VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

鬱である人・鬱でない人(33)正月に向けてうつ・年賀状じまいの普及

鬱である人・鬱でない人(32)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
 
 
毎年、同じようなことをこの時期に書くようであるが、
どうも年末年始になると、
独特のうつが襲ってくる。
 
端的に言えば、
年の瀬の「せわしさ」に駆り立てられることへ、
このうえない不快感をおぼえるのである。
 
「今年のうちに…」
「年が明ける前に…」
 
といった理由で、
「ふつうの人々」が12月31日23:59を目指して
あらゆることを急ぎ、
そのために社会ぜんたいの緊張感が高まっていくのが
なんともいやなのである。
 
「12月31日23:59が来たところで、
 1月1日00:00を迎えたところで、
 何ひとつ変わるわけでもないのに、
 何をそんなにみなさん、急いでいるのか」
 
と、のんびりと傍観できるようになればいいのだが、
こちらもそこまで神経が図太くはないようで、
忙しい人たちが世の中で駆けずり回っているのを感じると、
自分だけ世界から置いていかれる感じがして、
孤立感を深めてしまうものらしい。
 
ゴミの収集がなくなる、
公的機関や銀行などが開いてない、
といった、社会機能が停止する不便も
プレッシャーを与えてくる。
 
年の変わり目ということで、
人があらゆることにケジメをつけておこうとすることもまた、
プレッシャーをもたらしてくる。
 
「年内に物事を片づける」
ということに、
「片づけられない人」が圧迫されているのである。
 
うつ病者の脳の神経細胞の末端に
足りていない物質が、
セロトニンであるか、他の物質であるか、
といった脳生理学的な論争には、私は興味はない。
 
とにかく何かが脳細胞の末端に足らないから、
脳の機動力を上げることができず、
こうした精神状態が毎年末に襲ってくることだけは
確かだと思われる。
 
 
 
 
 
 
 
 
そのような中で、
もっとも私を苦しめるものが「年賀状」であった。
 
二十年ほど前は、
ウンウンうなるほど苦しんで書いていた。
 
ときには、酒を呷(あお)って、
酔いによって、少しでも苦しみを麻痺させながら、
「年賀状を書く」というノルマを果たしていた。
 
「年賀状を書かなければ」
という圧迫感を、
宛先人に向けて出してしまったこともあった。
 
つまり、
年賀状を出す先の人が、何も私に、
 
「年賀状をくれ」
 
と言っているわけでもないのに、
 
「どうだ! お前にはこうやって年賀状を書いてやる!
これで満足か!」
 
と言わんばかりの怒りがはみだした、
殴り書きの年賀状を出していたのである。
 
そんな年賀状を出せば、
とうぜん人間関係は悪くなる。
 
人間関係を保つための年賀状であるのに、
逆効果であった。
 
そこまでお互い嫌な思いをして、
 
「今年もよろしくお願いいたします!」
「どうぞよろしくお願いします!」
 
などと、
まるで選挙期間中に道ですれちがった選挙カー同士のように
大声であいさつを交換したところで、
どうせ新しい年になって、
一度も会わないうちに、
また年が暮れるのである。
 
すると、また年末に
 
「今年もよろしくお願いします!」
 
を書かなくてはならない。
 
もう、馬鹿馬鹿しいことこのうえない。
 
そこで30代に極度なうつに落ち、
真っ暗な部屋に4年間ひきこもることになった時期に、
年賀状を出さなくなった。
 
「年賀状をやめる」のは勇気がいる。
 
「嫌われるんじゃないか」
「見捨てられるんじゃないか」
 
といった気持ちと葛藤するのだ。
 
しかし、うつが深まって、
ガッツリとひきこもると、
そういったことも、もはや考えられなくなる。
 
生きていることで精いっぱい、
という状態になるからである。
 
だから、正確には
 
「年賀状をやめた」
 
といった意志的な決断ではなく、
 
「もう年賀状を出せなくなってしまった。
だから、それを契機に年賀状を出さない人になった」
 
というべきであろう。
 
その、意思と行動との関係は、
「ひきこもりの始まり」を説明する
 
「ひきこもろう、という意思を持って
ひきこもったのではありません。
 
もうこれ以上、外へ出られなくなった。
 
だから、もうひきこもりとして生きていこう
という意思をもつようになったのです」
 
というのと同じ構造をしている。
 
 
 
 
 
 
 
そのようにして年賀状を出さなくなったのだが、
それでも、はじめのうちは厄介なことに、
年賀状は来るものである。
 
年賀状をよこした相手に対して、
メールで、
 
「年賀状をどうもありがとうございました。
しかし私は年賀状を出すのをやめました。
これからもよろしくお願いします」
 
といった返礼を出すようにした。
 
世の中にはどうやら、
その年のはじめにもらった年賀状を取り出して、
年末の年賀状の印刷をする人が多いようである。
 
すると、年の頭にこちらが年賀状を出さなければ、
その年の暮れに先方もこちらに年賀状を書かない、
というケースが多くなる。
 
それでだいぶ年賀状が減った。
 
ところが、それでも年賀状をくださる方がいるのである。
 
それだけ、ひきこもってしまった私のことを
「心配」してくれているのだろうから、
そうした「親切」を考えると、
むげに扱うわけにもいかない。
 
そこで、仕方がないので、
そういう人には、
また酒でうつをまぎらわせてヤケクソの賀状を出したり、
メールで年賀状を個人的に廃止した由を説明したり、
するのであった。
 
それでも毎年来る人がいる。
 
そういう「ありがたい」人はもう、
頭に来るから、
あきらめて放置している。
 
こうして私は年賀状のない人生をすごしている。
 
 
 
 
 
 
ところが、私のような「社会常識のない輩」が
毎年、この季節に
 
「年賀状、苦しい!」
 
「年賀状、ばかばかしい!」
 
とうめき声を上げてきたからであろうか、
近年はようやく多くの人がそれに同調するようになり、
 
「年賀状じまい」
 
という言葉が広まってきた。
 
 
ようするに、
 
「これが私からあなたへ出す最後の年賀状ですよ。
 
でも、あなたと絶交するわけではありません。
 
機会があったら、また会いましょう」
 
という年賀状を出すというのである。
 
そうやって、
皆が年賀状を出さなくなれば、
私のような人間は生きやすくなるだろう。
 
今となっては望むべくもないが、
それが私が年賀状で苦しんでいた二十年前に
来てほしかったものだ。
 
よく
 
「年賀状は、平安時代から伝わる日本の美しい伝統である」
 
などと言われ、
 
「だから、年賀状は書きましょう」
 
と推奨されるとともに、
私のように年賀状を書かない人間が非国民扱いされる。
 
しかし、もしそれをいうなら、
先日、本ブログで言及した(*1)
年に一回、地域でフリーセックスが許される
「歌垣の夜這い」
という行事も、同じく昔の日本の美しい伝統である。
 
 
 
そちらの方はやらないのに、
年賀状だけは書け、とは何事か。
 
 
私は伝統の価値もいちがいに否定はしないが、
古くから伝わる美しい伝統だから、
すべてやらなくてはならない、
というものでもないように思う。
 
 
 
 
・・・「鬱である人・鬱でない人(34)」へつづく
 
  •     

    ぼそっとさん、お久しぶりです!。

    「生きていることに精一杯」←こちら、とっても共感します!。



    年賀状は、二十代の頃、当初50枚だったのが、ある年気づいたら100枚超えてしまい、ほとほと疲れ徐々に減らしていったことがありました。

    今40半ばになりますが、ここ5、6年前から一枚も書いてないです(笑)。

    飛びっきりの人にクリスマスカードを描いて贈るのみです(^^) 削除

    miss ]

     

    2018/12/30(日) 午前 0:30

     返信する
  •     

    missさま コメントをどうもありがとうございます。

    ほんとにお久しぶりですね。

    missさんは感性が非常に若いので、
    書かれる言葉だけで拝見していて、
    もう5~10歳ぐらいお若い方と想像していました。

    クリスマスカードを描いて贈られる「飛びっきりの人」はお幸せですね^^ 削除

    チームぼそっと

     

    2018/12/30(日) 午後 1:37

     
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