なるものを
はじめから辛抱強く聞いてあげるのは、
やはりそれなりの治療者でなければ
むずかしかったかもしれない。
 
私たちのひきこもり界隈にも、
暴力的に自論をふりかざして
その場を構成している他の参加者を攻撃してまわる当事者が
ときどき現われる。
 
おそらく永年、否定されて生きてきたために、
自己愛が肥大して収拾がつかなくなっているのだろうが、
そういう者にかぎって精神医学を受け容れない。
 
なぜならば、受け容れたら
本人の世界観が崩壊してしまうからである。
いわばフロイトのいう「防衛機制」が働いて、
精神医学的な思考法を受け容れないのである。
 
しかたがないので、場全体がそのまま
その者にとっての治療機関のようになっていく。
すると、他の参加者のメンタルヘルスが犠牲になる。
 
相模原事件以降、精神障害者は病院に閉じこめず、
地域でみんなで面倒を見ていく、
という考え方が主流になってきているし、
精神障害者手帳を持つ一人として、
私もその方がよいと思う。
 
しかし、そうした思想の現実や現場は、
けっして夢のようなユートピア論で済ませられるほど
甘いものではない。
 
誰かに負担が集中すれば、
今度はその人が精神を病む。
 
 
 
 
 
 
 
今日あたりはまだ、どのチャンネルも
新幹線無差別殺傷事件に関して、
 
「事件の再発を防ぐためには、どうしたらよいでしょうか。
 専門家に聞いてみました」
 
とかなんとか、やっている。
 
無差別殺傷事件が起こるたびに、いつもこうなる。
 
もちろん、視聴者は、
 
「いつ、自分が被害者となるかわからない」
 
と思っている「市民」がほとんどだから、
そういう不安を払拭することが
この手の番組に期待されるために、
どうしてもそういう番組内容になるのだろう。
 
しかし、
 
「こうすれば、二度とこういう事件は起こりません」
 
などという答えは、はたしてあるのだろうか。
 
すべての親子関係をただちに正すこともできない。
 
すべての新幹線の乗客に、
飛行機のように荷物検査をするわけにもいかない。
 
小島容疑者のような傾向をもつすべての者を
日常的な監視下に置くわけにもいかない。
 
……昔ながらの村落共同体が崩壊していき、
人的交流が盛んになり、
何百キロも離れた土地へ毎日通う人が多くなってきた現代、
無差別殺傷事件を起こす者が、
あなたの席の隣にすわる可能性は、
日常的に存するのである。
 
私たちは、そういう社会空間を生きていくことになっている。
 
それがいやならば、
ひきこもりになるしかない。
 
 
 
・・・「無差別殺人犯を読む(28)」へつづく
 
  •         

    顔アイコン

    仰る通りですね。
    秋葉原の事件も、相模原の殺傷事件も、そして今回の事件も、思い込めば彼等にとり「正義」を行っていただけの事だろう。僕には「社会的規範の中の正義」で十分である。平々凡々のなかに身を置き、残りの短い時間をぼんやりと過ごすことが最上である。この世の中に子供達を送り出した時点で僕と家内の役目は果たしたと思い込む様にしている。 削除

    goodじいさん ]

     

    2018/6/12(火) 午前 8:37

     返信する
  •         

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    なるほど、「社会的規範の中の正義」と考えると、日々の平凡な暮らしも意味あるものになりますね。「この世の中に子供達を送り出し」ていない私も、理解できます。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/6/12(火) 午前 9:21

     返信する
  •         

    顔アイコン

    最後の「それがいやならば、ヒキコモリになるしかない」は怖い言葉ですね。
    ヒキコモリはアトス山のように一生籠って居る人はむしろ例外で、自由に外出できるのではありませんか? 削除

    迷えるオッサン

     

    2018/6/12(火) 午前 10:00

     返信する
  •         

    迷えるオッサンさま コメントをどうもありがとうございます。

    おっしゃるとおりです。
    まったく部屋から出られないひきこもりもおりますが(1980年代、90年代に私もそのくらいまで極大化したことがあります)、多くのひきこもりはほどほどに外出できます。アトス山とはちがいます。

    だから、「部屋の中にひきこもっている、ひきこもり」という画像を撮ることに、私はもはやあまり意義を見いだせないのです。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/6/12(火) 午前 10:17

     返信する
  •         

    顔アイコン

    はじめておじゃましたものです。
    この事件についてはよく知らないのですが、中世ヨーロッパの歴史を述べた本で、怖い話を読んだことがあります。右側通行と左側通行の起源についてでして。

    道を歩いていて、向こうから誰かが歩いてきて、その誰かが武器を抜いて襲いかかってきたとする。そして自分も武器を抜いて応戦したとする。この場合、道のどちら側にいた方がいい(戦いやすい)か?

    そういうわけでどちらを歩くかが決まっていったそうです。21世紀の今も、本質は変わらないのでしょうね。 削除

    ike*t*nogor*u ]

     

    2018/6/12(火) 午後 0:45

     返信する
  •         

    ike*t*nogor*uさま はじめまして。コメントをどうもありがとうございます。

    その場合は、騎士と騎士が道を歩いてきて遭遇した、といったケースではないでしょうか。

    日本でも、武士が刀を左の腰に差していたのは、道の左側通行をしている武士と武士が道ですれちがったときに、刀の鞘(さや)が接触して、決闘が生じないようにしたため、と聞いたことがあります。

    しかし、今回のような無差別殺傷事件では、実行犯の両隣にすわっていて斬りつけられた二人の女性は、まったく決闘が生じる可能性のない存在だったはずです。なので、おっしゃっている件とはいささか違うように思いますが、いかがでしょう。削除

    チームぼそっと

     

    2018/6/12(火) 午後 1:01

     返信する
  •         

    顔アイコン

    亀はこういう事件が起きる度に 自分の中にある思いを確認します
    自分は人を殺せるかと
    自分は人を殺せるというのが答えです
    自分は人を殺すかの問いには殺さないというのが答えです

    人はある契機があれば自他を殺す存在だと思っています
    今の自分には自他を抹殺する契機がみあたらないだけで

    なので理解するのはとても難しいです
    彼もおばあちゃんの家を出たときには自殺は考えていたのかもしれないけど
    無差別殺傷までは及んでいなかったように思います

    なんにせよ なんか切ないです 削除

    ちゃらんぽらん亀 ]

     

    2018/6/12(火) 午後 4:33

     返信する
  •         

    顔アイコン

    承認してくださったのはありがたいのですが、中世の欧州はたいへんに凶暴な世界だったようなのです。騎士(武人)でなくとも、油断できなかった。

    鈴木眞哉というひとの本で読んだのですが、日本でも、近世まで、庶民が短い刃物を携帯するのはふつうのことだったようです。卑俗な小戦闘は、ついこの間まで日常茶飯事だったのでしょう。拳銃を手放したがらないアメリカ人を笑えませんよ。

    中世ヨーロッパの庶民は常識として手ほどきを受けていたことでしょう。
    「建物で他人と並んで座っているとき、その他人が斬りかかってきたらこう闘え」
    お父さんかお兄さんかお姉さんかわかりませんが、そういう基礎を教えてくれる人がきっといたでしょう。 削除

    ike*t*nogor*u ]

     

    2018/6/12(火) 午後 6:49

     返信する
  •         

    ちゃらんぽらん亀さま コメントをどうもありがとうございます。

    1990年代に、筑紫哲也ニュース23という報道番組に出演していた高校生の口から
    「なぜ人を殺してはいけないのか」
    という無垢な質問が出て、一時期おおいに話題になりました。

    あのときの私が自分に持っていた答えは、
    「自分が殺されたくないから」
    というものでした。

    今回も小島容疑者も、
    大阪池田小の宅間守も、
    秋葉原の加藤智大も、
    「自分が殺されたい」
    人々であるために、
    私の用意した答えは、
    彼らの殺人を止める理由にはなりません。

    そこが問題の焦点ではないかと思っております。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/6/12(火) 午後 7:47

     返信する
  •         

    ike*t*nogor*uさま コメントをどうもありがとうございます。

    たとえお持ちの歴史的知識が確かなものであっても、
    新幹線の中は
    中世ヨーロッパではありません。

    いったい誰が
    いきなり斬りつけられる覚悟をもって、
    新幹線に乗りましょうか。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/6/12(火) 午後 7:50

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