VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

海外ひきこもりだった私(12)「私」の海外流出 ~ 鈴澤ゼミの私

 「海外ひきこもりだった私(11)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

 

ところが、大学合格の発表を持ち帰った私に、
母はひと言も詫びるでもなく、
また、私の快挙を褒めるでもなく、
間髪入れずに開口一番、
こう言ったのだった。
 
さあ、お前はこれから英語を勉強しなさい。
 
だって、お前は知らないかもしれないけど、
一橋の英語のレベルはすごいのよ。
 
今のお前の実力じゃついていけないから、
大学で落ちこぼれないように、
明日からは英語を勉強しなさい
 
 
人は、心に激しい衝撃が加わると、
その時はいったい何が起こったのか、
わからないものである。
 
起こったことがが何であったか、言葉になるのに、
何日も、いや、ときには何年もかかるものである。
 
この時の私がそうであった。
 
私は、なにか「だまされた」ような気分になったのだが、
いまだ感情が未分化で、
怒りも失望も湧いてこなかった。
 
そのかわり、
いくら走ってもゴールがないマラソンを走らされているような感じがした。
 
いくらがんばっても、ゴールもない。
報酬もない。
 
がんばれば、がんばるほど、
ハードルはさらに高く吊り上げられ、
どんどん、もっとがんばらなくてはならなくなる。
 
がんばれば、がんばるほど、
苦しみは終わるどころか、
どんどん大きくなるのだ。
 
これでは、
 
がんばるだけバカだ
 
 
という合理的結論に達するであろう。
 
けっして私が特異なひねくれた考え方の持ち主だったのではなく、
合理的思考の持ち主ならば、
誰しもがたどるであろう道筋をたどって、
私はがんばらなくなったのだ。
 
しかし、そのような深い洞察は、
後年の産物である。
 
そのとき私は、そのように言葉に出したわけではないが、
 
「今度ばかりは母にだまされないぞ」
 
と思ったくらいであった。
 
母の言うことを聞いて翌日から英語を勉強することなど、
誰がやるか、という気分になった。
 
それどころか、その年の4月から大学に入っても、
さっぱり講義には出なくなった。
 
「出たところで何になるのだろう。
その先にあるのは何だろう」
 
答えは見えなかった。
だから、講義には出ない。
 
キャンパスからわずか自転車で3分の距離にある
アパートに独り暮らしを始めていたが、
目と鼻の先にあるキャンパスへ行くことも稀になった。
 
これは、非常にマイルドではあるが、
「グレる」という行為であったのだろう。
 
もし、中学生や高校生のころに、
この「グレる」心境に達していれば、
私は髪を染め、
バイクでも乗り回していたのにちがいない。
 
しかし、悲しいかな、
私はすでに、
「グレる」にはあまりにも齢をとっていた。
 
そのかわりに、20代になりたての私が始めたことは、
大学へはほとんど行かず、
アルバイトで金を貯めては、
あてもなく海外を放浪するようになっていったのである。
 
自分という存在の海外流出の始まりである。
 
それも、アメリカやヨーロッパなど、
先進国には興味はなかった。
 
日本より経済的に遅れているとされる、物価の安い、
第三世界といわれる国々を
とめどもなく漂流するようになっていった。
 
物価が安ければ、それだけ長く滞在できる。
 
試験のときだけ日本に帰ってきて、試験を受ける。
 
試験で点数が取れなかったら、
てきとうにレポートを書いて提出する。
 
それでなんとか進級はさせてもらえた。
 
当時は、
 
「西の京大、東の一橋」
 
といわれるほど、うちの大学は甘いことで有名で、
それでけっこう学年を進むことができたのである。
 
ごぞんじのとおり、私は言葉を書くのは好きであるから、
レポートはいくらでも書いた。
 
べつに文章や言葉に心をこめなくてもよくて、
それらしき言葉をずらずらと並べればよいのだから、
いくらでも書けた。
 
試験の季節は、
1日平均原稿用紙20枚のペースで書いた。
 
ときには、
進級できずに困っている友人の分まで書いてやった。
 
いま、世界的な自動車メーカー、ト〇タの重役になっている
某氏の大学一年のときにレポートや小論文は、
だいたい私が書いてやったものである。
 
彼は今、世界経済の真っ只中にいて、
地球上の各都市をファーストクラスで飛び回り、
私は精神科の患者村と戦いながら、
生活保護で東京郊外のボロアパートにひきこもる。
 
このように、
「試験が点数とれなくてもレポートで進級できる」
というのはありがたかったが、
そのかわり、レポートはあくまでも救済措置であるから、
成績は「C」しかつかない。
 
こうして私は、後期すなわち三年生に上がるとき、
成績表は「C」ばかりがならび、
手を抜いて作った視力検査表のようなものができあがっていた。
 
これでは、名だたるゼミに入れる成績ではない。
 
入れてくれるゼミはない。
こちらが入りたいゼミもない。
 
そこで、もう大学をやめようか、と思った。
 
しかし、ここでもまた私は
潔くきびすを返して大学を中退し、
社会へ出ていくだけの決断力を持てなかったのである。
 
すると、二年生のときの第二外国語の担任であった
鈴澤先生が「蜘蛛の糸」を垂らしてくれた。
 
私が、必修の第二外国語の授業に出てこないものだから、
進級の際に点数に「下駄をはかせ」ようと、
 
「試験の点数に自信がないならば、
 小論文を書いてみませんか」
 
と言ってくれたのである。
 
レポートや小論文ならば、お手の物である。
 
おそらく鈴澤先生は、
私のそういう気(け)があることを見抜いて、
そういう蜘蛛の糸を垂らしてくれたのかもしれない。
 
鈴澤先生の授業では、
エドガー・アラン・ポーの書いた「盗まれた手紙」を
フランスの詩人ボードレールがフランス語に訳したものを
教科書として使っていた。
 
そこで、「ポー論」を書いてみなさい、
と私におっしゃったのである。
 
私は、三年生になりたいのだったら、
その案にすがりつくしかなかった。
 
しかし、私がポーなどという作家を知っているわけがない。
 
「黒猫」「黄金虫」といった短篇は読んだ覚えもあったが、
それだけでは、
それを書いた作家の本質などわかるべくもない。
 
そこで、おおまかなポーの年譜だけ調べて、
 
「ポーは反市民であった」
 
という論をぶちあげ、
「異端の系譜」
というタイトルの小論文を書いて提出したのであった。
 
本ブログでも、
 
 
で言及させていただいたように、
私の頭のなかには高校生のときから
 
「市民 / 反市民」
 
という対立概念がある。
 
 
河の向こうで、
平穏な日常生活を送っている「市民」に対して
前提や規範がまるで逆さまな実生活を送っている者たちが
河のこちら側にいる。
 
たとえば、私の原家族がそうであった。
 
その概念を、私は高校生のころから
「反市民」
と名づけていた。
 
「反劇的人間」
からもじったものだったような気がする。
 
「反劇的」という形容詞があってよいのなら、
「反市民」という名詞があってよいだろう、
というわけであった。
 
自分は市民生活の中に入っていけない「反市民」。
 
そういった捉え方は、
私の異邦人意識につながる。
 
異邦人意識は、
私が「そとこもり」になっていった要因につながる。
 
手短にいえば、
私は自分が異邦人のように感じていて、
異邦人にふさわしい生活環境を得るために
異邦へ行ったのが、
そのまま「そとこもり」になったということだ。
 
ともかく、鈴澤先生に与えられた
三年生になるための千載一遇のチャンスにすがりついたはいいが、
誰も使ってない「反市民」という語を身勝手に用いて、
小論文を書いて出したのであった。
 
「とにかく、出せばいい」
 
と思っていた。
 
それ以上の期待はしなかった。
 
すると、次のフランス語の授業のときに、
気難しそうなイメージのあった鈴澤先生が、
教室のなかを巡回しているときに、
私の机の横で歩みを止め、
 
「きみの論文をね、読みました。
たいへん良く書けていました」
 
とわざわざ声をかけてくれたのである。
 
めずらしいことであった。
 
親に褒められたことのない、20歳の青年が、
このように褒められると、
たちまち木に登る豚となるのである。
 
「この先生ならば、ぼくの価値をわかってくれるにちがいない」
 
たちまち私は、もう迷うことなく、
鈴澤先生のゼミを希望することによって
三年生に進級することにした。
 
うちの大学には、
法・経・商・社会の学部の科目のほかに
必修語学を担当する教官が指導する
「語学ゼミ」
というものがあった。
 
どちらかというと、
主要4学部のゼミに行きっぱぐれた学生の救済の場として
それは機能していた。
 
また、文学部のない大学であったから、
語学ゼミというものは、
学部をもたない文学部のような役割も果たしていた。
 
大学院に進む学生たちが、
第二外国語の研鑽のために
副ゼミとして選択することも多かった。
 
しかし、私のような学生は
それを副ゼミではなく主ゼミとして選択するというわけである。
 
ともかく、学内では「二流」の位置づけであったために、
語学ゼミの競争率は低く、
入るのに審査はなかった。
 
このように、私の側からは
鈴澤先生のゼミに入るのに障壁はなかったのだが、
鈴澤先生にしてみれば、
私のような学生が入っていて、
最初はえらい災難だったと思う。
 
なにしろ、フランス語のゼミなのに、
フランス語がまったく読めない。
 
いまの私が、フランス語を少しばかりできるものだから、
さぞかし大学のときに
第二外国語のフランス語が得意であったろう、
と読者のみなさまは想像するかもしれないが、
じつは、まったくそうではないのである。
 
1・2年で、授業を怠けていた成果が、もろに出ていた。
まともにフランス語のアルファベットも読めなかった。
 
さらに価値観が子どもっぽい。
機能不全家庭で育った未熟さが、もろに出ていた。
 
しかし、このように背伸びをするかたちで、
鈴澤先生のゼミを大学生活の後期の拠点と定めた私は、
知らず知らずのうちに
やがて鈴澤先生に猛烈な父親像の投影を始めることになる。
 
このことが、私のそれからの人生の外郭を
作っていったといって過言ではない。
 
 
  •            

    こんにちは☆
    一橋だったんですね
    私は法政でしたが、単位取らなくても進級だけは出来ました
    あまいを通り越してますが・・(^^; 削除

    ジュピター *☆*

     

    2018/10/6(土) 午後 0:17

     返信する
  •            

    ジュピター *☆*さま コメントをどうもありがとうございます。

    なるほど、それは砂糖のかたまりのように甘そうですね。

    当時、一橋は前期(1-2)年と後期(3-4)年はキャンパスが分かれており、前期から後期に行くときだけは、さすがに「単位取らなくても進級」というわけにはいきませんでした。

    1年から2年、3年生以降は、うちでも「単位取らなくても進級」できました。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/10/6(土) 午後 4:02

     返信する
  •            

    顔アイコン

    幼い頃からお母様に、合格するように命じられていた大学に、合格したのですからめいっぱい褒めてあげればよろしいのに…。

    どこまでいっても認めて貰えない、鞭を打たれ続けるというのでは、絶望を感じて無気力になりますね…。

    決められていた大学に入りさえすれば、苦しみから解放される。やっと認めてもらえると思って、幼い頃から20年近くに渡って走り続けてきたのですから。

    拝読して、心理学者のセリグマンの学習性無力感を思い出しました。



    お母様は何を求めていたのでしょうか。

    自分ができなかったことを息子に代わりにさせる事で、お母様自身の毎日の生活、人生への不満、満たされない想いや自己肯定感の低さを埋めようとしたのでしょうか。

    しかし、いくら子供がお母様の希望を叶えたところで、『お母様自身が』自分で獲得したものではないから、お母様はいつまでも満たされないでしょうね。

    代わりに走らされる子供は、本当にたまったものではありませんね。

    って想像で書いてしまいました。不愉快な気持ちにさせてしまったら、申し訳ありません…。 削除

    [ 蒼 ]

     

    2018/10/6(土) 午後 9:25

     返信する
  •            

    蒼さま コメントをどうもありがとうございます。

    まったく不愉快になど
    なりませんでしたのでご安心ください。

    まさに、あなたがお書きくださったような思考に、
    私が自分なりに到達するために、本ブログで

    「スパゲッティの惨劇」
    海外ひきこもりだった私」

    といった、自叙伝めいたシリーズを
    飽きもせず書き継がせていただいているのに他なりません。

    「なぜ母は、
    母の願いをかなえようと尽力した私を
    けっして褒めてくれなかったか。」

    これは、私にとっては一大テーマです。

    そして、それがまるで
    一つの小さな音が、
    洞窟のような大きな空間で
    共鳴して拡大していくように、

    「なぜ塞翁先生は、
    阿坐部村のために貢献した私を
    迫害し追放したか」

    という問いとなって
    私のなかで轟(とどろ)きわたっているのです。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/10/6(土) 午後 10:51

 

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