VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

当事者活動を考える(22)サバルタン的当事者とは何か

当事者活動を考える(21)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

 

前回「当事者活動を考える(21)」でお伝えしたように、

日曜日、12月9日は、大阪・豊中市で開かれた
ひきこもりコネクト」というシンポジウムで
お話しさせていただいた。
 
たいへん企画力の高いシンポジウムであった。
主催であるNPO法人ウィークタイさんの組織力は、
すばらしいものだと思った。
 
あらかじめ用意した何がしかの結論に
誘導して持っていくという企図ではないため、
ライヴ感も豊かであった。
 
議論の進行があちこちへ飛び、
文脈的にたどりにくかったという批判はあるようだが、
できるだけ多くの論点を取り入れて、
新しい視点からの問題提起をおこなって
議論が拡散して終わる、
という意図によるものであったらしい。
 
「人権」を支点(視点ではなく)として
ひきこもりの問題を語る、
という意味では、
今までにない画期的なイベントであったといえよう。
 
ただし、「ひきこもりと人権」を語るとき、
そこには、
のいう「サバルタン的当事者」の問題が基底にある
ということを忘れてはならないと思う。
 
そのため、当日も壇上から
その問題を提起させていただいた。
 
それを考えることなしには、
人権について何を語っても空しくなる危険がある、
と思うからである。
 
 
 
 
 
 
 
 
ひきこもりの人権が侵害されている場合として、
たとえば、どういう時があるだろうか。
 
まず浮かぶのは、
親が暴力的支援団体と契約してしまったために、
ある日突然ひきこもり部屋から引き出され、
更生施設という名の私設監獄へ拉致されていく場合である。
 
暴力的支援団体の被害者だ。
 
いっぽう、「精神医療と人権」を考えるとき、
人はおそらく「身体拘束」や「過剰投与」の問題を考えるだろう。
 
私の頭に思い浮かぶのは、
治療者によって催眠をかけられ、
「学費」なるものを保険診療の枠外で
半永久的に治療者に払いつづける阿坐部村の患者たちである。
 
搾取的精神医療の被害者だ。
 
両者は同じ構造をしている。
 
それでは、「彼ら」すなわち
暴力的支援団体や搾取的精神医療の被害者は、
 
「自分の人権が侵害されている」
 
と思っているだろうか。
 
あるいは、もっと深めて
 
「自分には人権がある」
 
ということが、わかっているだろうか。
 
「思っていない」「わかっていない」
と私は思うのである。
 
ここに、サバルタンと同じ構造の問題がある。
 
 
 
 
 
 
サバルタン(subalturn)」とは、
阿坐部村内戦が勃発してから、
ときどき私の頭にのぼっていたが、
昨年にひ老会を開催するようになってから
より鮮明に意識するようになった概念である。
 
おおざっぱには、
 
最底辺の当事者
 
という意味だと思っていただければよい。
 
もう一段、深めていうならば、
 
行為主体として社会的に存在していない者
 
ということになる。
 
それ以上に詳しく論じ始めると、
といったむずかしい話が出てきて、キリがなくなる。
 
1980年代、インド出身の女性哲学者スピヴァクが、
サバルタンについて語り始めたときは、
イギリスによって植民地支配をされた
インド社会の最底辺の人々
といった意味合いで用いられていた。

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G.C.スピヴァク (1942-  )
 
だが、そういう人々がいるのは、
何も植民地時代のインドだけではない。
 
だから、わかりやすくするために、
もう少し日本社会に引き寄せて考えてみよう。
 
たとえば、「貧しい労働者」というものは、
これまで社会的弱者の代表として、
事あるごとに論じられてきた。
 
日本では『蟹工船』に出てくるような
ルンペン・プロレタリアートである。
 
しかし、いかに低賃金で搾取されていようとも
労働組合に加入し、賃上げ闘争をおこない、
自分たちの「不遇」を社会に訴え、
それがやがて実を結び、
人生の環境が改善していく可能性が残されている。
 
もし貧困層に篤い法律がさだめられれば、
福祉や社会保障などの恩恵にもあずかれる可能性もある。
 
権利があれば、「権利を行使する」とは何か、を知っている。
 
そういうかたちで、
社会の一員となっているわけである。
 
スピヴァクの辛辣な表現でいえば、
帝国主義的主体」
を持っている、ということである。
 
それにたいして、たとえば
古くはジプシーと蔑称された、
一つの国の国民としてパスポートも持たない、
流浪する貧しい階層の人たちはどうだろう。(*2)
 
*2.これはスピヴァクが挙げた例ではない。
 
一つの場所に留まっておらず、
戸籍やパスポートもなく、
学校教育も受けていないため、
自分たちの部族語しか話せない。
 
「権利」「義務」「人権」といった
西洋知から発祥する概念は知らず、
民族的無意識からもたらされた
神話のような世界観にただよって生きている。
 
彼らは社会制度の外にある。
 
労働組合を結成することもない。
賃上げ闘争をすることもない。
そもそも、そういうことをする「言語」を知らない。
 
そういう人々がいるのは、
なにも植民地時代のインドだけではないだろう、
ということである。
 

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いつの時代、どこの国の文化にも、
サバルタンに相当する人々や階層はいるはずだ。
 
 
「ひきこもり界隈」
「ひきこもり大陸」
 
と呼ばれる人口層にも
 
サバルタン的当事者」
サバルタン的ひきこもり」
 
といった人たちはいる、ということである。
 
そう考えてくると、
 
「ひきこもりと人権」
 
といったテーマで語るのにも、
まず「私たち」と「彼ら」の境目をどうするのか、
という問題が出てくるのである。

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この図は、模式的にあらわしたものであり、
現実には明確な一本の境界線が引けるわけではない。
 
境界はもっと曖昧模糊としている。
グラデーションかもしれない。
しかし存在することは確かだ。
 
いくら「私たち」が
シンポジウムや講演会といった場で
 
「ひきこもりの人権が…」
 
などと語っても、
そういう「私たち」自身は、
いま現在、人権の侵害を受けているとはいいがたい。
 
たとえば、私は
ひきこもりで働いていないからといって、
近所のオバサン連中にジロジロ見られるのがいやだ。
 
しかし、それを真顔で
「人権侵害」などと私が言い始めたら、
 
「被害者に回りこむのもいいかげんにしろ」
 
という話になる。
 
もし、ほんとうに人権の侵害を受けていると思うならば、
「私たち」は訴える主体と言語を持っているのだから、
このようなシンポジウムで語っているよりも先に、
司法機関その他に訴えるなり、
このようにインターネットで告発するなり
すればいい、という人も出てくるだろう。
 
いっぽうでは、
ほんとうに人権が侵害されていると思われる、
暴力的支援団体に監禁されているようなひきこもり当事者は、
私がいうサバルタン的当事者である。
 
「彼ら」は、このようなシンポジウムには出てこれず、
出てこないからそのような環境にとどまりつづけ、
それゆえに「私たち」からは目に見えない所にとどまり、
「私たち」の声は届かない。
 
「彼ら」には「私たち」の言語を受信する力もない。
 
だから「彼ら」は、
「彼ら」自身の当事者の声を発信することもない。
 
ここにスピヴァクのいう
 
サバルタンは語ることができない(*4)
 
という事態が成り立つのである。
 
*4.G.C.スピヴァクサバルタンは語ることができるか』
上村忠男訳, みすず書房、1998年, p116
 
 
 
 
 
 
 
 
 
壇上で私が、
今年2月に起こった札幌母子餓死事件に言及したところ、
同じく登壇していたジャーナリストの池上正樹さんが、
こんな追加情報を同じく壇上で提示してくれた。
 
餓死した母親は、生前において
近所の人が彼女たち母子に生活保護の受給を勧めても断った、
という新事実が出てきた、
というのである。
 
なぜ断ったかは、わからない。
 
A: なにやら面倒くさい手続きがあるみたいだから断った。
 
B: 自分のような者は支援してもらう資格がない
 と思うから断った。
 
C: 誰にも借りを作らずに、
 餓死するのが自分の美学だと思うから断った。
 
などなど、さまざまな仮説が成り立つであろう。
 
もし、であったなら、
彼女は「権利を行使する」とは何か、がわからない
ほんとうのサバルタン的当事者であったということになる。
 
もしCであったなら、
彼女は自分の意思をつらぬいたことになるかもしれない。
 
しかし、娘さんまで餓死するのが、
彼女の美学や本望であったとは、
ちょっと考えにくいのである。
 
それに、美学をつらぬいて死ぬ人は、
なんらかの方法で自分の美学の存在を
死後に残すものではないだろうか。
 
部屋に残されていた9万円が、
そのメッセージであったとも考えがたい。
 
彼女は、社会の制度を利用して
自分たちが生き延びる「権利がある」と思っていたか。
それとも、思っていなかったか。
 
そこが大きな分かれ目になるが、
今回入ってきた新しい情報では、
まだ判別できない。
 
サバルタンの声は聞くことができない」
のである。
 
 
 
 
 
いずれにしても、
 
「人権を尊重しましょう」
 
などという、わかりきったことを
いくらアジテーションのようにマイクでがなり立てても、
そこには空しさがつきまとう。
 
そのように非の打ち所がない無難な正義のスローガンを
いまさらのように叫ぶことは、
それ自体が社会から存在承認をかすめとる
せこい手立てである。
 
そういうスローガンを叫んでいるくせに、
自分の頭のなかでは
「権利」「義務」「人権」
といった基礎的な語義がわかっていないとなれば、
これはもうお笑いということになる。
 
いや、じつはこういう者が、
日本のような社会にはいかに多いことか。
 
やはり「人権」について考えるとなったら、
人権が尊重されていない個別の場面では、
なぜそうであったか、
と考えないことには実がないと思うのである
 
人権を蹂躙された被害者は、
自分に人権があることを知っていたか。
 
知らなかったのなら、なぜ知らなかったのか。
 
知っていたのなら、
知っていながら、自分の人権を訴えられなかったのはなぜか。
 
……などなど、
もう一歩踏み込んだ地点で、
事例をもっと細かく見ていくのがよろしいのではないか。
 
 
 
 
 
・・・「当事者活動を考える(23)」へつづく

vosot.hatenablog.com

  •      

    顔アイコン

    おはようございます。

    サバルタン」の問題って、やはり私がブログで綴ってきた「公認されない社会的弱者」の問題と少なからず共通点がありますね。

    私は「障がい者=公認された社会的弱者」を無理やりでっちあげ、ジョブコーチや障害基礎年金などを利用して現在まで生きてこれました。

    しかし、「福祉や権利を利用する知識」が無ければ、それこそ何もできないわけです。

    というよりも、「公認されない社会的弱者≒サバルタン」って、「福祉・権利の利用」を拒絶してしまう。
    スティグマ(烙印)のようなものだと思ってしまっている。

    私も「結婚している引きこもり・二条淳也」さんに「障がい者福祉の享受」を勧めたら拒絶されてしまいました…

    サバルタン」はこれからHIKIKOMORI問題を考える上での課題でしょうね。 削除

    豚猫大好きぶーにゃん ]

     

    2018/12/12(水) 午前 8:29

     返信する
  •      

    豚猫大好きぶーにゃんさま コメントをどうもありがとうございます。

    あなたのおっしゃる「公認されない社会的弱者」は、私の解釈では、弱者として他者の目に見える「記号」を持っていない人々のことをいうものだと考えています。
    記号の代表的な例が、「身体障碍」です。

    しかし、その気になれば、精神障碍を「無理やりでっちあげて」、手帳を申請することもできる。その意味で、私の申し上げている「サバルタン的当事者」とはちがうように思います。削除

    チームぼそっと

     

    2018/12/12(水) 午前 9:28

     返信する
  •      

    顔アイコン

    ぼそっとさん こんにちは^_^
    大阪までお疲れ様でした。
    できればご講演をお聞きしたかったです。

    私たちにとっても、
    基本的人権の尊重については、
    常に頭から離れない難題です。
    健康で生き生き活動している方でさえ、
    自分の権利を主張するには相当なハードルがありますから、
    ましてや、そうでない方が自ら主張するのは…
    権利を主張するには相当なエネルギーがいりますよね…
    そして、極限状態になれば正常な判断力はなくなりますし
    そこで感情が残っている場合は、
    目の前にいる方がたとえ誠実な支援者であっても、
    プライドが邪魔をしてイヤ、というのか、
    ただ単に、人と話したくないからイヤ、というのか、
    人それぞれだと思いますが。
    半年くらい前からご相談をうけている方でも、
    行政でもお手上げで、
    どうしてよいやら、と頭を痛めています。
    いいお話をまた聞かせて下さいね^_^ 削除

    OSD馬場佳子 ]

     

    2018/12/12(水) 午後 0:17

     返信する
  •      

    OSD馬場佳子さま コメントをどうもありがとうございます。

    > 目の前にいる方がたとえ誠実な支援者であっても、プライドが邪魔をしてイヤ、というのか、
    ただ単に、人と話したくないからイヤ、というのか、


    私はまだ「当事者」という立場なので、
    相手がシャッターを下ろしたら、
    それ以上踏み込んでいかなくてもよいことが
    初めから前提として組みこまれているので、
    その点、気楽だと思います。

    しかし「支援者」というお立場ですと、
    シャッターを下ろした相手でも
    「なんとかする」ことが期待されるわけで
    その点、頭が痛いでしょうね。

    あまりしつこく「なんとかする」と、
    図らずも相手の人権を侵害することに
    なってしまいますものね。

    その方は、他の当事者ならば話を聞く
    ということはありますか。

    心中お察し申し上げます。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/12/12(水) 午後 3:25

     返信する
  •      

    ぼそっとさんこんばんは。

    先日のお話、興味深く聴かせていただきました。

    ぼそっとさんがいう日本のサバルタンは情報が届かない為、使える資源も知らずアクションを起こすこともできない、自分にとってどうすればいいかも選択することができない人のことでしょうか?

    情報も理解もしており使わない選択ができている人はサバルタンデはないということですね。

    日曜日のお話を聴いて新たなことを考えさせられる毎日です。
    とても良い機会になりました。
    ありがとうございました。 削除

    okappi ]

     

    2018/12/12(水) 午後 9:21

     返信する
  •      

    okappiさま コメントをどうもありがとうございます。

    そういうご理解でよいと思います。

    情報や知識が届かない、あるいはそれらが受信できないため、使える社会資源も知らずアクションを起こすこともできない人々が、私のいう「サバルタン」です。

    「情報を理解していて、それを使わない選択ができている人」はサバルタンではありません。選択する主体や意思がそこに見い出せるからです。

    日曜日はお越しいただき、どうもありがとうございました。私にとっても大阪の当事者の方々とお話ができる良い機会となりました。 削除

    チームぼそっと

     

    2018/12/12(水) 午後 10:19

     
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