VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(63)「浜松方式」「静岡方式」を考える

 

今日は、勤労感謝の日であるからして、
働いていない私も、
勤労に想いを馳せてみる。
 
ひきこもりが勤労について考えるといえば、
これはもう就労支援である。
 
最近、就労支援で新しく小耳にはさんだ案件が
どうしても思い出されるのである。
 
それは、相変わらず出没させていただいている、
ある「ひきこもり親の会」で
私の小耳に入ってきた語であった。
 
 
「浜松方式」
 
という用語である。
 
 
「静岡方式」
 
というのも聞いたことがあるので、
 
「どう違うんですか」
 
と聞いたところ、
なんと両者は同じものなのだという。
 
ちょっと待て。
静岡と浜松では、えらい違いである。
いっしょくたにするとは、いかがなものか。
 
たしかに浜松は、静岡県内の都市ではあるが、
商圏や文化圏は、静岡とはまったくちがう。
 
遠州」という独自なエリアを形成しており、
もしくは遠く名古屋の衛星都市といった趣きもある。
静岡は、むしろ東京に近いのではないか。
 
しかし、私がそんな文句をいっても仕方がないわけで、
ともかく「浜松=静岡方式」とは、
ひきこもりを働かせるための、
ようするに就労支援の方法論の一つの名称であるらしい。
 
犯罪や非行をおかした未成年を更生させる
保護司さんが浜松で考案した方法論だという。
 
「保護司さんが考案した」
 
ということは、つまり、
 
「犯罪をおかした青少年を更生させたのと同じように
ひきこもりを就労させれば、
ひきこもりはひきこもりから脱することができる」
 
という思想が背景にある。
 
東京都が、ひきこもり対策の部署を
 
「青少年治安対策本部」
 
に置いていることは、すでに悪名高いが、
どうもひきこもりというと、
犯罪者予備軍や、
すでに犯罪をおかした者のように扱われる傾向があることに、
私は抵抗感をおぼえざるをえない。
 
べつに、犯罪をおかした青少年を差別する意図はない。
 
犯罪をおかし、少年院に送致された未成年たちも、
それぞれにやむを得ない背景があることは承知しているし、
少年法の主旨は理解している。
 
しかし、だからといって、
犯罪をおかしていないひきこもりを
犯罪をおかした彼らと同じように扱おうとする動きには、
おおいに抵抗が残るのである。
 
その理由の一つは、このようなことだ。
 
ひきこもりの中には、
 
「このまま自分が外に出たら犯罪をおかしてしまう」
 
と予感し、
 
「犯罪をおかさないためにひきこもった」
 
と述べる者が多い。
 
そういう者は、
自分がひきこもることによって、
社会の犯罪を一つ減らしたことになる。
 
この社会貢献に、プラスの評価を与えるべきではないか。
 
プラスの評価は、報酬といってもよい。
 
もし、そうでなければ、
彼らの自己抑制には報酬が払われないことになり、
それだけ自己を抑制するのが馬鹿馬鹿しいことになる。
 
すると、それだけ「犯罪をおこさないようにする」ことに
青少年が価値を感じられなくなり、
ひいては犯罪率の増加を誘発する要因となるだろう。
 
また、犯罪をおかした少年の更生とは、
「既存の社会の価値観が正しいものである」という大前提があり、
そこへ少年をふたたび取りこんであげるものである。
 
いっぽう、ひきこもりの場合は、
既存の社会の価値観が正しいとは思わないから
ひきこもっている者も多い。
 
そのあたりの前提がちがうのである。
 
そういう者をむりやり社会へ取りこむことは、
ひきこもりの主体や思想を否定することに他ならない。
 
 
 
 
 
 
 
「浜松=静岡方式」に、
私が抵抗感をおぼえたもう一点は、
 
「ひきこもりに考える時間を与えない」
 
というキャッチフレーズであった。
 
ひきこもりをまずキャンプに送りこみ、
ひきこもり「でも」雇ってくれる「篤志家」の経営者と集団面接をさせる、という。
 
そして、ひきこもりに迷っている時間をあたえず、
どんどん就職させ、どんどん現場へ送り出す、
というのが「浜松=静岡方式」だというのである。
 
従来の就労支援との違いは、
事前に就労訓練の期間を設けないで、
「アットホームな」キャンプを経て
いきなり仕事の現場にほうりこむ、
という点にあるらしい。
 
一般社会でいう
OJT(On-the-Job Training)というやつである。
 
就労訓練の期間を与えていると、
訓練しているうちに、
就労するのがいやになってしまうから、
その期間を与えない、
という「配慮」があるのだという。
 
それよりは、いきなり現場の責任を与えてしまったほうが
ひきこもり本人もやりがいがあって
そのまま働き続けやすいだろう、
という考え方であるらしい。
 
なるほど、ひきこもりも
「社会参加したい」
「自分も社会に役立っていると思いたい」
という人は多いから、
そういう方式が功を奏する時もあるだろう。
 
しかし、それによって
ひきこもりにかかるストレスは
倍増することも予想される。
 
だが、「それがいい」と
「浜松=静岡方式」の主唱者たちは
考えているきらいがある。
 
「社会は厳しいものなのだ。
 さっさと大きなストレスを経験済みにして
 その中へ飛びこんでしまった方が、
 その前で足踏みしている時におぼえる恐怖感が少ない」
 
と。
 
 
 
 
 
 
このように、
「浜松=静岡方式」に対する私のイメージは、
すこぶる悪かった。
 
そのような中で、ある市のひきこもり親の会が、
「浜松=静岡方式」の「先生」なる人を招いて
学習会をおこなうというので、
私も、ひきこもりの親みたいな顔をして
出席してみたというわけである。
 
いろいろと質問もしたし、
批判もさせていただいた。
 
私が、こうした親の会に出たときの常として、
参加者である他の親御さんと不穏な議論にもなった。
 
しかし、ともかく彼らが私に対して強調したのは、
 
「浜松=静岡方式については、
 その良さは体感するものであり、
 口で説明してもわからない。
 とにかく、あなたが考えているほどひどいものではない」
 
ということであった。
 
ひきこもりが送りこまれるキャンプも、
ボランティアでやってくる大学生などもたくさん居て、
すごく楽しいのだ、と。
 
そして、お節介を焼いてくれる親切なおばさんたちに囲まれ、
「家族のような」温かい雰囲気のうちに
就労の前線へ送りこまれていくのだ、という。
 
私も、
ボランティアの女子大生たちにだったら囲まれてみたいが、
男子学生だったらそんなに囲まれたくないし、
キャンプと聞いただけで、
なにやらつらそうなイメージが頭をよぎる。
 
どうも、合宿とかキャンプという言葉には、
私はせっつかれるようなイメージがつきまとう。
 
「苦労を共にする、感動的な場」
 
などといわれるが、
私にいわせれば苦労は個人でするものである。
 
みんな一緒に苦労を体験しても、
けっきょく苦労という感覚は個人の体験である。
 
ある程度、年齢が上になったひきこもりであると、
まだ人生の何をわかっているわけでもない
若い大学生たちと寝起きを共にしたところで、
 
「お前たちに、ひきこもりの何がわかるか!」
 
と言い捨てたくなる、ということはないのだろうか。
 
 
 
 
 
 
また、「浜松=静岡方式」では、さかんに
 
 
お節介の価値
 
 
というものを賞揚する。
 
キャンプもそうだが、
その後のひきこもりのフォローアップにかかわるおばさんたちは、
みな「ボランティア」なのだという。
 
プロフェッショナルではない、ということだ。
 
お金を取らない。
支援と金儲けを絡ませない。
 
それだけに、
お金で割り切られない深いお付き合いが期待される、
というのだが、
そういうものを聞いた途端に寒気のするひきこもりもまた、
多いのではないだろうか。
 
経済的に搾取されないのはよいが、
お金を払わないということは、
「借りができる」という感覚が発生する余地を持つ、
ということでもある。
 
私などは、
たとえば近所のオバサンたちに
「ボランティアで」「お節介」をされるとなると、
まるでゴキブリやゲジゲジが出てくるような
なぜかおぞましさを覚えるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
ひきこもりの中にも、
「働きたい」
と思っている当事者はたくさんいる、という。
 
そういうひきこもりたちにとっては、
「浜松=静岡方式」は有効であるかもしれない。
 
「浜松=静岡方式」の入り口であるキャンプへ行こう、
と思った時点で、
すでにその当事者の就労への意思は
確認されたようなものである。
 
しかし、就労しようと思っていない当事者、
あるいは、そこまで踏ん切りがついていない当事者は、
「考える時間も与えられず」
そんなキャンプへ送りこまれることは、
まるで強制収容所に送りこまれるようなものである。
 
したがって、「浜松=静岡方式」とは、
きわめて限られたひきこもり当事者層にのみ
有効な方法であると思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この「浜松=静岡方式」の勉強会をおこなった親の会は、
 
「とにかく手詰まりだから、何でもやってみようと思って」
 
その「先生」を招いた、とのことであった。
 
しかし、「浜松=静岡方式」もしょせん
親はそのままで、
変わることは子に強いる方法論である。
 
そんなに手詰まりならば、
親が自ら変わることを試みてはどうだろうか。
 
そう思ったので、私はいつものように、
その親の会に対しては、
 
ひきこもりの親御さんと
ひきこもり当事者である私の壇上討論(*1)
 
を提唱しておいた。
 
 
 
 
 
 
  •   

    顔アイコン

    「おせっかい」は僕も寒気を覚える方である。
    色々の言葉をかけてくれたり、解説、講釈を並べられると心の中では「もういいから」と呟いている。
    現場にいきなり放り込んでも其れを受ける方も迷惑な話しで、放り込まれた本人もたまったもんじゃないだろう。それに「やってやっいるんだ」何て顔をされたら面白くも何ともない。
    「引き篭る」事を前向きに評価するという考え方は面白いと思います。僕も賛成ですね。
    最近、「ひきこもり」でない「ひきこもり」が見え隠れする。潜在的なひきこもりが蔓延しているように感じますが・・ 削除

    goodじいさん ]

     

    2018/11/23(金) 午前 8:19

     返信する
  •   

    顔アイコン

    記事で考察されているように、
    「ひとつの」方法論が万能なわけはないですよね。
    これは、どんな問題についても共通します。
    「○○方式(式)」も、限定的には有効なのでしょう。
    未知のものごとに対して、ひるんでしまうことは
    ありがちですし。

    「ボランティアの女子大生」も、いつかは、ボランティアの
    (おぞましい?)おばちゃんになり得ます。
    逆に、ボランティアのおばちゃんも、かつては、
    見目うるわしき女子大生だったかもしれません (笑) 削除

    うらる ]

     

    2018/11/23(金) 午前 9:08

     返信する
  •   

    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。

    私もお節介は背筋に寒気が走ります。

    おっしゃるとおり、最近は

    「ひきこもり未満」
    「ひきこもり系」
    「ひきこもり親和群」

    といった言葉で、ひきこもり概念が拡大していますね。
    経済低成長時代には、ひきこもりが趨勢を極めていくかもしれません。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/23(金) 午後 2:13

     返信する
  •   

    うらるさま コメントをどうもありがとうございます。

    たしかに、「…方式」と名がつくものは、
    ことごとく有効性は限定的ですね。

    「おばちゃん」「オバサン」「オバサマ」など、
    中高年の女性の分類は謎に満ちています。

    50代の男である私の目には、
    多くの50代60代の女性が
    美しくすてきに見えます。

    40代など、もう「若い女性」です。

    親切にしてくれる中高年の女性は、
    いっそう優しく魅力的に見えます。

    ところが、
    お節介してくるようになると、
    一転しておぞましい「おばちゃん」になってしまうんですよね。

    きっと女性陣から見た「オジサマ」と「オヤジ」の分類も似たようなものでしょう。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/11/23(金) 午後 2:19

 

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