VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(60)「ひきこもり」概念の変遷<1>暗くネガティブなひきこもり

 

遍在するひきこもり

こんにち「ひきこもり」と呼ばれる人たちは、
もともと古くから世界各地にいたであろう、
というのが私の持論である。
 
つまり、ひきこもりは日本社会の産物などではない。
現代社会の産物でもない。
 
もともと人間社会のあるところすべてに
一定数の人たちが既存の集団になじめず、
こんにち私たちが「ひきこもり」と呼ぶ状態だったであろうし、
今もそうであろうということである。
 
いま現在、日本だけでなく、この地球上のあらゆる社会に
ひきこもりがいるであろうということは、
この先、研究が進んでいけば証明される事象である。
 
そんな期待をこめて、
GHO(世界ひきこもり機構)(*1)というものをやっている。
 
*1.GHO
 
今のところ、成果は上々である。
最近では、
富裕な国でなくてもひきこもりがいることがわかってきた。
 
では、過去のひきこもりの存在はどうしたら証明できるか。
現在から過去へタイムスリップできない以上、
歴史的に証明はできない。
 
根気強く取り組んだときにできる「証明」の方法として、
「性の歴史」
「監獄の歴史」
などを書いたときのように、
過去に言葉(エクリテュール)に書かれた
「ひきこもり」
を掘り返すことが考えられる。
 
老子、ディオギネス、達磨大師兼好法師といった名前が、
とりあえずは頭に浮かぶ。
 
しかし、過去には「ひきこもり」という語が
今日のように流布していなかったから、
「ひきこもり」という語ないしは音韻は、
過去のひきこもりの存在を掘り返すのに、
役には立たないであろう。
 
「ひきこもり」という日本語は、
「引く」と「籠る」という
古くから使われている、一般的な動詞の合成だから、
日本語としてきわめて自然な語彙である。
 
いいかえれば、「ひきこもり」という語は、
ツンデレ」だの「ネトウヨ」だのといった
昨今の造語のように
不自然な創作によって出現した語彙ではない、
ということである。
 
それでは、
平安時代の昔からあったかもしれない「ひきこもり」という語は、
いったいどのようにして、
今日のような意味での「ひきこもり」という語となって
社会に広まるようになったのだろうか。
 
 
 

今日でいう「ひきこもり」の起源

それをさかのぼると、日本語ではないものに行きつく。
 
1980年にアメリカ精神医学会から
世界の精神障害の診断基準として発表されたDSM-IIIの中に、
診断名ではなく統合失調症うつ病の症状の一つとして、
 
「Social Withdrawal(社会的撤退)」
 
という表現が用いられていた。
 
これを日本語に訳したものが「ひきこもり」である。
 
その後、80年代に登校拒否症などといわれ、
やがて不登校といわれるようになった
一部の子どもたちの生活の延長線上に、
1990年代、この「ひきこもり」がさかんに指摘されるようになった。
 
そして、多くの識者が同時多発的に、
いろいろな場所から「ひきこもり」についての論を
発表するようになってきたものである。
 
たとえば、このころ
「ひきこもりもの」の草分けとして発刊された本には、
たとえば、このようなものがある。
(私の知るかぎり集成してみたが、
もれているものもあるかもしれない。)
 
1995年
朝日新聞学芸部の塩倉裕が、
ひきこもりに関する記事をシリーズ連載し始める。

1996年
田中千穂子『ひきこもり-「対話する関係」をとり戻すために』サイエンス社

1997年
池上正樹サンデー毎日において「引きこもり」に関する不定期連載を始める。

1998年
斎藤環『社会的ひきこもりー終わらない思春期』PHP新書

1999年
塩倉裕『引きこもる若者たち』ビレッジセンター
朝日新聞の連載を改訂、書籍化)

1999年
近藤直司蔵本 信比古長谷川 俊雄 ほか『引きこもりの理解と援助』萌文社

2000年
富田富士也『新・引きこもりからの旅立ち』ハート出版

狩野力八郎近藤直司『青年のひきこもり―心理社会的背景・病理・治療援助』岩崎学術出版社

2001年
池上正樹『「引きこもり」生還記―支援の会活動報告』小学館文庫
サンデー毎日での連載をまとめたもの

2000年前後の「ひきこもり」

上記にリストアップしたのは、
こんにちで言う「専門家」が
ひきこもりを批評してまとめたものだが、
このころにすでに
現在の当事者発信の先駆けといえる
ひきこもり当事者やその立場からの叙述もおこなわれていた。
 
2000年 田口ランディ「コンセント」
 ひきこもりを取り上げた小説。モデルは著者の兄。

2001年 勝山実(*2)(ひきこもり当事者)
「ひきこもりカレンダ-」を出版。

2001年 上山和樹(ひきこもり当事者)
「「ひきこもり」だった僕から」を出版。

2001年 滝本竜彦(ひきこもり当事者)
NHKにようこそ」(小説)を出版。
アニメ化されて世界中で大ヒット。

2001年 村上龍「最後の家族」
ひきこもりを題材にした小説。テレビドラマ化される。

2001年 阿部和重ニッポニアニッポン
小説。芥川賞候補、三島賞候補になる。

2002年 映画「home」
ひきこもっている兄を、弟が撮影したドキュメンタリー映画

2003年 諸星ノア「ひきこもり当事者)
「ひきこもりセキラララ」を出版。

2003年 NHK「ひきこもりサポートキャンペーン」

2003年 村上龍「共生虫」。
「最後の家族」とは異なる趣きのひきこもりに関する小説。

2004年 「ひきこもり」から「ニート」へ社会の関心が移る。
「働いたら負け」と語った青年の言葉がきっかけ。
ニートブームは、その後pha(ファ)などの著名人を生む。(*3)
*2.本プロジェクトにもご出演いただいている
ひきこもり名人となった私」の勝山名人である。
 
*3.これら年表の作成には
ひきこもり当事者さとう学
facebook投稿も一部参考にさせていただいた。
 
 
このように、専門家・当事者ともに
西暦2000年前後において
「ひきこもり」に関する社会的発言が多く行われた。
 
このころ流布した
「ひきこもり」
という語のイメージは、
日本社会に特有の産物で、
文字通り自分の部屋から出てこない
未婚の若い男の子、というものであった。
 
こんにちわかっている「ひきこもり」の実像よりも、
もっと暗くネガティブなイメージが
「ひきこもり」という語に付与されたといってよい。

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そしてまた、この2000年当時は、
その像を裏打ちするような、
暗くネガティブな「ひきこもり」関連の事件が続いた。
 
たとえばこのような事件である。
 
2000年 西鉄バスジャック事件
 17歳のひきこもり青年がバスを乗っ取り無差別殺人。

2000年 新潟少女監禁事件
 28歳のひきこもり青年が、当時9才だった少女を自宅で9年以上も監禁。
こうした事件が起こるたびに、
 
「ああいうのが、ひきこもりなのだ」
 
と一般市民は考えるようになり、
「ひきこもり」は気味悪がれ、恐れられ、
厄介がられる存在になるとともに、
 
「ひきこもりとは、そういう暗くネガティブで
危険な存在である」
 
というイメージが増強されていった。
 
こんにち、東京都がひきこもり対策の担当部署を、
「福祉局」ではなく、
「青少年治安対策本部」に置いているのは、
その名残であるといえよう。
 
 

偏って固定されていった「ひきこもり」

社会の空気の形成というものは、
往々にして再帰的(reflective)である。
 
こうした風潮にしたがって、いよいよ
「ひきこもり」に対する差別的・侮蔑的な感情が
一般市民によって持たれるようになり、
それがさらに、そういった視線に過敏なひきこもりを萎縮させ、
ひきこもりはもっと外へ出にくくなっていった。
 
誰か強権的な個別の他者によって
むりやり自宅に監禁されているわけではないのに、
近所の目に触れないように自分で自分を監禁するという、
いわゆる、ひきこもりの自己監禁がつづくようになった。
 
こんにち、
 
「自分は「ひきこもり」ではなくて、
 「ひきこもらされ」だ」
 
と主張するひきこもり当事者たちは、
こうした環境を体験している。
 
上記に掲載したアメリカのテレビ局ABCもそうだが、
こんにち、国内外において一般メディアに掲載される
「ひきこもり」のイラストは、
どれも申し合わせたように、
暗くネガティブなひきこもり像である。
 
これはほぼ、
この2000年ごろに広まったひきこもり像のままである。
 
多くのメディアは、新しい事実を学ぼうとしない。
従来のイメージの再生産に努めることによって、
目先の原稿料やスポンサーシップを獲得するのに忙しい。
 
ついでにいうと、
なぜ一般メディアが
ひきこもりのイラストを掲載するかというと、
写真がないからである。
 
彼らが思い描いているような「ひきこもり」の写真は撮れないために、イラストで間に合わせるからである。
 
そもそも、彼らが思い描いているような形態で
ひきこもっているひきこもりは、
おそらく全体の1割程度にすぎない。
 
だから、見つからない。
見つかったところで、そういう極度なひきこもりは、
自分のひきこもり部屋の写真や映像など
撮らせたがらないものである。
 
そのような一例として、
先日、本ブログで発表した
オランダのテレビ局とフランスのひきこもりギードの
交渉が決裂した顛末(*3)をご参照いただきたい。
 
 
 
 
そして、逆にそういう
暗くネガティブに部屋にとじこもっている状態でないと
「ひきこもり」ではない
と考える人がひじょうに多い。
 
それは一般市民だけでなく、
メディアに携わる人の中にも多いのである。
 
これは、私たちひきこもり当事者が、
さまざまな当事者活動をしていく上での障壁として
立ちふさがる場合もある。
 
たとえば、
 
「テレビに出て発言しているのは、ひきこもりではない」
 
などという批判がそうである。
 
それでは、ひきこもりが社会に対して発言する機会が
狭まっていく。
 
実際はもっとひきこもりの実像は広がっている。
 
しかし、「ひきこもり」概念が広がることは、
わざわざ「ひきこもり」という概念を設定した意味が
希薄になっていくという危惧も招いている。
 
次回は、そうしたことについて考えてみたいと思う。
 
 
 
 
  •   

    顔アイコン

    本当に引きこもりはネガティブなんだろうか?
    そうでは無い様な気がしてならないのだが・・
    家内に言わせれば私も立派な「引き籠り」だそうな。
    こんな明るく爽やかな「引き籠り」が果たしているのだろうか?!とさえ苦笑いしながら思ってしまう。 削除

    goodじいさん ]

     

    2018/11/13(火) 午前 8:12

     返信する
  •   

    顔アイコン

    ひきこもりを古今東西に散見される普遍的事象と捉えるのか、
    現代社会の社会制度を揺るがしかねない社会事象と捉えるのか、
    単純に二分すればこういうことではないでしょうか?

    俗世を厭うひとは一定数いますよね。
    例えばキリスト教修道院のmonasteryの接頭辞monoは
    「単独の」という意味で、修道院発生時には一人で
    修行していました。集団生活になったのは後代です。

    ざっとすぐに思いつくだけでも、西行サリンジャー
    原節子など、それに漱石の小説中に出てくる「高等遊民」など。

    おそらく現代日本のジャーナリズムが取り上げ、問題に
    しようとしているのは、狭義のひきこもりであって、
    直接、間接に社会制度を脅かすことになるという危惧が
    背景にあるのだと思います。

    雑感でした。 削除

    うらる ]

     

    2018/11/13(火) 午前 9:01

     返信する
  •   

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    「ひきこもり」はネガティブで暗いものだ、と社会が規定していれば、どうしてもそうなっていきますが、そのような環境による力が加わる前のひきこもりの「本態」は、そんなにネガティブではないですね。

    被差別部落や在日の問題と似たような構造があります。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/13(火) 午前 11:07

     返信する
  •   

    うらるさま コメントをどうもありがとうございます。

    monastryはmonkから来ているのかと思っておりましたが、そうですか、mono- から来ているのですね。こんにちでいう「お一人様」をあらわす接頭辞だったというわけですね。

    おっしゃるように、ジャーナリズムが取り上げ問題にしようとしたのは「狭義」のひきこもりだったわけですが、明確にカテゴライズできる対象ではなかったために、今は「ひきこもり未満」などという語も生まれ、どんどん定義が拡大してきていますね。
    こうなると、もともと存在していた広義のひきこもりへ近づいていくのではないかとも思います。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/13(火) 午前 11:14

 

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