VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

海外ひきこもりだった私(13)主任教授の専門を知らずに

 「海外ひきこもりだった私(12)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

私が大学の前期から後期へ進むとき、
つまり、大学二年から三年になるときの話である。
 
これは、けっこう大きな変化なのだった。
 
まず通うキャンパスが小平から国立へ変わる。
さらに、後期はゼミを中心に生活が回っていく。
 
私は大学に入ってから海外流出を繰り返していたために、
前期の成績は惨憺(さんたん)たるものであったが、
主要四学部には該当しない「語学ゼミ」というものがあり、
そのうちの一つ、鈴澤先生のゼミに入れていただくことにより、
なんとか大学の後期へ進学できることになった。
 
私は、鈴澤先生の専門が何であるか
まったく知らないままにその門を叩き、
彼のゼミ生となったのである。
 
その無知と無恥は、
いま思い出すと身が縮みあがるような思いである。
しかし、事実である以上、
それを認めなければならない。
 
それは恥ずかしいことであるのと同時に、
もったいないことでもあった。
私の人生には、ふりかえると
こういう「取りこぼし」が多い。
 
鈴澤先生の専門を知らないままゼミ生となったならば、
せめてゼミ生となったあとに知ろうとすればよいのに、
それもせず、
私は恩師の専門が何であるか、
まったく関心を示さないで、
しばらくゼミ生をやっていた。
 
通用しない言い訳をするならば、
それだけ、自分の内面的な問題に忙しかったのである。
 
ほんらい、大学生などやっている暇などないくらい
私は内面と精神に問題をかかえている若造であった。
 
 
 
 
 
 
2年ぐらいあとになって知ったことには、
私が師事している鈴澤先生の専攻は
プルーストサルトルだということであった。
 
知らない方のために解説しておくと、
プルースト(*1)というのは、
こんにちの私のひきこもり論の中にもよく出てくる
20世紀初めのフランス文学者である。
 
 
 
のちに重要になってくるので、
はじめに述べておくと、
マルセル・プルーストと私には二つの共通点がある。
 
一つは、二人兄弟の長男だということである。
 
もう一つは、長らく喘息に悩まされたという点だ。
 
しかし、そのような比較が意味を持つようになったのは、
はるか後年、15年ぐらい経ってからである。
 
今日でいう「聴覚過敏」であったのか、
街の騒音が気になって仕方なく、
コルク張りにして防音にした書斎にひきこもって
小説を書き続けた。
 
さて、鈴澤先生のもう一方の専門、サルトルというのは、
1980年まで生きていた現代フランスの哲学者、
ジャン=ポール・サルトル(*2)のことである。
 
団塊の世代の人たちには、
今さら説明の要はない。
必ずといってよいほど、皆が皆、何らかの形で通過したような
時代を代表する哲学者であり思想家であった。
 
 
 
鈴澤先生は、サルトルが日本に来た時に
通訳をした一人である。
 
サルトルが生涯をかけて追及したテーマは、
ひと言でいえば「自由」であったといえる。
 
それを「実存」だ、という人もいるだろうけれど、
「自由」を追究したあげくにたどりついたのが、
「実存」や「アンガジュマン」であるように私は思う。
 
その「自由」とは、
無邪気な若者が夢に抱くような
伸び伸びと手足を放恣(ほうし)に投げだすような
勝手気ままな「自由」のイメージではない。
 
サルトルはいう。
 
人はみな、自由の刑に処せられている
 
仕方がないから自由になるのである。
 
本ブログの愛読者でもいらっしゃる
goodじいさんさんが詳しい
 
E・フロム「自由からの逃走」
 
は、ちょうどサルトルの自由論を
裏側から照射したような著作である。
 
自由はつらいものだ。
だから人は、自由になりたくない。
そこで、自由から逃げる。
ナチスに投票して、不自由な世の中を作り出す。
そこに光を当てたのがフロムである。
 
そこから自由になろうと立ち向かうのがサルトルである。
 
恐ろしくおおざっぱにいうと、
そういうことになる。
 
なぜ、「自由」がつらいものであるかというと、
「責任」と表裏一体だからだ。
 
ここで私の幼少期からのテーマ、
「責任」が関わってくるのである。
 
あの、四六時中降ってきた母の言葉。
 
人はみな、自分の言動に責任を取るものよ。
 
お前はスパゲッティが食べたいと言ったんでしょ。
 
だったら、責任を取りなさい!(*3)
 
 
 
 
 
 
 
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    到達点が「実存」「アンガジュマン」であると言うことには賛成しますね。誰もが通過点としてきたサルトル・・将にそうでしたね。
    「無知」と「無恥」おまけに「無智」でもありました。そんな自分がふらふらと海外流出(別名 良く言えば留学)を繰り返して、其のたびに虐めを経験し、それでもめげずに・・
    考えてみれば、よくぞ此処までしぶとく生きてこられたもんです。(^^) 削除

    goodじいさん ]

     

    2018/11/3(土) 午前 8:00

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    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    たしかに、
    よくぞここまで生きてこられたものだ、
    と思い出しては、
    ヒヤッとしたり、
    肩をすくめたりすることが多いです。

    いつ死んでも不思議でないような
    年月を送っておりました。

    そういうことができたのも、
    若くてムチムチしていた
    (「無知」「無恥」「無智」)
    賜物なのですが。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/3(土) 午前 9:23

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  •      

    顔アイコン

    存在から実存へ。
    貴ブログ(一部しか拝読しておりませんが)から垣間見られると
    感じております。

    失われし・・の舞台になったイリエ(イリエ=コンブレ)に
    3度も足を運んだ物好きなわたしです。 削除

    うらる ]

     

    2018/11/3(土) 午後 6:17

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  •      

    うらるさま コメントをどうもありがとうございます。

    な、なんと!
    イリエに三度も行かれたことがある方とは(ΘoΘ)

    私はフランスは二度ほど足跡を記したことがありますが、イリエには行ったことがありません。
    コンブレーは、私が父親像を投影した師匠が翻訳した書物の中だけで味わっております。

    そして「存在から実存へ」という寸評も、まことに的を射ておられます。
    もしかしたら同じような畑を歩いてきたかもしれませんね。削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/3(土) 午後 10:05

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    (内緒コメです)

    その昔のHP(まったく個人的趣味のもの)からの引用です。
    画像はありませんし、押しつけがましくて恐縮です。
    海外留学や滞在の経験はありません。いつも旅です。
    鈴木道彦訳が刊行されたとき、ご本人は(井上訳があるのに)、
    「屋上屋を建てる」みたいなことを書かれていたかと記憶します。
    -------------------------------------------
    イリエ=コンブレへ、 そして記憶の彼方へ・・

    「シャルトルブルー」で有名なステンドグラスのある大聖堂の町シャルトルからでているローカル線沿線に、イリエ=コンブレの村はある。

    2両だけの赤いディーゼルカー。 
    日に何本かしかない列車に乗り込むと、夕刻だったせいか、学校帰りの中学生で満席だった。
    シャルトルの町を出ると、もう180度麦畑。 
    時々遠くに集落らしきものがみえるほかは、行けども行けども平原である。

    (続) 削除

    うらる ]

     内緒 

    2018/11/3(土) 午後 10:49

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    先ほどの通り雨がすばらしい贈り物をくれた。 
    虹だ!! 
    まっすぐな大地の地平線から、右手に虹が出た。
    うっすらとしているものの、こんなにたくましいスケールの大きな虹は生まれてはじめて。
    5つめの駅がイリエ=コンブレだった。 
    何駅目なのかあらかじめ知らなかったので、駅に着く度に曇った窓ガラスごしに覗いてみた。

    駅を出てすぐ右手にある駅前旅館風のホテルに荷をおろし、さっそく夕暮れ時の村内をぶらぶら散歩する。

    村の教会の鐘の音が朝を告げる。 15分で1つ、30分で2つ、45分で3つ。 毎時には音色を変えて2度。

    (続) 削除

    うらる ]

     内緒 

    2018/11/3(土) 午後 10:51

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    駅前の並木通りを通り、レオニ伯母さんの家へ。

    階には、入ってすぐの部屋と、食堂と台所。 
    大理石の暖炉のある食堂のカレンダーは1876, déc. 31 のまま。
    例の木の階段を登って2階へ。

    2階には、レオニ伯母さんの寝室とマルセルの寝室。
    伯母さんの部屋には、プティット・マドレーヌが置いてある。 
    窓から通りや中庭がみえる。

    公園のそばを通り、ヴィヴォンヌ川に沿ってゆくと、プレ・カタランがある。 
    中は人ひとりいず、ひっそりとそして少しじめじめしている。
    ここを出ると村はずれで、大平原をまのあたりにする。

    くだんのマドレーヌ店 Chez Védie は、プルースト時代から続いているそうで、作り立てが袋入りで何気なく売られている。

    (続) 削除

    うらる ]

     内緒 

    2018/11/3(土) 午後 10:53

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  •      

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    プルーストの母親の横顔が写っている写真。 
    作中でヴェネツィアのサン・マルコ聖堂の洗礼堂に身を置く自身を回想しながら、
    「あのつめたい薄くらがりのなかで自分にそばに寄りそってひとりの女性がいたことに」(井上究一郎訳、以下同)と、主人公は母を想い、
    カルパッチョの絵の中の年とった女のイメージと重ねあわせる。
    それは、〈聖女ウルスラ伝〉の中のその人物の横顔から予想していた通りのイメージをもつ、プルーストの母の横顔であった。

    「尊厳と感激とに燃えて喪に身をつつんでいた、そして赤い頬をもち、悲しい目をし、黒いヴェールをおろした彼女」がそこにいた。


    プルーストの名前を冠したリセ
    ・・・これは画像説明です

    *長々と失礼しました。 削除

    うらる ]

     内緒 

    2018/11/3(土) 午後 10:54

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    2018/11/3(土) 午後 10:54内緒の方 4件のコメントをどうもありがとうございます。

    さすがよくご存じですね。
    「屋上に屋を架することについて」
    という論文を書いておられます。

    まさにそのころ私は学生で彼に師事していたわけですが、記事に書いたような学生だったので、師匠がそんなことを考えているとは、リアルタイムで知りませんでした。もったいない「取りこぼし」でした。

    貴ブログも拝見しました。
    お書きになっているように、作品を読んで頭の中に描かれたコンブレーのイメージは、実際にイリエを見て確認できるわけではないでしょうし、両方の体験が相互に侵食しあっても勿体ないですね。

    しかし、それを踏まえた上で申し上げれば、とても上質な旅をしておられると思いました。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/3(土) 午後 11:53

 

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