VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

海外ひきこもりだった私(18)アルジェリアと朝鮮半島

 「海外ひきこもりだった私(17)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

 

前回海外ひきこもりだった私(17)で述べてきたように、
ゼミの主任教授に対して
悶々と父親像の投影をし、
母親への対抗原理を求めていることを、
ずっと私は、ものすごい恥として抱えこんできた。
 
人前で語ることはおろか、
自分で意識に登らせて考えることもできなかった。
 
しかし、今この齢にして考えてみれば、
家庭という密室で親に虐待された子どもが、
家庭の外に、その親に対抗してくれそうな
しっかりした価値体系、対抗原理を求めるというのは、
自然なことなのではないか、と思う。
 
それで、このようなことも語る気になってきたのである。
 
私は、はなはだ遅熟な子であったし、
中学高校と共学ではなかったために、
さらに人間的な成長が遅れたように思う。
 
それで、父親像の激しい投影が、
大学生にもなって起こったのではないか。
 
対抗原理は、
きっと何も一人の人間でなくてもいいのだろう。
 
たとえば、私の世代の多くの者が、
オウム真理教のような新興宗教にそれを求めた、
という歴史的事実がある。
 
上の世代でいえば、
新左翼だの反体制だのと学生運動に入れこんでいったのも、
このような対抗原理、
すなわち親に対抗するための拠り所を求めたからだろう。
 
本人たちは、さぞかし
「自分たちは政治的に早熟だったから」
とか何とか考えているかもしれないが、
それは外の理論に目をうばわれて、
自らの内面を見る目が育たなかった、
ということでもある。
 
もっと言えば、
自分に成り代わって親に対抗してくれる原理を
当時の政治思想に求めた、
ということだったのではないか。
 
そういうことを夢見させてくれる時代でもあった。
 
だから、団塊の世代の「活動家」たちは、
現在の「活動系ひきこもり」と同類であると思うのだ。
 
半世紀前は、まだナイーヴな政治思想があったので、
それにすがりつく、あるいは
信奉しているふりをしていれば、
社会的になんとか格好がついた。
 
あれから50年、とくにベルリンの壁が崩壊したあとは、
政治思想とは
そんなに単純なものではないことが
衆目に暴露された。
 
となると、それ以後の時代に生まれた「活動家」たちは、
親に象徴される既存の社会的価値体系に対抗しようとすると、
「ひきこもり」という選択肢に行きついたりするのである。
 
 
 
 
 
 
 
さて、鈴澤先生に対抗原理を求めたはよかったが、
それゆえに、私は途方に暮れることも起こってきた。
 
前にも述べたように、
鈴澤先生は「責任」ということを厳しくいう人である。
そして、その思想はサルトルに発している。
 
鈴澤先生が初めてフランスに留学したころ、
すなわち1950年代、
フランスはアルジェリア独立運動に揺れていた。
 
今でこそ、私たちの感覚からしたら、
フランスはヨーロッパの国、
アルジェリアはアフリカ大陸の国、
ということでまったく別の国家であるが、
当時の認識からいうと、
アルジェリアは、フランスから
「海を渡ったところにある植民地」であった。
 
 
 
植民地である歴史も、
たかだか150年ほどのことにすぎないのだが、
150年という歳月は、
地理的な認識を固定してしまうのに十分である。
 
たとえば、明治維新から今までが150年。
 
当時の一般のフランス人からすれば、
アルジェリアはフランスの一部であるのが
「当たり前」であった。
 
それに対して、
アルジェリアはフランスから独立すべきだ」
という運動が起こってきた。
 
アルジェリア独立闘争である。
映画『アルジェの戦い』などで描かれた世界だ。
 
フランス国内でも、マジョリティの民衆と袂を分かって、
知識人たちがアルジェリア解放戦線の側についた。
 
サルトルが始めたわけではなかったが、
彼はその代表格の一人であった。
 
そのころ、間にはさまれて苦労したのが、
アルジェ出身のピノ・ノワール(フランス系白人)であり、
ノーベル文学賞を受賞してまもなくのカミュであった。
 
サルトルたちのアルジェリア独立闘争を見聞して、
鈴澤先生は日本に帰ってきて、
「それは日本にとって朝鮮半島である」
という考えにいたった。
 
フランスにとってのアルジェリア
日本にとっての朝鮮。
 
両方とも、海を渡ったところにあった植民地であった。
 
こうして鈴澤先生は、
民族的にはまったく在日の方々と関係がなかったにもかかわらず、
在日コリアンの運動へ関与していくようになる。
 
当時は、在日朝鮮韓国人といったので、
その表現に忠実にさせていただく。
政治的な他意はない。
 
それは、いまの私の概念からいうと、
当事者(在日朝鮮韓国人)ではなく、
支援者(日本の知識人)であるということである。
 
当事者性がまったくないのに、
頭だけで「理論的にこうあらねばならぬ」と考えて、
支援者になったわけである。
 
私は若いころは、
鈴澤先生に対して恐れ多いと思い、
こういう見方をすることから逃げていたが、
いま思えば、
鈴澤先生なりに、フランスでサルトルに学んだことを
日本で実践する場として、
在日朝鮮韓国人の闘争や運動を支援する日本の知識人
という社会的居場所を見つけた、
ということだったのではないか。
 
あらゆるものが充たされている人は、
「何かやりたい」
と思う。
 
何かやる素材として、
救済の名のもとに
他者の不幸をつかう。
 
しかし、自分の問題で手いっぱいの人は、
他者の不幸を素材として何かやっている余裕がない
……か、と思いきや、
現実は結構そうではない。
 
自分の問題への目をそむけて、
他者の世話を焼いている文化人も多い。
 
自分の問題がある、と知られると、
恥だからでもあるし、
他者の不幸のために活躍していると、
それだけ人格的に優れていると評価してもらえるかもしれない、
という打算があるからでもある。
 
だが、そのような視点を私が獲得するのは、
はるか後年のことである。
 
ともかく、私は
実生活において在日の人と一人も会うことのないままに、
在日朝鮮韓国人の支援運動にたずさわる鈴澤先生に
師事することになったのだった。
 
 
 
 

 

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