VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

音楽に掘り起こされる私(1)ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」

本ブログに
言葉に掘り起こされる私」というシリーズがあるので、
それの音楽版を、と思い、
このシリーズを始めることにする。
 
私が日々、生きながらえているのは
数々の言葉だけでなく、音楽のおかげであることも
否めないからである。
 
とくに毎年、寒くなってくると
なぜか私はショスタコーヴィチが無性に聞きたくなるのである。
 
「無性に」というのは、
ほとんど「身体が求める」レベルの希求である。
 
毎年11月を過ぎるあたりになると、
ちょうど日本酒の熱燗が「無性に」飲みたくなってくるのと
軌を一にするように
ショスタコーヴィチが無性に聞きたくなるのである。
 
日照時間が短いと、それだけうつになりやすい
季節性障害の傾向もある私は、
一年でもっとも日が短い冬至のころになると
それだけ頭の中身が抑うつ的になる。
 
そうなると、まったく朝から晩まで
起きたときから寝るときまで
ひきこもり部屋の中に流しつづけているのである。
 
凍てつくロシアの冬の平原に吹く風が
ひゅうひゅうと鳴っているような
研ぎ澄まされた高音域の弦楽の音を聞けば、
ふと手を止めて独り涙を流したりしている。
 
抑圧と搾取、粛清など
支配者の悪に立ちむかう民衆の底力を想わせる
打楽器の連打を聞けば、
これまた私が戦っている
阿坐部村と精神科医塞翁勉という巨悪の構造に
怒りを新たにしたりしている。
 
どれもこれも
私に生きるエネルギーを注入しつづける。

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ドミートリ・ショスタコーヴィチ(1906 - 1975)
写真は44歳の時のもの
 
クラシック音楽が好きな人の中でも
渋面を見せる人も多い。
 
ベートーベンからマーラーワーグナーあたりまでの
重厚な単純和声に慣れている人には、
どうやらショスタコーヴィチの音は
「不協和音」と聞こえるようなのである。
 
その不協和音と聞こえる複雑な和音が、
じつはショスタコーヴィチに特有の
いったんハマったら病みつきになる
「美」を形成しているのだが・・・
 
「不協和音に聞こえる」
といっても、
現代音楽によくある
調性のない、十二音技法ではない。
 
というか、彼の立場では、
そんなものを作っていたら命が危なかった。
 
スターリンに粛清されていたかもしれないのである。
 
そのへんの話に深入りすると、
ソ連の政治史の話になるので、今回は入らない。
 
 
 
 
 
 
ショスタコーヴィチは、けっして
たとえばモーツァルトのような「天才」ではなかった
と私は思う。
 
また、J.S.バッハのような
均整のとれた心も持ち合わせていなかっただろう。
 
濁りもあれば迷いもある、
ほどほどに「ふつうの人」である。
 
権力を嫌いつつも、
しばしば生きるためにこれに従う真似も見せ、
裏でペロリと舌を出しているような
苦悩と逡巡にまみれた俗人であった。
 
見かけによらず、
けっこう女好きだったようだし。
 
それだけに私のようなタイプの人間は、
自分と同じにおいを嗅ぎつけ、
深くハマっていくのである。
 
ショスタコーヴィチの作品は長いのが多いから、
昼に起きてから、
交響楽を順番にかけていくと
最後まで行かないうちに深夜となり、
もうそれ以上起きていられない私の一日が終わる。
 
もっとも彼の若い頃の作品、
交響曲第1番から第4番は
私はあまり好まない。
 
彼を一躍スターダムにのしあげた
交響曲第5番「革命」からあと、
晩年に到っていくときの
深煎りした苦いコーヒーのような作品群がいい。
 
特に第10番以降は、
若い頃のチャラい要素がそぎおとされて絶品である。
 
…と思って調べてみたら、
交響曲第10番をショスタコーヴィチが書いた年に、
長かったスターリン独裁が終わっているのである。
 
音楽のことを記事にしておいて、
語っている音楽のリンクを一つも引っぱってこないのでは、
ブログ主としては、いかにも不親切というものである。
 
そのため、一曲ぐらいリンクをご紹介しておこう。
 
ショスタコーヴィチが35歳のときに作曲した
 
 
である。
 
彼の15曲にのぼる交響曲のなかで最も長く、
1時間22分53秒もあるから、
じっさいにこれをクリックしてぜんぶ聴く人はいないだろう。
 
この曲が作られたころ、
ロシア第2の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)は、
ナチス・ドイツに包囲されて困窮の極みにあった。
 
1941年から1944年まで900日間にわたって続いた、
 
ヒトラーは、この歴史的な大都市を市民ごと全滅させ、
世界地図から抹消することを計画したのであった。
 
包囲されたレニングラード
極度な食糧不足におちいった。
 
ソ連の側には、
市民たちのために35日分しか食糧の備蓄がなく、
それはすぐに尽きた。
 
飲み水もじゅうぶんに確保できず、
毎日3000人から6000人の市民が餓死したという。
飢えた市民たちの中には
死者たちの人肉も喰らう者もあらわれるようになった。
 

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by Wikimedia Commons
 
レニングラードドイツ軍による空爆にさらされながら、
この交響曲を書いた。
 
1942年8月、
この曲がレニングラードで演奏されることになった。
 
それ以前、芸術の都だったレニングラードには、
 
 
という二つのオーケストラがあったが、
ほとんどの楽団員は
その時期までにすでに多くが餓死や戦死をしていた。
 
そこで、指揮者となったカール・アリエスバーグは、
生き残っている音楽家を楽団を問わずかきあつめて、
臨時に新しい演奏ユニットを結成したが、
そのなかでも飢餓のために
練習中に倒れる者が続出した。
 
アリエスバーグ自身も、
入院中の病棟から練習に通った。
 
練習の機会にも恵まれず、
本番前に全篇通しで演奏ができたのは、
たった一回だったという。
 
ところが、それでも
レニングラード市民たちは初演を聴きにやってきたし、
結果は大成功であったらしい。
 
音楽に関してとりわけ知識のない人々が、
この音楽から生きる力を得て、
都市籠城に耐える糧としたのである。
 
このような人々の熱情を感じる時、
それが方向として
左であった右であったというのは
私にはあまり関係がない。
 
感情は、頭で考えたイデオロギーとは
別の次元で勃興するのである。
 
 
 
 
 
 
デンマーク人の映画監督がいる。
 
私は彼を映画界のショスタコーヴィチではないか、
と思っている。
 
その描く世界は多分に抑うつ的である。
 
ところが、うつを突き抜けた美というものがある。
 
うつを経験したことのない人は、
思わぬ場所に美の存在を提示されて、
初めは途方に暮れるのではないだろうか。
 
 
 
・・・「音楽に掘り起こされる私(2)」へつづく
 
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    ショスタコーヴィチとは渋いですね。
    私の熱燗に相当する音楽?は懐メロ歌謡曲・・低俗ですねw削除

    迷えるオッサン

     

    2019/1/3(木) 午前 9:52

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  •       

    迷えるオッサンさま コメントをどうもありがとうございます。

    いやいや、迷えるオッサンさんの懐メロ歌謡曲のご解説も、じつに深く興味深いものです。 削除

    チームぼそっと

     

    2019/1/3(木) 午前 10:52

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