VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

スパゲッティの惨劇(57)報酬なき世界

スパゲッティの惨劇(56)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
私が7月7日のOSD一周年記念講演で、
 
報酬なき世界
 
というべき成育環境が、
私というひきこもりを生成していった一つの要因である、
と語ったくだりを掲載させていただいた。
 
OSD一周年記念講演の採録は、まだまだ続きがあるが、
今回はそれを中休みして、
この「報酬なき世界」という概念を深めてみたい。
 

f:id:Vosot:20190708211940p:plain

 
もちろん、欲しいものを何でも買って与えられて、
いわゆる「甘やかされて」、
そのために外界という「怖い世界」に出ていけなくなって、
ひきこもりになっている者もいるかもしれない。
 
だから、私はなにもこの
「報酬なき世界」
という成育環境を、
ひきこもり生成要因として
やみくもに定式化するつもりはない。(*1)
 
*1.この問題については
本記事の後半にもう一度
発展的に考え直す。
 
私は、しょせん私のことしか語れないのである。
当事者は、他の当事者を代表できない。
 
だが、それを前提に語れば、
「報酬なき世界」
もしくは「報酬系の機能不全」という概念は、
私というひきこもりを生成した、
きわめて重要な要因の一つであったことを
いまや私は確信しているである。
 
 
 
 
 
 
私は何をやっても、
母に褒められることがなかった。
 
母はつねに私を「責める」存在として
私の前に立ちはだかっていた。
 
幼い私にとって、日々生きることは
母に責められることであった。
 
理由は何でもいい、とにかく責めるのである。
 
たとえば、「前へ出ろ」と責められた、とする。
翌日、私は前へ出る。
すると、その日は
「前へ出過ぎだ、なぜもっと後ろへ下がらない」
と母に責められるのである。
 
母の責め句には一貫性がなく、
そのため私は責任という概念について
育ちに歪みが生じることになる。
 
母が褒めないものだから、
父も、母を恐れて、私を褒めない。
 
母自身が褒めていないのに、父が褒めたとあっては、
こんどは父が母に、
 
「なんで、あんたは勝手に褒めているのよ」
 
と責められることになるからである。
 
このように家族の構成員はすべて
母に主体を奪取されていた。
 
だからこそ、阿坐部村のように
頂点に君臨する治療者によって
そこへ来る構成員の主体が奪取されている共同体は、
まさしく「虐待家族」を私に想起させるのである。
 
弟もまた、母に責められることが常態化し、
母に主体を奪取されていた存在であったが、
弟は8歳下だから、彼からすると私は
まるで「小さな父」のように大きな存在であり、
「褒める」対象ではない。
 
だから、弟も私を褒めない。
 
こうして私は育っていくなかで、
誰からも褒められることがなかったのである。
 
しかし、今から客観的に考えてみると、
私は学校の成績は優秀であったり、
褒められて然るべき点がたくさんあった。
しかし、褒められなかった。
 
いや、たとえ学校の成績がどうであっても、
本来はそんなことはあまり関係がない。
 
子どもというものは、
立てた「立った、立った」と褒められ、
歩けば「歩いた、歩いた」と褒められることで、
周囲から存在承認を吸収して大きくなり、
やがて自尊心と主体を備えた大人になるのだろうから、
学校の成績など悪くても、
子どもは褒められて然るべきなのだ。
 
こうした報酬系の機能不全が
私がひきこもりになった一つの原因ではないかと思っている。
 
のちに治療関係においても、そうであった。
 
主治医、塞翁先生は
自分が目をかけている患者のつまらない達成は
さかんに褒めるが、
私がその何倍も成果を上げてもけっして褒めることはなく、
逆に私の能力に嫉妬して
私を「敵」に仕立てることによって
患者村という共同体を運営していくのであった。
 
それでいて、
 
「お前みたいな、社会に認められない存在を
認めてあげられるのは、私だけではないか」
 
などということを平然と言い、
自分が私という患者にとって承認の供給源であるかのように
ふるまうのである。
 
まったくどの口が言っているのか、と驚くような言葉。
 
 
 
患者が持っていた原家族の虐待的な環境を、
そのまま治療空間で再現することは、
精神医療としては大きな誤りであり、
治療者としては失格である。
 
なのに、
リカモリング・アホバイザー制度などというものをつくり、
たくさんの「弟子」を量産しているのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
たとえば、奴隷という存在は、
自分が働いても
給料がもらえないことが当たり前だと思っている。
 
報酬がないことに慣れてしまっている。
だから、給料を要求しない。
 
しかし一方では、
働くことのバカバカしさも知っているので、
暇さえあれば怠けようとする。
 
働かない」ことが彼にとっての報酬なのである。
 
同じように、何もやっても認められなかった私は、
報酬がないことに慣れてしまったために、
私なりの報酬を生きているうちに獲得するために、
働かないひきこもりになっていった。
 
どんなに大金持ちになっても、
どんなに社会的な成功をおさめても、
それによって母親に認められることはない、
ということを体感的に習得してしまったからである。
 
それどころか、
もし私が社会的に成功したら、
それは母親の自己実現を叶えることになり、
私を虐待した母親に利得をもたらしてしまう結果となる。
 
いわば、私にとって社会的成功は、利敵行為であった。
 
また、社会によって認められた私を、
母は、社会など「外の世界」へ向けては吹聴し、
彼女自身の自慢の肥やしとするとともに、
彼女のうちでは密かに私の社会的成功に嫉妬し、
家族など「内の世界」ではよけいに私を責めるようになるだろう。
 
つまり、私が社会的に成功すれば、
私は認められないどころか、逆に
よけいに母に責められ、
私は自分で自分の首を絞めることになるのである。
 
そういう状況は、自覚的に認識できていたわけではないが、
私は、無意識にはわかっていたのだと思う。
 
だから私は、優良企業への就職の一歩手前で危険を感じ、
鬱になって倒れることで危険を回避し、
お金を稼がない、働かないひきこもりになっていったのである。
 
これを
下流志向」「不幸慣れ」
などと呼ぶ評者もいる。
 
しかし、下流へながれることこそが、
私のような成育環境に育った者にとっては
「幸せへの道」
だったのだ。
 
ところが、単純な思考しかしない評者は、
そのことを理解しない。
 
 
 
 
 
 
 
では、すべてのひきこもりが、
「報酬なき世界」
で育ってきたからひきこもりになったのであろうか。
 
言い換えれば、
「報酬なき世界」という概念は、
ひきこもりの生成を語るのに、
ある程度の一般性を持つものであろうか。
 
これは、大きな問題である。
 
すぐに思い浮かぶのが、
欲しいものは何でも買ってもらえて、
見かけ上は「報酬が与えられすぎて」
ひきこもりになった者である。
 
こういう者は、
過保護で、甘やかされて育ってきたために、
そのぬるま湯のような環境に慣れてしまい、
大人になったからといって、
外の社会という厳しい環境に出ていけなくなり、
それでひきこもりになっている、
と考えられている。
 
たしかに、表面だけを見れば、
こういう者は「報酬なき世界」のために
ひきこもりになったとは考えにくい。
 
しかし、報酬とは、
ギブ・アンド・テイクのバランスと循環から成り立つ。
そのため、報酬の受け渡しの両側にある者たちだけに
報酬系」という独特の閉じた世界がつくられる。
 
その閉じた世界の中では、
「過剰」に見えるものも、
じつは外から見れば「過少」だったりする。
 
じじつ、私は幼い頃、
しきりと「過保護」といわれていた。
 
過保護と呼ばれることで、
私は、なにやら自分が悪いことをしでかしているかのように
居心地が悪かった。
 
その保護は、けっして私が望んだ保護ではなかった。
 
私は、望んだ食べ物も学用品も、
すべて買って与えられている状態にある、ということを
それを買い与えている母親から
ずっと詰られ、責められつづけて育った。
 
「甘やかされてひきこもりになった」
つまり、
「報酬過剰のため、外界を恐れてひきこもりにあった」
とされているひきこもりも、
実際は本人にとってどうであったのか、
わかったものではない。
 
いくらモノを買ってふんだんに与えられても、
それが彼ないしは彼女の欲しいものであった
とは限らないからである。
 
その子は、もしかしたら
買ってもらえる物質的なモノではなく、
愛情、スキンシップ、賞讃、関心、存在承認など
他の「報酬」を欲していたのに、
それがさっぱり与えられないものだから、
その子なりの認識で「報酬なき世界」に住むようになり、
その結果、大きくなってひきこもりとして働かない人になった、という場合もおおいにありうる。
 
いや、そういう場合の方が多いのではないか。
 
過保護で甘やかされて、
臆病で怠惰のためひきこもりになったと見える者も、
「報酬なき世界」を「報酬系の機能不全」と考えれば、
じつは同じ要因からひきこもりになったと考えられるのである。
 
過剰であれ過少であれ、
「然るべき」報酬が与えられて、
次の行動へのモティベーションになるという循環が、
いわゆる報酬をとりまく人間関係、「報酬系」である。
 
それが機能しないことに慣れてしまった者が、
ひきこもりになる、
という一つの仮説は、
当初に考えたよりも幅広い汎用性を持っているのかもしれない。
 
 
 
  •     

    顔アイコン

    この、
    「じじつ、私は幼い頃、しきりと「過保護」といわれていた。…居心地が悪かった。」
    のご発言、もの凄くよくわかります。私もしきりに母から言われていました。「お前はおもちゃをたくさん買ってもらって恵まれている。」「一人っ子で甘やかされている」と。「アジア・アフリカの子をみなさい」とも。
    特に、私の隣には従兄が3人(すべて男)住んでおり、彼らがモノに対して少し厳しく育てられていました。隣の家は本当は裕福なのですが、子供の靴下に穴が開いても、それを繕って履くようなところがあります。それに比べて、私のうちでは靴下に穴が開くと捨ててしまいます。なので、私はいつも自分が甘やかされた人間にならないように緊張していました。
    また母からは「お前は父親のような人間にはなってはいけない」とよく言われていました。バカやって借金つくって大変な状況をつくったからでしょうが、幼い私にはこれも緊張をもらたす言葉でした。 削除

    aon*_*85 ]

      

    2018/7/29(日) 午前 0:45

     返信する
  •     

    aon*_*85  さま 3件のコメントをどうもありがとうございます。

    いまの日本の精神医学では、娘と母の関係というものはさかんにスポットライトが当てられ、治療の対象となってきましたが、男性の毒母からの被害というものは、ほとんど相手にされていない状況です。

    当事者としては、これはとんでもないことなので、私はこれからも声を上げていきたいと思っております。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/7/29(日) 午後 0:22

     返信する
  •     

     

    顔アイコン

    クリニックと別の新しい空間を作るより、まともな話し合いをしてくれる方が患者さん達はよほど助かると思うのですが… トラウマの上に新しくトラウマを植え付ける事(上塗り)が治療だとの考えを先生は暴走されているのでしょうか。一体どうなさったのでしょう? 削除

    [ ー ]

     

    2018/8/1(水) 午前 1:11

     返信する
  •     

    2018/8/1(水) 午前 1:11の方、コメントをどうもありがとうございます。

    けっきょく私も、塞翁先生はなぜおかしくなってしまったか、という謎を解明したいのだと思います。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/8/1(水) 午前 11:34

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020