VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

海外ひきこもりだった私(16)ひきこもりと自己責任

 「海外ひきこもりだった私(15)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

 

前回「海外ひきこもりだった私(15)
で書かせていただいたことを、
フロイト流に解釈すると、
私は鈴澤先生に父親像を投影し、
鈴澤先生は私の超自我になった、
ということである。

 

20代の私が鈴澤先生に対しておぼえた畏怖の念は、
そのまま自分の責任のなさへの
の概念であった。

 

それでは、同じく何かにつけて
「責任、責任」
というにしても、
私の母親と、鈴澤先生はどこが違ったのか。

 

母は責任ということをやかましく言い、
私にそれを要求しても、
母親自身は、私に対してけっして
自分がやったことの責任を取らなかった。

 

それに対し、
鈴澤先生は責任を取った、
もしくは取っているように見えたのである。

 

この結果、母親の口から発せられる「責任」という言葉は、
たんに彼女自身の虐待を正当化し、
彼女自身の感情や気分を論理化するためだけのものになった。

 

少なくとも、私にとってはそうだった。

それに比べて、
鈴澤先生のいう「責任」は、
なにやら当時の私がまだとうてい理解できない
深淵な哲学が背後にただよっているのが感じられた。

 

そのため、鈴澤先生の口から放たれる「責任」という語は、
意味ある語として私に届いたのである。

おそらく鈴澤先生と出会うまでも、
小学校、中学校、高校の教師らから
私は数限りなく「責任」という語を聞いていたことだろう。

 

しかし、それはお説教としての嫌な圧力しか
私にもたらさなかった。

そこへ行くと、鈴澤先生のそれは、
もっと辛辣な、しかし、もっと活きた概念として
私の全身の皮膚に辛子を塗るかのような
思わず背筋を正さざるを得なくなるような
作用を与えたのである。

 

 *

 

 

この「責任」という概念を考えることは、
ひきこもり当事者として生きる今日の私の姿勢にも
大きな影響をおよぼす。

 

私をふくめ、ほとんどすべてのひきこもりは、

「自分の意思でひきこもりになったわけではない」

というであろう。

そこが、意識的に

「働くのをやめた」

というニートとは、ひきこもりが異なる点だと思う。

しかし、今日の時点でひきこもりである私が、
明日「働こう」としないことには、
意思がからんでいる。

つまり、

「働くのをやめた」

わけではないけれど、

「明日、ハローワークへ行こう、としない」

のは、明らかにひきこもり自身の「意思」である。

逆に、これが意思ではない、とすると、
ひきこもりは自らの人権を放棄する結果となる。

引き出し屋がやってきて、ひきこもりを部屋から引き出し、
強制収容所のような更生施設へ入れることを、
私のようなひきこもりは、

「ひきこもりの人権侵害である」

として抗議している。

その抗議を、いささかでも取り下げるものでもないが、
詳しく云えば、

「自らの意思でひきこもり状態にある者を
その意思に反して『引き出し』、更生施設に入れる、
というのは人権侵害である」

という主張となる。

「ひきこもりであろうという意思に反して」

という部分が重要である。

これがないと「人権侵害」が成り立たない。

意思があるところに、必ず自由と責任がある。
サルトル実存主義の真骨頂である。

つまり、ひきこもりがひきこもっていることは、
自己責任なのである。

ところが、ひきこもり界隈で、
この自己責任という語は一種のタブーと化している。

「ひきこもりになったのは自己責任ではない。
自らの意思でひきこもったのではないから」

という論理によって、
自己責任論は否定されるのである。

「引き出すな。それはひきこもりの意思に反する」

と言いつつも、

「自らの意思でひきこもっているのではない」

と言う。

ここに、ひきこもり界隈にただよう
自己責任に関する自己矛盾がある。

 

 

 

 

私は思う。

これは、「責任」という語が
正しく理解されていないだけなのではないか。

たとえば、刑法学などでは、
「責任」という概念のなかに
有責性」と「可罰性」を分けて考える。

「有責性」とは、
たしかにその人がそれをやったためにそうなった、
と原因と結果をつなげて、
その人に「責任」がある、とする考え方である。

たとえば、軽度の業務上過失などがこれにあたる。

「たしかに、この人がやったが、
わざとやったわけではないから、
おとがめはなし」

というケースである。

いっぽう、「可罰性」とは、
その人がそれをやったために、
重大な損失が起こったから、
その人には責任を取ってもらい処罰を受けさせよう、
という考え方である。

たとえば、大量計画殺人がわかりやすい。
死刑になるだろう。

このような「有責性」と「可罰性」を区別しないで考えるから
ひきこもりは自己責任である/ない という問題が
混同して語られているように思う。

さらに、二つを混同した前提の上に
自己責任論
が形成されている。

 

したがって、
「自己責任論」

「自己責任として語ること」
のあいだに乖離を生じる、
という奇妙な状況が生まれているのである。

 

また最近、にわかに流行ってきた
中動態」の概念を敷衍して、
人間の行為にまつわる「意思」と「責任」を骨抜きにする風潮も、
このような混乱に拍車をかけている。

 

なにかにつけ「中動態」の概念を乱用したがる者にかぎって、
しっかりと自分の「被害」だけは訴えるのである。

つまり、自分が損害を受けたときには行為者の責任を設定し、
自分が何かヘマをやらかしたときには責任は設定しないで、

「これは現象です」

などという。

 

そんなものは、「新しい視点」でも「哲学的」でも
何でもない。
ただ、人間としてズルイだけである。

私は、自分のひきこもりに関して、
こういうであろう。

「ああ、私がひきこもりになったのは自己責任ですよ。

意図的にひきこもりとなることを
選んだわけではないけれど、
あのころ生き延びるためにはこの選択肢しかなかったし、
今となっては最良の道をたどったと思うけれども、
結局は自分が今日ある自分の姿を
選んでますからね。

自己責任です。

しかし、そのことについて
あなた方にとやかく非難される謂れはない。

私のひきこもり状態であることに対する自己責任には
有責性はあっても可罰性はありません」


……。
……。


ともかく、私と「責任」の問題は、
母親による虐待、鈴澤先生との関係性のころから
始まっていたのであった。

 


・・・「海外ひきこもりだった私(17)」へつづく

vosot.hatenablog.com

 

関連記事

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

 

vosot.hatenablog.com

  •         

    顔アイコン

    以前大学へは自分の意志で入ったのではなくお母さんのために入ってやった・そして入った大学では何も学ぶものは無かったと言われましたが、鈴沢先生に出会えただけでも大きな価値があったのではありませんか。 削除

    迷えるオッサン

     

    2019/5/6(月) 午前 8:35

     返信する
  •         

    迷えるオッサンさま コメントをどうもありがとうございます。

    「価値」と言い切ってしまうと語弊がありますが、鈴澤先生に会ったことは、私に人生にとって大きな意味を持ちました。齊藤學の比ではありません。

    しかし、それは地方に左遷された会社員が自然の美しさに目覚めるようなものです。それを「会社のおかげ」とは言わないでしょう。

    鈴澤ゼミはその大学のなかで経済学でも法学でも商学でもない、「語学ゼミ」という、落ちこぼれを拾う亜流であったため、母親としては私がそこへ進んだことは不本意でした。 削除

    チームぼそっと

     

    2019/5/6(月) 午前 9:52

     返信する
  •         

    顔アイコン

    お母さんにとって不本意であろうがなかろうがぼそっとさんにとっては有益だったのでしょう。自らが求めた塞翁先生でなく偶然出会った鈴沢先生の方が良かった‥それってよくあることですが、いずれにせよ貴兄がその大学に入らなかったら出会うチャンスは無かったことは確かでしょう。 削除

    迷えるオッサン

     

    2019/5/6(月) 午後 6:14

     返信する
  •         

    迷えるオッサンさま コメントをどうもありがとうございます。

    どうも貴兄は、私が母の思い通りになって一橋大学に入ったことにしきりと「価値」を持たせようと、懸命に私を説得しているように感じられてなりません。

    残念ながら、まだまだ事実誤認があります。
    じつは、まだ書いてないことかもしれませんが、後年、埼玉県の田舎の大学へ行った弟は、そこで鈴澤先生に教えを受けることになるのです。

    つまり、私が一橋大学へ行ったことと鈴澤先生と会ったことはそれほど関係はなく、むしろ場所はどこでもいいから、私が父親像を自分に手繰り寄せ、獲得していったことに価値があるということです。

    それは母親のおかげなどではなく、母親に虐待されたにもかかわらず死なないで、独自な方法で生きることを選んだ私自身の力です。 削除

    チームぼそっと

     

    2019/5/7(火) 午前 11:35

     返信する
  •         

    顔アイコン

    ぼそっとさんが一橋大学に行って何の得にもならなかった強調すること自体が変でしょう、お母さんに行かされたから価値のない大学なんですか?
    恩師鈴沢先生と出会えたでしょうと言えば,鈴沢氏は弟の行った埼玉の三流大学にも居た…私が努力して手繰り寄せた結果獲得したモノで何もしなかった弟はと対比する。ソレって弟を見下しているだけで自慢すような内容じゃないでしょう。


    ところで私のブログにもたまには来て頂戴。 削除

    迷えるオッサン

     

    2019/5/7(火) 午後 9:10

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020