VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

貧困と人づきあい(89)オランダ人ハーフ、マリコさんの場合<1>

貧困と人づきあい(88)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

私のような形でひきこもりとして生きていると、

どうしてもメディアの方々とのおつきあいが生じてくる。

そのなかには、国外のメディアも含まれる。

 

マリコさんは、

日本のひきこもりを取材しにオランダからやってきた

映画監督アレクサンダー・ウイさんの通訳として

私の前にあらわれた。

 

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マリコさん(左)とウイ監督(右)

 

名前からして日本人だと思っていたが、

会ってみると、

考え方や仕草はヨーロッパ人女性のそれである。

 

本ブログの読者の皆さまはご存じの通り、

私はなんでもかんでも日本社会が悪いという論になっていくのを好まないので、

彼女の話には首をかしげる箇所もあるが、

マリコさんのお話を聞いていると、

とても面白いのである。

 

ウイ監督と二人して、

ひきこもりである私の話を聞き出しているよりも、

通訳であるマリコさん自身の話を映像化したほうが

面白いんじゃないかと思われるほど、面白い。

 

そこで、当初インタビューされる側だった私は、

さっそく立場を逆転させ、

ウイ監督をそっちのけにして、

マリコさんを逆取材しはじめたのであった。

 

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マリコ うちの父親はけっこう変わっていて、

祖母の話によると、

父は大学生のころから

「本物の英語が聴きたいから」

と言って、

お弁当をもって成田空港へ出かけて行って、

ずっと一日そこで生の英語を聴いてたんだそうです。

 

それで、二十何歳かのときに

独りでアメリカへ旅行に行ったらしい。

向こうで何をしたのか知らないけど、

そのままアメリカの新聞に載るくらいアクティブな人でした。

 

父は次男なので、

何かと家の束縛がなく自由だったのでしょう。

そして、あまり表に出さないけれど、

何か日本に違和感を持っていたのだと思います。

 

ぼそっと お母さまはどういう方でしたか。

 

マリコ 母は、オランダでも村落部である南部の出身です。

 

スペイン語を勉強しようと思い立って、

ある夏休み、スペインへ短期の語学留学をしました。

そうしたら、同じ教室に日本からやってきた父がいて、

二人は恋に落ち、

結婚することになったというわけです。

 

結婚式を、日本とオランダで2回やって、

はじめは二人でオランダに住もうとしたらしい。

でも、時は1970年代後半、

日本の方が経済環境は良く、

仕事も見つけられやすい状態でした。

 

そこで二人して日本にやってきた、

あるいは帰ってきた、というわけです。

 

ぼそっと お母さまにしてみると、それが初めての日本ですか。

 

マリコ いいえ、2度目だったそうです。

でも、そのまま移住ですから、

思い切りもありました。

 

当時はまだ航空券が高く、

そんなに何度もヨーロッパと日本を

行ったり来たりできなかったので、そうなったのでしょう。

 

幸い、母は日本へ来て

すぐに東京のオランダ大使館で仕事が得られました。

だから、日本に暮らしながら、

半分オランダ人社会で暮らすような日々を

送ることができたようです。

 

その点、母にとっては

異国での暮らしに独りストレスを抱えこむことにならず、

よかったんじゃないですかね。

 

多言語が行き交う家庭環境

ぼそっと マリコさんが生まれたのはいつですか。

 

マリコ 1983年です。

 

私、妹がいるんですけれども、

両親が働いていたので、

私も妹も、日本のふつうの保育圏に入れられました。

だから、二人ともふつうに日本語が話せるようになりました。

 

ぼそっと ふつうの日本人の家庭に育った者は

みな関心を抱くと思うのですが、

マリコさんのような国際的な家庭では、

おうちの中ではみなさん何語でしゃべっているのでしょう。

 

マリコ 両親の会話は英語です。

 

夫婦のあいだで、日本語だと父親が、オランダ語だと母親が

それぞれ有利になってしまうので、

二人が対等であるために

会話は英語でおこなうようにしてきたようです。

 

母と私たち姉妹はオランダ語

父と私たちは日本語で会話しています。

そして妹と私は日本語。

 

だから何語で話しているかによって、

誰に向けて話しているかがわかる家族なのです。

 

でも母親も、

「子どもたちが学校で習ってくることを理解したいから」

と言って、かなり日本語を勉強しました。

私といっしょに漢字検定も受けました。

 

ぼそっと どういう家庭環境でしたか。

 

マリコ 父親は大学の職員だったので、

外国の研究者をディナーに招いたり、

家にはよく外国からのお客さんが来ていました。

 

さらに、さっき言ったように、

母親の仕事の影響で、

オランダ大使館つながりの方たちと多く交流していました。

 

ぼそっと それで、マリコさんは

インターナショナルスクールへ行かれたんですか。

 

マリコ いいえ。

両親ははじめ、

私をインターナショナルスクールに入れようとしましたが、

面接試験を受けに行ったら、

 

「この子は日本語が上手なので、

ふつうの日本の学校のほうがいいんじゃないですか」

 

とインターナショナルスクールの先生に言われて、

公立小学校へ入れることにしたようです。

 

それで私は小平市第十小学校に入学しました。

 

ぼそっと なんと! 

 

私は1980年代前半、小平市第十小学校から

目と鼻の先にある大学のキャンパスに通っていたのですよ。

下宿のアパートもそのへんにありました。

 

私は、幼児だったマリコさんを見ているかもしれませんね。

 

そういえば、何回か

ヨーロッパ人のお母さんと道ですれちがった記憶もあるな。・・・

 

 

子どもが掃除をさせられる日本の小学校

ぼそっと 日本の小学校生活はいかがでしたか。

 

マリコ 小学校では、

母親が外国人だから、

やはり多少のイジメみたいなことがありました。

 

あのころ、小平市のあたりは

外国人人口がほとんどいなかったので、

子どもの私が道を歩いていると

 

「あ、ガイジンだ」

 

と言われましたね。

 

でも、保育園から小学校までは、

概してとても愛のある成育環境で、

すばらしい先生にも恵まれました。

 

小学校のころ私は、

ガイジンと言われるのがいやで、

 

「異質な存在になりたくない。みんなに同化したい」

 

と思って、

いっしょけんめいに日本人っぽくふるまおうとしていました。

 

ぼそっと へえ。それはそれで大変だったでしょう。

 

マリコ ええ。

でも母も、私の学校生活のことで苦労していたようです。

 

小学校では、学校に命じられて、

お母さんがアップリケとか雑巾を

縫ったりさせられるじゃないですか。

 

私も不器用なんですけど、

母親も手の込んだことができない。

 

みんな他の子が持ってくる雑巾は、

器用な日本のお母さんが縫ったものらしく、

小さくまとまっていて、

なかには刺繍がされているものもありました。

 

でも、私が学校へ持ってくるのは、

不器用なうちの母親が作ったものなので、

でっかくて、無地で。

……それを馬鹿にされたりしていました。

 

オランダの学校では、

親が雑巾を縫わされるなんてことはありません。

児童は、学校の掃除なんかしないので。

 

学校の掃除には、清掃人が雇用されています。

 

ぼそっと なるほど。児童生徒に掃除をさせないことが、

オランダでは国の雇用政策にもなっているというわけですね。

 

マリコ 児童生徒がやらされる日本の学校の掃除って、

掃除としてもあんまり意味ないですよね。

汚い雑巾で何度も同じ所をなぞったところで、

きれいにはならないし。

 

あれはただ単に、

「皆でそういう労働をやっています」

というポーズを取るための日常行事でしょう。

 

それに、

「上から言われたことは、おとなしく黙って従う癖をつける」

ということを、

児童生徒にすりこむための因習なのだと思います。

 

 ・・・「貧困と人づきあい(90)マリコさんの場合<2>」へつづく

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