VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

治療者と患者(268)患者を黙らせれば「勝ち」だという治療者

治療者と患者(267)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害

なぜ理事長は逃げたのか

前回「治療者と患者(267)」では、
私が6月26日にザスト総会に出席したところ、
その総会に出席しているべき、団体の理事長である
塞翁先生は逃げてしまって出席していなかった、
ということを書かせていただいた。
 
なぜ塞翁先生は、逃げてしまったのだろうか。
 
私に会うのが怖かったからだろう、
という人が多い。
 
もちろん、それは一つの理由として、あるだろう。
 
何も悪いことをやっていない患者である私を追い出すのに際して、
塞翁先生はわざわざ、
私が犯してもいない罪をでっちあげて、
組織的に冤罪をなすりつけ、追放の口実とした。
 
「そんなおかしなことが、
はたして現実の精神医療の中で起こるのか?」
 
と、この記事を読んでくださっている一般の方は思うだろう。
 
当然である。
しかし、それは実際に起こったのである。
 
治療者という権力を悪用した、
そのような行為がきわめて悪質であることは、
私たちよりも、
なにより塞翁先生自身がご存じのはずだ。
 
むろん、塞翁先生は、他の患者の前では
口が裂けても真相を語らないだろうけれど、
そのようなことをした相手には、
やはり恐ろしくて顔を合わせたくないものであるにちがいない。
 
しかし、ここで私は
塞翁先生がザスト総会から逃げてしまった理由を、
もっと深堀りした、もう一つの角度から考えてみたいと思う。
 
塞翁先生は、
私の目というよりも、
自分に転移している患者たちの目を恐れて、
逃げてしまったのではないか、
と思うのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
すっかり治療者に転移して、洗脳され、
治療者の思いのままに動かされている患者を、
私は「番犬患者」と呼んでいる。
 
治療者への転移は、精神療法の過程において、
ほぼ必ずといってよいほど起こる現象である。
だから、転移して洗脳されたことに罪はない。
 
番犬は、自分が番犬であることを疑問に思わない。
疑問に思った瞬間から、
その人は番犬ではいられなくなるはずだからである。
 
いま私自身は、塞翁先生の催眠にかかっていない。
 
情けないことに、
昔は私も塞翁先生に洗脳されていた。
しかし、今はそれを脱して、
正常な認識に戻った。
 
したがって、今の私は塞翁先生にとって
さいおうディスクール(*1)で煙に巻くことのできない患者である。
 
 
そういう患者は、治療者にとっては恐ろしい。
 
もし、塞翁先生が総会に出てきていたら、
とうぜん塞翁先生は私から質問を受けていただろう。
 
私はある意味、
それを流全次郎との会話(*2)において予告していた。
 
 
質問するだけでなく、
質疑応答をきっちりと録音・記録し、
情報の公益性に鑑みて公開するであろうことも。
 
だから、よけい震え上がって、
逃げてしまったのだと思う。
 
私は、流全次郎とちがって、
以前は患者村の中枢にいたので、
それだけいろいろな事実を知っている。
それらをもとに質問をされたら、
塞翁先生はひとたまりもない。
 
しどろもどろになった自分の姿を、
転移している番犬患者たちにさらすことになっただろう。
だから、それを避けたのだ、……
というのが、今回の私の新しい角度の見方である。
 
オロオロする姿を
自分の支持層である番犬患者たちに見られてしまっては、
彼らが治療者である自分へ持っている
ある種の「畏敬の念」が薄れてしまう。
 
患者たちが持つ、この「畏敬の念」が、
彼らの治療転移と愛着感情などと渾然一体となり、
治療者である塞翁先生への支持と吸着を形成しているからである。
 
「なんだ。塞翁先生って、
何でも知ってる、神様みたいな人ではなかったの?
 
たかが一人の患者である、ぼそっと池井多に質問されて、
しどろもどろになって話をはぐらかすしか
能がないような、ただのペテン師だったの?」
 
などという動揺が、もし患者たちの間に走れば、
それで阿坐部村という共同体が立ち行かなくなる恐れがある。
 
なぜならば、患者たちがいつでも奴隷のように、
何でもいうことを聞いてタダで働いてくれるのも、
この転移があってこそだからだ。
 
また、治療者が欲しがっている「症例」を
患者たちが自らの口でペラペラと「証言」してくれるのも
この転移があってこそだからである。
 
塞翁先生のまちがいだらけの内容の長口舌を
いかにも貴重な法話を聞くように、
何時間でも座ったまま患者が聞いてくれるのも
この転移があってこそだからである。
 
1年で60万円などという高額な「養成講座」に
通常の保険医療費とは別に患者たちが金を払いこんでくれるのも
この転移があってこそだからである。
 
日本国民として最低限度の生活をしているはずの
生活保護受給者の患者も
1ヵ月1万円で60回分割払いなどという
長期間の搾取に耐え抜いて金を払い続けてくれるのも
この転移があってこそだからである。
 
このように、治療転移は
阿坐部村という共同体を成り立たせている原動力なので、
これが醒めてしまうことは、
塞翁先生にとって自分の生活の崩壊を意味する。
 
患者たちの転移が醒めてしまえば、
精神的な支持を失うだけにとどまらず、
金銭的な収入も入らなくなる。
 
教祖は、信者たちのお布施で喰っているからである。
 
転移が醒めれば、
患者はリカモリング・アホバイザー養成講座にも、
スーパーヴィジョンにも、もはや行かなくなる。
 
だから、塞翁先生は
追及される自分の姿を番犬患者たちに見せたくなかった。
それで、総会から逃げたのであろう。
 
 
 
 
 
 
ところが、塞翁先生が逃げてしまったということで、
患者たちの間にもいくらかの動揺が走ったらしい。
 
「私たちの教祖さまは、
どこかの教団のように、
いざとなったら責任を放棄して逃げる御方なのではないか」
 
と、不安になったのである。
 
そのため塞翁先生は、
その不安を払拭するかのごとき勇猛果敢な言葉を
吐いてみせたくなったと思われる。
 
最近になって塞翁先生は、
6月26日の総会をふりかえって
治療ミーティングで患者たちへ
このように言っているらしい。
 
 
黙らせれば勝ちだろ?
 
 
もちろん、私の発言を彼自身が総会で聞かずにすんだ、
ということを「黙らせた」と表現しているわけだろう。
 
高校生ですら言わないような、
子どもっぽい言い草であるが、
ようするに「勝ち」とは、
あくまでも自分、
塞翁勉の勝利を高らかに宣言しているつもりなのである。
 
 
「ラーメン屋 フリー画åƒã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
ラーメン屋の厨房 by PhotoAC

ラーメン屋で怒る男の話

 
塞翁先生がくりかえし、男クロ(*2)などで
男性患者たちに説く話がある。
 
*2.男クロ
男性クローズド・ミーティングの略
「男性クローズド」とはいいつつも
しばしば女性にも観覧させるので、
男性の治療的安全が保たれないことがある。
その逆、女性クローズドを男性患者に観覧されることは絶えてない。
そういう点にも女尊男卑が見受けられる。
 
 
そのうちの一つが、
「ラーメン屋で文句をいう男の話」
である。
 
男がラーメン屋に入って、
カウンター越しに自分のラーメンを注文した。
 
ところが、しばらく待っていると、店主は、
あとから入ってきた客へ先にラーメンを出した。
 
男は「おい、こっちが先だ」と文句をいった。
 
……と、それだけの話である。
 
ここで塞翁先生は、文句をいった男を、
ラーメンの順番を抜かされただけ怒り、
新しい客に「負け」たと認識している者として決めつけ、
 
勝ち負けにとらわれている、
男らしさのやまいにかかっている者
 
として、嘲笑的に論じて酷評するのである。
 
すると、聞いている男性患者たちは、
すでに主体を治療者にうばわれ、
自分で考えるための頭がメルトダウンしているので、
 
「そういうものか」
 
と思ってしまう。
 
しかし、考えてみると、どうだろう。
 
ラーメン屋へいって、
自分の注文が確たる理由もなく後回しにされたら、
文句の一つも言ってみるのが、
社会感覚として正常である。
 
社会はそうやって動いている。
 
もちろん、文句の言い方にもいろいろあって、
そこで暴言を吐いたり、机を叩いたりするのは戴けないが、
 
「ちょっと大将、私が先ではなかったですか」
 
と店主に軽い異議を唱えることは、
しごく妥当な社会的行為であり、
 
「勝ち負けにとらわれている、男らしさの病」
 
などと断じられる謂れはまったくない、
と言わなくてはならない。
 
むしろ、いざという時に、
そういう自己主張ができることが、
人がほんらい身につけるべき「社会性」であるともいえる。
 
然るべき時に、然るべき形で自己主張ができなければ、
人は社会的には対人恐怖やコミュニケーション不安となる。
 
 
ところが、阿坐部村では
 
自分の権利を主張する男性は病気である」
 
と、治療され、教育され、洗脳されているのにほかならない。
 
このようにされると、
自分の権利をあるべき形で主張できなくて、
犯罪や異常行動など、
ねじくれたかたちで自我が突出するようになる。
 
すると、すかさず塞翁先生は、
 
「ほら。お前は病気だ。
 もっと治療に通わなくてはならない」
 
と、持っていくのである。
 
こうして、治療機関につながったら、
二度と社会へ戻れないように飼いならされていく。
 
社会へ戻れなくて、どうするか。
 
そのまま、「治療」と称して十何年も患者村にいて、
「おでん療法のダシ」
になっていく。
 
塞翁先生が指示した特定患者の回復の
踏み台になっていくのである。
 
「治さない治療者」などと自らうそぶく塞翁先生のもとへ通い
「医療費」や「受講料」を納めつづけ、
塞翁先生の自己実現を叶えるための兵隊として
阿坐部村の中で飼いならされていくのである。
 
塞翁先生によれば、
これが精神療法における「去勢」である。
 
「去勢」された患者は、
いわば、治療者によって人工的につくりだされている、
「社会的ひきこもり」である。
 
それなりに社会的能力を持っていたはずの私も、
根が愚かであったために、
このような精神医療にひっかかって、
働き盛りの四十代は
塞翁先生の奴隷や番犬として棒に振った。
 
塞翁先生から見れば、こうした患者たちは、
安定した生活財源となっている。
 
ついでに、もう少し先まで言っておくと、
そのように阿坐部村に根が生えた男性患者は、
性犯罪の加害者予備軍として
あつかわれるようになっていくのだ。
 
これも塞翁先生の人間観を実践し、
自己実現を手伝うためである。
 
すると、そうした立場に馴れてしまい、
 
「自分が潜在的加害者であると認めるかぎり、
自分は塞翁先生に存在を承認され、
自分はここに居場所を得る」
 
と感じるようになっていく。
 
こうしてまた一人、新しい村人が患者村に生まれ、
番犬患者が誕生する。
 
だが、阿坐部村の話としては、
それはいささか上級篇なので、
詳しくはまた別の機会へ回そう。
 
今回は、塞翁先生の
「黙らせれば勝ちだろ」
という言葉へ立ち返ることにする。
 
 
 

相手にだけ武装解除させて…

塞翁先生が男性患者たちに、
 
「ラーメン屋で順番を抜かされても
文句をいわない人間になれ」
 
ということは、人が持つべき倫理観、
もしくは、もっとクサい言い方をするなら
「生き方」を伝授しているように見せかけながら、
じつは塞翁先生の王国である
阿坐部村という患者村で生きていくルールを
すりこんでいるのに他ならない。
 
これは、塞翁療法における洗脳の重要なプロセスである。
 
自己を主張しない患者が
こうして生成されていく。
 
治療者に異議を唱えない患者が、
こうして量産されていく。
 
塞翁先生は、自分以外の者にはすべて、
この手法によって自己を溶解させる。
そこへ塞翁先生だけが、
自らの自己を押しつけていくのだ。
 
相手にすべて武装解除で武器を捨てさせるのは、
平和を実現するためではなく、
自分だけ武器をふりかざせる場を作るため、
というわけである。
 
健全な自我をもっている者を、
治療者の立場を利用して
それを「病気」だと診断することによって
「黙らせ」ていく。
 
そして、自分だけが「勝つ」。
 
「勝ち負けにとらわれている奴は、バカだよね~」
 
などといって他の者たちを煙に巻き、
いつのまにか自分だけが「勝ち」を収めるのである。
 
こうして塞翁先生は、小さな王国
いつまでも王様でいられる。
 
じっさいは、塞翁先生自身ほど
「勝ち負け」にとらわれている人もめずらしい。
 
これまでの阿坐部村の歴史を振り返ってみると、
精神科医の鷲川先生にしても、
セラピストの大鳥さんにしても、
塞翁先生は、自分が負けそうだと思った相手は、
なんだかんだと冤罪をでっちあげて追い出してきた。
 
しかし、それが、
治療者仲間を相手に行なわれている間はまだしも、
近年はそれがエスカレートして、
患者である私にそれを適用し始めたわけである。
 
ところが、私はどういうわけか、
なかなか去っていかない。
おまけに、ザスト総会へもやってくる、という。
 
そこで塞翁先生は、あらかじめ
その場で私に追及される場を患者たちに見られないように、
ザスト総会から逃げたのである。
 
だが、それで自分が「負けた」と
支持層の患者たちに思われなくないから、
自分が好きなだけ独演会を開ける治療ミーティングで、
こう大見得を切っている。
 
 
黙らせれば勝ちだろ
 
と。
 
 
 
 

ブーメランのように返っていく

 
塞翁先生は、表向きには
 
「精神療法は、対話です」
 
などと言っている。
 
教科書的な回答だから、
そう言っているのにすぎない。
 
言っていることとやっていることが正反対であるという、
塞翁先生ならではの特徴が、ここにも出ている。
 
対話は、相手を黙らせることを目指さない。
対話は、「勝つ」ことを目指さない。
 
「黙らせれば勝ちだ」
などとポロリと言ってしまった塞翁先生は、ほんとうは
「勝ち / 負け」
で人間関係を測っていることが
これで露呈してしまった。
 
 
「黙らせれば勝ちだろ」
 
という人間関係観は、裏返せば、
 
「発言できなくなった方が負け」
 
ということである。
 
 
人間が最終的に発言できなくなるのは、
「死」である。
 
すなわち、塞翁先生は、
「死んだら負け」
という価値観を提示しているのに他ならない。
 
松木さんなど、
いままで追い詰められて自殺してきた患者たちは、
どんなに恨みを塞翁先生に抱いていたとしても、
結局はそれを言葉にできず、死んでしまった。
 
それを、塞翁先生は「負け」とあざ笑っているのに等しい。
 
死んでしまった彼らは、
言葉にするには怒りが大きすぎたから、
それを言葉にできず、
死んでしまったのだろう。
 
それを、塞翁先生は「負け」と言っているのに等しい。
そして、
「死によって黙らせた。自分は勝った」
と思っていることだろう。
 
しかし、
有頂天になっているのも今のうちだと思われる。
 
「黙らせれば勝ち」
 
という塞翁先生の人間関係観は、
必ずやブーメランのように彼自身に返っていくことであろう。
 
なぜならば、やがて彼も、
「死」によって永久に黙らざるを得ない日が
やってくるだろうからである。
 
……。
……。
 
 
ところで、以上すべてのことを踏まえていうならば、
私は黙ったわけではない。
 
 
 
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害
 
 
・・・「治療者と患者(269)」へつづく
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