VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(104)ひきこもり当事者不在の報道を止めるには

can*****:
 
(放送の)舞台裏は私の想像より良好な状況のようですので、安堵いたしました。

今回は、取材を受けたご家庭の不満が出ないように行われたとのことですので、そういうことでしたらとりあえずよかったです。

先方との対話が進んでいるようですね。当事者側からの批判に対して先方が聞く耳をもっていただける方なら、こちらも頑になる必要はないわけです。

ひきこもり者本人に無断で室内撮影を行う手法は残念ながらひとつの型として確立してしまっている感がありますので、ひきこもり者側としては、事実関係はともかく、少しでもそういう印象を与える映像に対してはどうしても異議を表明せざるを得ないところです。
問題はイメージの流布だからです。

それゆえ本映像自体への私の評価は変わりませんが、当事者の立場でメディアを育てるという池井多さんのお考えには賛成ですので、今後の彼らの健闘を長い目で期待しつつ見届けたいと思います。 

なお、池井多さんからもご指摘いただき、私からも上で申しておりますように、主催者側から取材の段取りに対して制限をかけることには限界があるという視点は重要です。現場対応は事例ごとに、各現場の手作りで行うしかないものと拝察いたしますので、最終的には主催の方々のご判断を尊重すべきものと心得ております。  

その上で一点申せば、「ひきこもり」という同じ主題を扱っていても、たとえば上に挙げたスクールの取材映像は、質の悪いものが複数出てくる一方、池井多さんの関わる映像は、良質なものが多いという点には注目しております。つまり、限界があるといっても、だから何もできないというわけではない。取材編集された映像の質に、その団体や個人の活動や理念をどうアピールするかが反映される面があるということです。だからこそ池井多さんも局との折衝に取り組んでおられるものと存じます。

ですから、今後取材を受けられる団体主催の方々にも同様に熟議と折衝を期待し、まとめの問題提起をしておきたいです。

「ひきこもり者本人不在の印象を与える映像は、良質とは言えないのではないでしょうか?」
と。

舞台裏の事実関係はともかく、本映像自体は、本人の知らぬまま下の階でヒソヒソうわさ話をしている構図にしか私には映りません。これではひきこもり者は、姿の見えない何やら不吉な存在として世の中に印象づけられてしまいますので……… 

(ここの感覚が、ひきこもり者の立場とご家族の立場でだいぶ違うということなのかもしれません。ならば………、そうだ! 親子対論しよう!! ) 
 

[ can***** ] 2019/4/22(月) 午後 7:49 
 
ぼそっと池井多
 
can*****さま コメントをどうもありがとうございます。
 
「ひきこもりとメディア」という問題は、
そのうち本当にひきポスで
そういった特集号を組んでもよいほど、
奥深いものがあります。
 
というのは、
 
表に出てこないのがひきこもり
 
という原点があるために、
それを報道するには、
メディアかひきこもりか、
どちらかが原点を踏み越えなくてはなりません。
 
すなわち、象徴的にいえば、
 
「メディアがひきこもり部屋へ突入するか」
 
 
「ひきこもりが外に出ていって彼らのカメラに映ってやるか」
 
のどちらか、ということになります。
 
私は、ひきこもりは近年に出現した現象ではなく、
1990年代以前にもいた、
という持論を持っています。
 
それは、
私自身が1980年代にすでにひきこもりであった、
という事実もありますが、
いろいろな文学作品など読んでいると、
1960年代の全共闘世代にも多く、
こんにち「ひきこもり」と呼ぶ生活形態と同じ若者が登場するからです。
 
しかし、それが「ひきこもり」として
2000年前後にメディアによって
社会の表に引っぱり出されてきました。
 
その時点で、
それまで「見えない住民」であったひきこもりは、
「見える住民」という逆説的存在になったわけです。
 
しかも、そのころ
メディアの表に引き出されてきたひきこもりたちは、
陰湿で反社会的な存在ばかりが好んで取り上げられました。
たとえば、このような事例です。
 
1999年 京都小学生殺害(てるくのはのる)事件
 学校教育に不満を持つ21歳の予備校生が、小学校2年生を校庭で殺害。

2000年 西鉄バスジャック事件
 17歳のひきこもり青年がバスを乗っ取り無差別殺人。

2000年 新潟少女監禁事件
 28歳のひきこもり青年が、当時9才だった少女を自宅で9年以上も監禁。
これらの犯人がひきこもりでなかった、
とは私は申しません。
 
しかし、彼らは、
現実の私たちひきこもりの全体像からすれば、
なんと偏ったひきこもり像であることでしょうか。
 
こういう事例がひきこもりの平均値だと思われては、
大多数のひきこもりはたまったものではありません。
 
こういう事例がひきこもりだと思われるかぎり、
 
「それじゃあ、あいつらは
『矯正』して社会の中で働かせよう」
 
という強制収容所学校のような動きになっていくことでしょう。
 
また、地方自治体はひきこもりの管轄を「治安本部」にすることでしょう。
 
ところが、メディアはいったん一つの虚像を作ってしまうと、
その虚像をくりかえし再生産していく、
という習性を持っております。
 
それは、けっして2000年前後とか、過去の話ではありません。
 
じつは、つい先日も、
私はあるメディア関係の方と深い話をして、
メディアで働く人たちがその業界で生き抜くためには、
冒険をせず、新しい事実を報道せず、
既存の像を再生産する報道をせざるをえない、
という状況があることを聞きました。
 
それは、誰それという権力者のひと言で報道内容が決まる、
といった安易なことではなく、
世論という、誰も責任を取らない、
巨大な空気の流れのようなものによって、
虚像の再生産のシステムが自然にできあがってしまっているのだ、
ということです。
 
同じことは、私たち当事者界隈、
あるいは当事者と支援者のあいだのせめぎ合いにも言えます。
 
私という当事者が、
一つの新しい事実をあかるみに出そうとすれば、
「波風を立たせまい」として
それを封じ込めようとする支援者、当事者は必ず出てきます。
 
「出る杭は叩かれる」
 
というように激しいものではなく、
 
「出る杭は真綿でくるまれ溶かされる」
 
といった感じの現象です。
 
それは、おそらく人類の歴史上、
「ひきこもり」に限らず、
社会のマイノリティに対する偏見の醸成には、
すべからくこのような現象が起こってきたのでしょう。
 
「ひきこもり者本人不在の印象を与える映像は、良質とは言えないのではないでしょうか?」
 
そういう「良質ではない映像」に
私たちひきこもり者が対抗する手段はある、
と思います。
 
ひきこもり者本人が、
どんどん映像の中に登場してやればよいのです。
 
もちろん、一部のテレビ局による
「だまし討ち」のような撮影は
厳しく排さなければなりませんし、
もし行われたときは、
厳正に抗議しなければなりません。
 
報道の公平性が保たれるという前提において、
ひきこもり当事者がどんどんメディアに出て、
 
「ひきこもりとは、あなたたちが考えているような
暗愚で陰湿な存在ではないぞ」
 
ということを一般市民の皆さまに示してやればよいのだ、
と思います。
 
なぜならば、一つの社会集団の属性というものは
再帰的に形成される傾向があり、
 
「ひきこもりは暗愚で陰湿な存在である」
 
というイメージが社会に流布すると、
ひきこもりたちもそれに合わせた、
暗愚で陰湿な存在でないと
社会で生きていけない、
という状況が形成されてしまうからです。
 
約20年前に偏った形で社会の表に引きずり出されてしまった
私たちひきこもりが、汚名を挽回して、
ふたたび平和裡に社会の中で
「ふつうの人たち」と良き隣人同士として
共存できる社会になるには、
20年前の虚像を引きずっている彼らの想像を裏切るような
ひきこもり当事者がどんどん社会の表に出てやるしかない、
と私は考えております。
 
ところで、メディアの中には、
このような志を持った方もいらっしゃるということを
最後に付け加えておきましょう。
 
私が先ほど述べたような、
 
「現場の記者の取材が巨大な空気の流れで押しつぶされていき、前に作られたイメージが再生産されていく」
 
ということに関して、
別の社の記者からいただいたメールの一節です。
 
報道内容については、仮に「上からの圧力」があったとしても、記者はそれをはね返さなければならないと考えます。

恐い上司が大声で、あるいはネチネチと「イメージ」や「シナリオ」を押しつけてこようと、記者には断固として拒否する責任があります。

上司の指示を受け入れた結果、誤った、あるいは不適切な報道内容になったとしても、記者は上司に責任を押しつけることは本来できません。

「上司が言うことを聞いてくれませんでした」等と言い訳をする記者がいたとしたら、それは自身を「無能」と表現しているに等しいと思います。

これはいかなる取材・報道活動についても同じです。それだけの覚悟を持って取材し、報じるまで責任を持つのが、記者の仕事の基本だからです。

かく言う自分はどれだけ全うできているか・・・自問しながら、自省しながら、日々を過ごしております。
 
ひじょうに頼もしいですね。
 
ちなみにこの方は、まだ20代と思われます。
 
今後のご活躍に、つとに期待いたしたいと思います。
 
 
 
 
 
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    「メディアがひきこもり部屋に突入する」はわかりやすい表現ですね。私にとってメディアとは、まさしく土足で侵入してくる“外”なのです。“外”にどう対峙するか。“外”とどう折衝するか。“外”への緊張感を思考の核心に据えることが大切です。あのグッディの部屋の映像に対して私が述べた違和感の表明が、他のひきこもり者にどう受けとめられるか。これは私のメディアへの「“外”感覚」を彼ら当事者とどの程度共有できるかという問題です。
    生活保護受給者がTV出演する場合、ほとんどすべての当事者は負い目を負った雰囲気で登場します。そうでないと叩かれるからです。しかし、ぼそっと池井多氏は何と、平然と現れた!! これは当事者活動史に記録されるべき画期的事件なのですが、白昼堂々とやってのけると、かえって多くの人に気づかれないところが面白い。こういう場面では、「働いたら負けだ」なんて強がって悪目立ちし、ボコボコに叩かれるようなことになりがちなのですが、そういうヘマをしない。そのような「“外”感覚」をしっかり持っている人が出るのは悪くないでしょう。 削除

    can***** ]

     

    2019/5/15(水) 午後 8:48

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    反対に「“外”感覚」が欠落した当事者は、支援者とお手々つないで出演し、「あなた、ひきこもったままでいいんですか?」などとこちらに呼びかけてくる。アウシュヴィッツの“カポー”ですね。つまり、ひきこもり当事者がメディアに出ることの是非は、その人が当事者としてどういう社会的役割を自覚して出ているかによります。それゆえ一律に良い・悪いということではなく、個々の人物ごと番組ごとの判断となります。

    では、私が部屋への侵入を受けた際、「彼らのカメラに映ってやる」となるかといえば、なりません。 私の場合、たとえば就職の面接に行って「頑張ります!」と言うわけですが、本当にそのつもりでいるのに、いざ現場に入るとなぜか対人恐怖で棒立ちになってしまう。「あれ?どうしたんだ、オレ?」という世界。意思や主体性に反して不如意な領域が生じてしまう。この不意に立ち現れる「主体性の残余」あるいは「不如意な身心」という問題から逃れられないのです。 削除

    can***** ]

     

    2019/5/15(水) 午後 8:51

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    「映ってやる!」と気合を入れたつもりで、実際はビビった姿で映ってしまったとなれば、私だけでなく全国のひきこもり者がバカにされてしまいます。とりわけ民放TVの多くの番組は、まさしく当事者のそういう無残な姿を撮ってネタにする目的で侵入していると私は認識しております。部屋という無防備な場面を撮りたがるのは、酒に溺れている姿でも暴きたいからでしょう。要するに「主体性の残余」が露呈する瞬間をつけ狙っているわけで、これは尊厳の侵害に匹敵する卑劣な行為なのです。

    それに対して私が取りうる唯一の手段は、カメラを叩き落として取材者を思い切り睨みつけることです。

    私と同じく「主体性の残余」の顕在化に悩まされているひきこもり者が、「TVに出られるような奴はひきこもりじゃない!」と怒りたくなる心情は理解できなくはありません。しかし、怒りの矛先が私と違います。そういう意味での “いわゆる真のひきこもり状態” を尊厳を込めてTV映像で流すのは、遺体の映像を流すよりも表現難度は高いかもしれません。現状のTVにそれを望むべくもないところに根本の問題があると私は思います。 削除

    can***** ]

     

    2019/5/15(水) 午後 8:55

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    あの不幸な青少年たちも、ちょっとした人生の転機に恵まれていたら、人など殺さずに我々と同じように凡庸なひきこもり者として、ときには「働け!」といじめられながらも社会の片隅で平穏に生きながらえていたかもしれません。そのことの条理と不条理について、幾人ものひきこもり者が夜更けにひそかに思いを馳せてきたことでしょう。しかしTVカメラはそんなささやかな苦悩の余地すら私たちに与えてくれません。「お前らも犯罪予備軍か!?」と詰め寄られれば、私たちは「あんな奴らと一緒にするな!」と即座に大声で叫ぶしかありません。私はそのことに耐え難い屈辱を覚えるのです。
    グッディの件もこれに同じで、あの映像編集に高橋克実発言を誘発する要素があるわけです。まさしく対立の煽動と消費こそがマスメディアの度し難い習性であると言わざるを得ません。
    もちろん局の方々の今後の奮闘には期待したいですし、池井多さんに接触してこられた例外的な知性にも大いに興味を惹かれはしますが、大勢への私の頑な構えは、現時点では残念ながら崩すことができません。ひきこもり者たる私にとってマスメディアとは、ひとつの災厄なのです。 削除

    can***** ]

     

    2019/5/15(水) 午後 8:56

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    can*****さま 4件のコメントをどうもありがとうございます。

    たいへん重厚なご論考なので、新たに記事に立てさせていただきます。 削除

    チームぼそっと

     

    2019/5/16(木) 午前 9:02

     
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