VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

治療者と患者(297)ひきこもりの自己決定権を否定する治療者

治療者と患者(296)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害

 

 

あの患者が私のクリニックをつぶそうとしている
 
と言って、精神科医、塞翁先生が、
私、ぼそっと池井多への批判を
他の患者たちに広めていることは、
先日(*1)、お伝えしたとおりである。
 
 
 
1990年代に一世を風靡ふうびした、
塞翁先生の治療共同体「阿坐部村」は、
治療者と患者、
治療者に与する転移患者、
治療者から被害を受けた、自分の頭で考えられるまともな患者
の四つ巴の戦いの場と化してしまっている。
 
これが2010年代における精神療法の現実である。
 
その批判の延長であったのだろう、
10月に福岡でおこなわれた学会では、
どうやら自分の息のかかった若手の治療者たちを相手に、
塞翁先生は、同じように
ぼそっと池井多批判を繰り広げたようである。
 
その学会は、
塞翁先生自身が作ったものだ。
 
自分でつくった学会しか、
塞翁先生は出られない。
 
一般の精神科医神経科医などが多く所属する
全国的な学会などでは、
塞翁先生はすぐに居場所を失う。
 
自分が中心でないために、すぐダダをこねて
脱会してしまうからである。
 
塞翁先生は、他者と対等な関係で共存することができない。
 
他者をすぐ、自分の「下」に組みこもうとしてしまう。
いまの表現でいえば、
すぐ「マウンティング」してしまうのである。
 
しかし、そんな治療者人生を歩んでいると、
自分の話を聞いてもらえるのは転移患者だけ、
というみじめな状態になってしまう。
 
それはそれで、塞翁先生のプライドが許さない。
 
そこで、ときどき自分を会長とした新しい学会をつくって、
他の治療者に自分の話を聞いてもらう場を
確保しているのである。
 
こうして塞翁先生は、
自分を会長や理事長とした
小さな学会や団体をいくつも持っており、
つねにそこで自分がトップに君臨している。
 
 
 
 
 
 
今回、私への批判を展開した福岡大会も、
タイコ持ちのような若い治療者がたくさん集まってくる、
塞翁先生が自ら持っている小さな学会であった。
 
その時のレジュメによれば、
まずこういうくだりが出てくる。
 
現代の市民は情報発信可能な、少数の一級市民と、情報の受け手であることに終始する二級市民(非一級市民)に階層化されている。

その階層分化は否認され、言論化、活字化もされていないが、表現しようのない憤怒は大衆の間に蓄積されていて、爆発の機会をうかがっている。

二級市民の中に広まる電子的情報発信(TwitterFacebookなど)は、真の発信力の裏付けを欠いた偽の発信である。
 
「一級市民」と「二級市民」。
 
その階層分化は否認され、言論化、活字化もされていないが、」
とあるのは、
まさに塞翁先生を頂点とする阿坐部村の
 
「上級患者」と「下級患者」
 
を想わせる。
 
阿坐部村のなかでは、
私が言いだす前は、
誰も「上級患者」「下級患者」とは言わなかった。
 
なぜならば、
その階層分化は否認され、言論化、活字化もされていな」かったからである。
 
多くの患者がなんとなく感じていたが、
否認され、言論化、活字化もされていな」かったために、
私たちは言い出せなかったのである。
 
今回、「一級」「二級」と市民を上下の序列を分けることで、
塞翁先生の中にそういう人間観があることが、
逆に浮き彫りになった。
 
つまり、塞翁先生はいままで「言論化」しないまでも、
かなり明白な意識をもって、
阿坐部村の中の患者を
「上級患者」「下級患者」
と分類していたのだろう、ということが、
今回の福岡講演で逆にわかったような気がする。
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに、上記の短い、たった3つの文章のなかにも、
塞翁先生には、すでに著しい矛盾が見られる。
 
はじめの一文で、
 
一級市民……情報発信可能な市民

二級市民……情報の
受け手にしかなりえない市民
 
と分類しておきながら、
舌の根も乾かないうちに、
3番目の文章の主旨は、
 
二級市民……情報を発信する市民
 
に変わっているのである。
 
すなわち、
 
二級市民の中に広まる電子的情報発信(Twitter, Facebookなど)…
 
と言っている。
 
これは、なにも高度な読解力などなくても、
阿坐部村の転移患者でもわかることである。
 
塞翁先生のいう二級市民は、
情報が発信できるのか、できないのか。
 
その規定が統一されていない。
 
ということは、すなわち
塞翁先生の中に、
とくに確固たる考えがあるわけではない、
ということだ。
 
このように、
コロコロと言っていることが変わるのは、
さいおうディスクールの特徴でもある。
 
 
このように文章として読むと、
矛盾がはっきりとわかるのだが、
塞翁先生特有の眠くなるような低い声で、
滔々と聞いていると、
そのような矛盾には気づかないで過ぎてしまう。
 
ましてや、
 
「塞翁先生がいうことは、何でも正しい」
 
という前提を基底に持っている転移患者たちは、
ぜったいに気づかない。
 
 
 
 
 
 
さて、塞翁先生がこのように
インターネットで情報発信している人間を
「二級市民」
とバカにして見せたのは、
私、ぼそっと池井多を批判するために他ならないようである。
 
ようするに、塞翁療法の真実をあばき、
インターネットで発信している私を、
なんとしてもつぶしたいのである。
 
件のレジュメは、このように続く。
 
出産、婚姻、進学、就労といった市民生活の様々な局面で、現代市民は自己決定を迫られている。しかし最適な決定に必須の情報を彼らの殆どは持っていない。彼らにとって比較的無難な選択は自己決定権の放棄、つまりヒキコモリである。
 
つまり、塞翁先生は、
 
ひきこもりとは
自己決定権を放棄している存在である
 
と考えている、というわけである。
 
ここに、塞翁先生の
精神科医としての致命的な誤りがある。
 
ひきこもりは、
必ずしも自己決定権を放棄した「成れの果て」のような
存在ではない。
 
そこには「ひきこもっている」という自己決定が
働いている部分がある。
 
「部分がある」というのは、
全体ではない、ということだ。
 
言い換えれば、
自己決定か、自己決定でないか、
という単純な二項対立ではとらえられない行動現象が、
ひきこもりなのである。
 
自己決定か、自己決定でないか、
というのは、
「ひきこもりは意志の産物か、否か」
という二項対立で考えようとするのと同じである。
 
そんな薄っぺらな考え方では、
ひきこもりという行動を理解することはできない。
 
私やギードのように、
はじめは意志してひきこもりになったわけではなかったにしても、
しだいに自分の属性と現実を受け容れて、
現在のひきこもり状態に責任を持とうという
ひきこもりもたくさんいるのである。
 
塞翁先生の、
 
「ひきこもりは自己決定権の放棄」
 
という考え方は、
そのまま暴力的支援団体などの存在を容認するものである。
 
これも、当然であるといえよう。
 
なぜならば、私がしばしば指摘させていただいているように、
ワントラップスクールなどの暴力的支援団体と、
リカモリング・アホバイザー制度という搾取的医療機関は、
同じ構造を持っているからである。
 
治療者なり支援者なりが、
当事者(患者)に対して
 
「よしよし、私がお前さんの人生を決定してやろう」
 
という家父長的な態度をとるためには、
あらかじめ当事者が自己決定権を放棄していなければならない。
 
そのため、ひきこもりは
自己決定権を放棄した存在である、
としなければならないのである。
 
塞翁療法では、
さいおうミーティングなどにおける催眠で、
患者を「去勢」して、
自己決定権を失わせる。
 
 
 
 
 
 
塞翁先生は書く。
 
二級市民の中に広まる電子的情報発信(TwitterFacebookなど)は、真の発信力の裏付けを欠いたの発信である。
 
つまり、
 
「インターネットに書かれていることはウソだ。
 
ぼそっと池井多が暴露していることは、ウソです」
 
と言いたいのであろう。
 
このようにインターネットで発信する者と
ひきこもりを同一視したのも、
私、ぼそっと池井多を攻撃する論理的な素地をつくるためであったと思われる。
 
しかし、こちらは、多くの患者の証言や音声データなど、
塞翁勉がもはや言い逃れのできない証拠を取り揃えて、
告発しているのである。
 
インターネットに書かれることがすべて嘘とは、
いちがいに断定することはできない。
 
また、塞翁先生のそのような論は、
必然的に塞翁先生自身の首を絞めることになるだろう。
 
なぜならば、塞翁先生自身も
あちこちにブログを書き散らし、
いずれも長続きせず、
それでも懲りずにまた新しいブログを始めて、
必死にインターネットで情報発信しているからである。
 
ただし、塞翁先生の情報発信には、
私のそれのように
確固たる根拠が何も伴われていない。
 
すべては、治療者が転移患者たちを煽動してつくりあげた
患者村の共同幻想にすぎないのである。
 
 
 
・・・「治療者と患者(298)」へつづく
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    人を階級で分けるという発想自体、優生学そのものですね。以前、塞翁先生は処方薬を嚥みたくない人の自助グループの方がクリニックから居なくなると「薬の副作用なんてないよ。ネットで書かれてるものは全部嘘!」と、非科学的な事を皆に伝えていました。薬の副作用については添付文書にも載っている事実です。塞翁先生は、たとえば性虐待のように、「無い」とされていたものに反発していた人ではなかったでしょうか。「無い」とされている生きづらさ全てに関心があるのではなく問題の偏愛ですね。なぜ好きな問題と却下する問題があるのでしょうか。問題の関心の選別はどこから来ているのでしょう? 削除

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    2018/12/21(金) 午前 10:47

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    情報の受け手にしかなれない市民というのは現にあると思います。情報が遮断された条件で生きている人もいる筈ですし、支配下にある子供など弱者はそうです。入院中も情報を遮断されているでしょう。そういった人が家族だけじゃなく社会問題の支配を受けてもなされるがままになっているのではないでしょうか。薬の問題もそうです。解決策として情報を得ても否認する医者は多いです。そういった人達を目の前にし、精神医療では一体何をしているのですか? 医療は人が助かる場所ではない事が今知られて来ているのだと思います。精神医療サバイバーという言葉もあるくらいですから。 削除

    [ ー ]

    2018/12/21(金) 午前 11:06

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    私がさいおうクリニックを去るのを決心する機会が幾つかありました。その一つを書きます。プライベートな事ですが、ある郵便物が届いて、記載されてる会社に問い合わせてから、困って交番に相談しに行った事がありました。具体的に親切な助言を沢山受けました。そこでハッとしたのです。真っ当な感覚を教わったというか…自分がなぜ差出人の会社の言う通りにしようという思考になっていたのか振り返ると、さいおうクリニックのスタッフに相談する時にもらうメッセージが自分に刷り込まれているのに気づきました。「先生は何と言ってるの?」と塞翁先生につなげ、「先生の言われる通りに…」という促しです。私は普段の生活でもそういう思考になってしまっていて、交番でさいおうクリニック以外からの現実的・社会的な考え方や忠告をもらったときに、洗脳みたいなのが解けたのです。交番で言われた忠告をそのままさいおうクリニックにも当て嵌めて、自分もおかしくなってると気づき、去ろうと決めました。 削除

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    2018/12/22(土) 午後 11:43

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    さいおうクリニックでのメッセージの刷り込みが入り、「あれがおかしくない、普通だ」となると、プライベートな生活で起こるさまざまなハプニングや、巷にあるカルト的なものからも身を守れなくなる気がします。阿坐部村はほんらい、皆が不健康なものが身に付いて困ってるからこそ辿り着く場所だろうけど、健康を教わる場所にはなっていません。「これは苦しい、不健康な事にはNO!」と自分の身を守れる力が必要です。問題が起きてるのに気づかない、順応する、従うという癖が身につくと、院外でもサバイブしていく力が怪しくなると思います。バタラーに従う、洗脳的な空間や人に危機を感知出来なくなる、という危惧があります。先生や特別ゲスト、特定患者などの声にばかり着目させずに、立場の低い人の声こそ大事にするような、殺された感覚を取り戻せるよう、微かな声、感覚を大事にするような、そういう場所や人の方が好きです。 削除

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    2018/12/22(土) 午後 11:53

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