VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

当事者活動を考える(20)ひきこもりと生産性

当事者活動を考える(19)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
あさって日曜日、大阪でひきこもりに関して、
ちょっとしたシンポジウムが開かれる(*1)。
 
*1.毎日新聞 2018.12.6

 
NPO法人ウィークタイさんのお招きにより、
私もそこへゲストとして登壇することになっている。
 
テーマは、
 
生産性のないひきこもりに人権はあるのか
 
というものであるらしい。
 
今年の流行語大賞は、
すでに「そだねー」に決まったそうだが、
私はむしろ
 
「生産性」
 
が、その賞を取るべきであったと思っている。
 
それほど、「生産性」が多く語られる一年となった。
 
というのも、今年7月、衆議院議員杉田水脈が発表した
「生産性」論文によって、
しばらく言論界は大揺れに揺れていたからである。
 
その余波も、今はいっけん落着したかに見える。
 
あの一連の事件で、
何がいちばん情けなかったかというと、
掲載した「新潮45」の廃刊である。
 
私は、杉田議員の生産性論に与する者ではないが、
新潮45」が杉田議員の援護射撃をするような特集を組むのは、
一つのメディアとして自由だと思う。
 
自由、というのは、
もちろん責任を取るつもりで行使しているのだろうから、
自由だろう、ということだ。
 
そして、その際の「責任」とは、
叩かれても持ちこたえ、
言論の公器としての機能を果たし続ける、
というメディアの役割にあったはずであって、
 
「叩かれたから、あっさり廃刊します」
 
というのは、
メディアとしてまったく責任を取っていないと思うのである。
 
18世紀の啓蒙思想ヴォルテールは、
 
「あなたの意見には反対だ。
 しかしあなたが意見をいう権利は、私が命を賭けてでも守る」
 
と言った。(*2)
 
*2.異説もある。
 
これが「言論の自由」とは何かを
端的に表しているといわれている。
 
新潮45」は、続刊して
「責任をもって」
言論で対抗するなり、
カラーを転向するなり
すべきであった、と私は思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、そのうえで杉田論文そのものに入っていくと、
いちばん問題となった部分は、
 
LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです
 
という箇所であったといわれている。
 
つまり、語られている生産性は、
「人口の再生産(reproduction)」
であって、
「経済的生産性」
ではないのである。
 
LGBTでも結婚し、
子どもを育てられなくなった異性愛カップルから
養子をもらうなどして、
次世代の再生産に寄与している人たちがいる。
 
また、子どもを産み育てることだけが、
「人口の再生産」
ではない。
 
ゆえに、杉田議員が言っていたことには、
いろいろな点でおかしく、
LGBTには生産性がない」などとは、
まったく言えないのだが、
なにやら今さらそのことを論じてもしょうもない、
という感じがする。
 
だから、横へ置いておこう。
 
「人口の再生産に加わらない」
ということで批判するなら、
なんといっても「ひきこもり」や「ニート」の方が
LGBT」よりも真っ先に槍玉に上がりそうなものである。
 
じっさい、
子どもをつくってからひきこもりになるパターン(*2)
も多くあるのだが、
社会の認識が、まだそこまで追いついていないから、やはり
「ひきこもりは人口的再生産をしない」
というイメージが一般にはあるだろう。
 
 
「経済的再生産」
 
となると、いよいよ
「ひきこもりは生産性がない」
と考えられがちである。
 
どちらかというと、後者が主に
ひきこもりが叩かれる理由の中心を成しているといってよい。
 
大阪で開かれるシンポジウムも、
そこに焦点を当てたいのだろうと思う。
 
 
 
 
 
 
本ブログの読者みなさまはご存じのように、
私は幼少期の虐待トラウマによりうつを発症し、
それを治療しようと
家族療法を専門とする医療機関にかかったところが、
さらにそれをひどくされる「治療」なるものを施され、
そのためにひきこもりを脱しない者である。
 
当の精神科医、塞翁勉は医療過誤を認めていない。
 
ここまで私の年齢が上がってきてしまうと、
もはや「ひきこもりを脱する」ことを目指すよりも、
「残りの人生をむしろひきこもりのまま生きていく」
もしくは
「ひきこもりのまま社会にかかわる」
ということを模索したほうがよいように思われる。
 
それが私の大雑把な来歴と、現在地である。
 
こういう私は、
いわゆる経済的生産活動はしていない
 
シンポジウムのテーマの前半にいう
 
「生産性のないひきこもり」
 
という存在である。
 
講演や番組出演などでギャラを得ても、
生活保護を受給している福祉事務所に収入申告する時に、
それは「勤労収入」とみなされない。
 
宝くじが当たった時などと同じ
「臨時収入」として認定されるため、
控除率が高い。
 
つまり、わかりやすくいえば、
 
「そんなの、働いて得たのではなく、
たまたまラッキーに入ってきただけだろ。
お前さんはふだん国民の税金で生きているんだから、
こういう金はこちらがガバッと持っていくぜ」
 
という扱いである。
 
生活保護で生きる、とはすなわち、
そういうことであるから、
そのこと自体に私はいまさらとくに不満はない。
 
しかし、このように
私としては「仕事をした」つもりになっても
いっこうに「金にならない」ということになる。
 
すると、いよいよ
 
「お前は金を稼いでないから、働いているわけじゃない。
 ゆえに、お前は何も生産してない」
 
と言われることになる。
 
理由と結果をそのつど入れ替えて、
同じ見方、同じ認識がダビングされていくのである。
 
それでは、私はほんとうに何も生産していないのだろうか。
 
私の生産性はゼロであろうか。
 
どうも、そうは思えないのである。
 
このように、1円にもならない言葉を
毎日、発信している。
 
それによって
「考え方が変わった」
「救われた」
と言ってくださる方がいる。
 
たとえば、精神療法の闇などは、
私が発信するまでは、
誰も社会で言語化していなかった問題ではないのか。
 
となれば、
私はなにがしかの「生産」をしているのではないか。
 
たしかに私は「ひきこもり」であるが、
 
「ひきこもりであるために、生産性がない生活をしている」
 
とは言えないのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
すると、ひきこもりの子どもを持っている親御さんなどは、
こうおっしゃるかもしれない。
 
「ぼそっとさんの場合は、まだしもそうやって
言葉を発信しているから
生産活動をしている、といってよいでしょう。
 
たとえ、結果的に1円にもならなくても、
そこまでは私も生産であると認めます。
 
でも、うちの子は何もしていないんです。
 
一日中、インターネットを見て、ゲームをやっているだけです。
 
だから、ダメでしょう、これは。
これは、やはり何も生産していない、と言わざるをえない。」
 
 
しかし、私も30代のころは、
まさにそんなひきこもりであったわけである。
 
外から光が入ってくるのも厭い、
カーテンどころか雨戸も締め切ってひきこもっていた30代は、
はたからみれば、私は
ただゲームをし、本を読んでいるだけだった。
 
ゲームは、ファミコンであり、
本は、紙の本である。
 
当時、まだインターネットが普及していないから、
結果的にそうであっただけの話で、
その後の時代にガチでひきこもりになっていれば、
オンラインゲームをして、
紙の本の代わりに一日中ネットサーフィンをしていただろう。
 
まさしく現在のひきここもり親御さんたちが
「生産性のない、うちの子ども」
と嘆く姿と同じであったのにちがいない。
 
だが、ふりかえってみると、
私にとって30代の「何もしない」ガチなひきこもりの時期があったからこそ、現在の言葉の発信があるといってよい。
 
あのころ、私は何もしていないように見えても、
ただゲームをしているだけのように見えても、
私の内面では日々、自問自答が進んでいた。
 
その自問自答から産み落とされたものが、
今の私から発信される言葉たちである。
 
何もしないで、ただひきこもっていた時間が、
まちがいなく言葉の生産という過程の一部を成している。
 
何かが生み出されてくるのが、
他者の目に見えることが生産なのではない。
 
生産性は、評価の視点によって
いくらでも変わるのである。
 
したがって、
「うちの子は何も生産していない」
となげく親御さんたちの子どものような
発信活動をしていないひきこもりも、
「働いている」
「生産している」
という意味では大差ない。
 
ゲームをするなり、本を読みふけるなり、
脳が働いているからである。
 
「五十歩百歩」とは、
まさにこのような時のためにある慣用句である。
 
私はよく、
「ひきこもりはパソコンのフリーズ状態と同じ」
という。
 
CPUが無限ループに入って、
稼働率100%なのに何もタスクが進んでいかないので、
何も生産していないように見えてしまうのである。
 
しかしパソコンを触ると、どんどん熱くなっている。
 
働いているからである。
 
なぜ、無限ループに入ってしまうのか。
 
そこは、ほんらい精神医学がヘルプを出す領域だが、
塞翁療法のように、いったん近づいたら蟻地獄のような
とんでもない精神療法もあるから、
ひきこもりが精神医療を選ぶときには、
じゅうぶん注意してほしいものだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
そんな思考から、私は
 
「生産性のないひきこもりに…」
 
というテーマの前半に異論がある。
 
さらに後半、
 
「…ひきこもりに人権はあるのか」
 
という後半にいたっては、もう疑問すら持たない。
 
人権は、「ある」と認めるからこそ成り立つ概念である。
 
それは、人権の由来が
自然法だろうが実定法だろうが
同じことのような気がする。
 
ISIS、イスラミック・ステートのように、
はなから人権は「ない」と考えている共同体で
人権を主張しても詮無いことであろう。
 
倫理的に正しいかどうか、はさておき、
現実的に詮無いことのように思う。
 
いっぽうでは、権利とは、
権利主体が主張しなければ、
権利があるかないかといった議論の俎上に乗らない。
 
「生産性のないひきこもりに人権はあるのか」
 
という問いは、
おそらく暴力的支援団体などに抗するために
生み出されてきたものではないかと思うが、
暴力的支援団体の暗躍は、
そのような業者と契約をむすんでしまう親と、
被害をうったえても事件として扱ってくれない警察に
かなりの部分の責任がある。
 
とすると、これは
抽象的で社会性の強い「人権」という概念で語るべき
問題ではないかもしれない。
 
 
 
 
 
・・・「当事者活動を考える(21)」へつづく
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    仰る通りである。
    「産めよ、増やせよ」から「生産性がない」まで「言葉」を知らない方が多すぎるのだ。
    法律、省令、告示に通達・・全て切り口を変えれば「黒が白」へ「黒が灰色」へと変わってゆくのだ。
    ぼそっとさんの云われるとおり「人権」を認めているからこそ此の論議ができるのだ。 削除

    goodじいさん ]

     

    2018/12/7(金) 午前 7:51

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    goodじいさんさま コメントをどうもありがとうございます。削除

    チームぼそっと

     

    2018/12/7(金) 午前 10:10

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