VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

言葉に掘り起こされる私(6)ヘルマン・ヘッセ『デミアン』の冒頭「自分語り」の価値

言葉に掘り起こされる私(5)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多
 
ぼくの物語は、自分にとって、
凡百の作家が語る話よりもはるかに大切なものだ。

なんといっても自分の話だし、
ひとりの人間が辿(たど)った物語だから。

登場するのは架空の人物ではない。

仮定の上の人物とか、
理想の人物とか、
その他、実在しない人物とはちがい、
現実にいる、一度限りの人生を歩んだ生身の人間だ。


ヘルマン・ヘッセ『デーミアン』
光文社古典新訳文庫 酒寄進一訳 P9
ヘッセ『デミアン』もしくは『デーミアン』の
冒頭の一節である。
 
これは、まさに私たちが
このぼそっとプロジェクトにおいて
 
「○○○○する私」
 
といったタイトルで自らを語り、
語ることによって闇を光となす時の心境を
あらわしている言葉でもあると思う。
 
私たちはとかく
 
「自分の人生というものを考えると、
とくにたいしたこともなく、劇的でもなく、
とても他人様(ひとさま)に語る価値はない」
 
という感覚にとらえられがちだ。
 
その感覚は重要である。
 
なぜならば、その感覚なしに語り始めると、
ただの自己愛性パーソナリティ障害者の延々たる自己陶酔ディスクールなってしまうからである。
 
たしかに、歴史上あまたに綴られてきた
「劇的な人生の物語」
に比べると、
自分の人生などというものは、
なんとつまらない平凡な日常の連続であろうか。
 
それはきっと誰しもそう思う。
 
カエサルやナポレオンや織田信長でさえ
本人はもしかしたらそう思っていたかもしれない。
 
彼らの人生が「劇的」になったのは、
後世の伝記作家の編集の技によるものかもしれない。
 
だが、
たとえ「つまらない平凡の日常の連続」であっても、
本人にとっては、
ここでヘッセが描くように
 
「なんといっても自分の話だし、
ひとりの人間が辿(たど)った物語だから」
 
あるいは、
 
「現実にいる、一度限りの人生を歩んだ生身の人間」だから
 
かけがえもなく重要なのである。
 
語られる物語が真実であることは、
じっさいにその物語を生きて歩んだ本人が知っている。
 
 
「自分語り」を軽蔑する知識人も多い。
 
そういう知識人は、
人生のかけがえのなさを馬鹿にして
けんめいに人の営みを一般化するところに
自らの知性の拠り所を求めているからである。
 
すなわち、知識人として俗世に居場所を獲得するため
「自分語り」を馬鹿にして見せているのである。
 
つまりは、高邁に見えても、俗欲である。
 
 
 
 
 
 
 
 
8人以上のドイツ文学者が
この作品を日本語に翻訳している。
 
読点「、」の打ち方など
些末な表現が論議の的になりやすいからだろう。
 
そのため訳者によってタイトルも、
デミアン』だったり『デーミアン』だったりする。
 
ヘッセ『デミアン』は、
第1次世界大戦直後の1919年に書かれた。
 
世界的な戦争という
当時にしてみれば前代未聞の歴史的な体験を味わった
ドイツの若者たちの精神的危機を
言葉にしようと書かれたものだと思われる。
 
若者が、「明」と「暗」という二つの世界の存在に
とまどいながらも、
「ほんとうの自分」を求めていく姿を描いたものである。
 
「明」とは、「公認された世界」。
いわば、私のいう「市民の社会」に似ている。
正論がまかりとおり、
人々はたくみに真実を避けて、うまく生きていく。
 
「暗」とは、「公認されない世界」
私のいう「反市民のネットワーク」であり、
ひきこもりたちが唱える「真論」が語られ、
「当事者」たちが真実にこだわり、
けっしてうまくは世渡りしていかない。
 
その対比が、いまの日本のひきこもり問題にも通じる。
 
じっさいヘッセは、
ノーベル賞まで受けておきながら、
たぶんにひきこもり志向があった人だと思う。
 
最近、私は
「ひきこもりにとって幸福とは何か」
を考えることが多いが、
彼の幸福論は、
彼のひきこもり志向を芬々とにおわせるものである。
 
年をとった人々が、
いつ、どんなにたびたび、どんなに強く
幸福を感じたかを思い出そうとすると、
何よりも幼年時代にそれを求める。

もっともなことだ。

なぜなら、幸福を体験するためには、
何よりも、時間に支配されないこと、
同時に恐怖や希望に支配されないことが
必要だからである。

そしてたいていの人は、
年とともにそうする力を失うからである。


ヘッセ『幸福論』高橋健二 訳
改行・太字・色字は編集者
「時間に支配されないことが幸福である」
 
とは、多くのひきこもりが深く納得することだろう。
 
「生産性」なるものを向上させ、
より多くのモノを所有することが幸福の像を結ばない、
という時代には、
幸福が物質的な「生産性」とはちがう方向へ行くのは
自明である。
 
とうぜん「時間」が、そこに出てくる。
 
さて、次の
 
「恐怖に支配されないことが幸福である」
 
は、多くの人の同意を得られると思うが、
 
「希望に支配されないことが幸福である」
 
という言葉は、
「生産性」を上げて、旺盛に社会で活躍している
いわゆる「ふつうの人」には理解されないかもしれない。
 
たとえば、レズビアンを公表する以前の勝間和代には
理解できなかった言葉であろう。
 
これは、
 
「希望は幻であり、
 希望を抱けば、必ずその裏返しとして
 失望がやってくる」
 
ということを知っている賢人の言葉である。
 
いちいち希望や失望によって
持ち上げられたり、引き下げられたりしたくない、
ということである。
 
安定してひきこもっていたい、
ということである。
 
だから、
「人は幸福のかたちを幼年時代に求める」
とヘッセはいう。
 
なるほど、たとえばプルースト
 
 
などという膨大な小説は、
題名からして、「そのまんま」の作品であるといえよう。
 
だが、私においてはそうではない。
 
私にとって幼年時代は幸福の原型ではなかった。
 
母親から精神的虐待を受け続け、
つねに母親の死の脅迫におびやかされ、
母親がせまる分刻みのスケジュールに追い立てられていた。
 
まさに「時間」にも「恐怖」にも支配されていたのである。
 
そのような中で「希望」とは、
「幸福」などという黄金色のたゆたいではなく、
 
「いかにして失敗せず完璧に死ねるか」
 
という問いの先にある死であったのだ。
 
私がヘッセの良き読者になれないのは、
そこから一つの分岐が生まれているからかもしれない。
 
 
 
 
 
・・・「言葉に掘り起こされる私(7)」へつづく
 
  •   

    ここでの希望とは、期待とも読み替えることが出来、その期待とは自分以外の誰かの期待に応えることだったのではないでしょうか。その期待に応えれば、自分の淡い希望も叶うはずと努力したのでは。しかしそれは叶わず、大きな失望を味わった。
    幸福の話に時間の概念か出るのは、やはり人はやがて死ぬからでしょう。そこに強い不満がある。ずっと自分に言い聞かせているけど、本当は死を受け入れたくないのです。このまま死ぬのは納得出来ない!、と。だから幸福という考えを持ち出して、自分を納得させようとする… 削除

    aon*_*85 ]

     

    2019/2/12(火) 午後 0:50

     返信する
  •   

    aon*_*85さま コメントをどうもありがとうございます。

    なるほど、「期待に支配される」ことは一つの不幸ですね。


    > 幸福の話に時間の概念か出るのは、やはり人はやがて死ぬからでしょう。そこに強い不満がある。

    まさにおっしゃるとおりですね。
    象徴的には、「死」が幸福の終わりになります。
    フロイトに慣れ親しんだ者には、
    とてもわかりやすい考え方です。

    もう一つ、
    象徴的に導入される幸福の記号は、
    快楽であり、
    もっといえばエクスタシー(性的絶頂)でしょう。

    少年時代、時間の支配がなかったとしても、
    快楽がなく、苦痛だけしかなかったならば、
    その人にとって少年時代は
    ヘッセやプルーストのように
    幸福の原型ではないと思います。 削除

    チームぼそっと

     

    2019/2/12(火) 午後 2:56

     返信する
  •   

    エクスタシーが幸福となりますと、それは脳内麻薬の働きであり、そうすると、幸福とは、少しでも長く多くの脳内麻薬を分泌させることに邁進する人生と言えます。しかし正常にこれを継続するには、弛まぬ努力と称賛が必要でしょう。
    そんなに手間がかかるなら、モルヒネやヘロインを使った方が確実だったりして、やはり幸福とはよく分からないものです。(笑) 削除

    aon*_*85 ]

     

    2019/2/12(火) 午後 7:31

     返信する
  •   

    顔アイコン

    作家として、あるいは、ひとりの人間として「幼年期」を
    作中にとりいれているから、幸せな幼年期があった、
    という前提はちょっと違うかな・・・と。

    「幼年期」はたとえば桃源郷のようなもので、ひとつの
    象徴なのではないかと思います。 削除

    うらる ]

     

    2019/2/13(水) 午前 8:16

     返信する
  •   

    顔アイコン

    補足させてください。

    自分には幸福な幼年期はなく、苦痛ばかりだった・・・
    なるほど(少なくとも主観的には)そのとおりなのでしょう。
    だからといって、幸福な幼年期をもつひとにはわからない、
    わかってもらえないという考えは、どうなのでしょう?

    逆に言えば、ひきこもりでないひとが、ひきこもりのことは
    経験がないからわからない(わかろうとしない)、とか、
    ブラックな職場環境で働くことは苦しみでしかないから、
    働くことをつうじて得られる喜びなどわからない、とか
    そういうふうに互いをシャットアウトしてしまうことと
    相通じるのでは? と危惧します。

    このプロジェクトや、池井多さんが各地で活動されている
    意味合いの根本を否定することに繋がりませんか? 削除

    うらる ]

     

    2019/2/13(水) 午前 9:15

     返信する
  •   

    うらるさま 2件のコメントをどうもありがとうございます。

    たしかに「幼年期」は「桃源郷」のような、幸福に関わる象徴なのかもしれませんね。私はヘッセを、たとえばプルーストほどには深く知らないので、ヘッセにとっての幼年期が何を意味するのか、よくわかりません。


    > 互いをシャットアウトしてしまうこと

    それはじつに深い問題であると思います。
    「シャットアウトしない」つまり「共感のチャンネルを開く」には、たえず可能性と不可能性がつきまとっていて、その両方に誠実であることが求められているように考えております。
    前に、以下の記事で考えたことがあります。

    「積もっていくお菓子のゴミ(97+)共感がもたらす絶望と希望」
    https://blogs.yahoo.co.jp/vosot_just/66177241.html 削除

    チームぼそっと

     

    2019/2/13(水) 午前 10:01

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