VOSOT ぼそっとプロジェクト

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支援者だった私(15)連載打ち切り・あばかれた作家の素顔 ー鈴木良太・著『片隅の彼 : あなたに一体、私の何が解るというのですか』をめぐって

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Photo by Pixabay

 

by ぼそっと池井多

 

 

前回まで、このシリーズ「支援者だった私」では、じっさいに元・ひきこもり支援者であった作家、鈴木良太氏の最新刊『片隅の彼』を、本人と、本人経由で出版社の両者からの諒承をとったうえで連載してきた。

 

しかし、この連載を打ち切ることにする。

 

理由は、著者である鈴木良太氏が、表向きはひきこもりに関して理解ある風情をよそおいながら、裏ではひどいことを書いていることがわかったからである。

 

書いている内容は、ひきこもりの当事者活動を

知的障害者知的障害者の世話をしようとしているようなもの」

といった表現をもちいて、稚拙で無価値なものとして愚弄していた。

 

たとえば、私自身がかかわっている当事者活動でいうと、まずこのVOSOTぼそっとプロジェクトがあり、さらに雑誌HIKIPOSの発行があるが、これは各界からも高くご評価いただき、一部の一般書店でも取り扱ってくれるようになった。また「ひ老会」や「ひきこもり親子公開対論」「GHO」も、多方面からご好評いただいている。

ほかの当事者の方々がやっている当事者活動も、それぞれにほんとうに立派なものだと思う。

ところが鈴木良太氏は、それらの実像をいささかも知らないままに、上記のような論評をしていたものである。

しかも、「十年来のつきあいのあるNHKのディレクター」と飲んでいるときにそういう話になった、と書いていた。そのディレクターがいったい誰であるかも、いずれ突きとめなければならない。

 

これは、私たちひきこもりに対する大変な差別であるばかりでなく、引き合いに出された知的障害者の方々に対する差別でもある。なぜならば、その文脈において知的障害者の方々は、あきらかにネガティブな比喩として引き出されているからである。

 

本人公表のプロフィールによれば、鈴木良太氏は現在、精神障害者施設で支援者として働いているそうであるが、今回の発言から、自分が施設で支援している対象者の方々も、おそらくそのような目で見ているのだろう、ということが想像にかたくない。

ただし、そのことは、ただちに否定されるべきではない、と私は思う。

障害者施設での仕事はそれなりに大変であろうし、そこは「働いてない」私がとやかく言える身分ではないからである。また、私もそんな表層的なことで彼を批判しているのではない。

 

 

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私が言っているのは、以下のようなことである。

もし、鈴木良太が自分が支援している障害者をそのように見下しているのならば、ひごろの彼の作家として繰り出す言葉の中に、そういう描写がなされてもよいであろう。

そういう文章じたいが存在してはならぬ、というほど私は頭の固いポリコレ(*1)ではないのである。

  • *1. ポリコレ

    ポリティカル・コレクトネス (political correctness / 政治的正しさ)の略語。政治的正しさを追求するあまり、人間的真実が見えなくなっている者を指摘するときに、おもに用いられる。

 

しかし、鈴木良太が表に出している言葉のなかでは、彼はいかにも弱者を思いいたわる「善い人」であり、いわば「不器用な正義の味方」として描かれているだけなのである。

 

ここに私は、この作家の深い偽善を感じる。

 

もともと、この鈴木良太という作家は、偽名を使って生活保護受給者である私をインターネット上で攻撃していた者である。詳細は以下の記事にまとまっているので、ぜひごらんいただきたい。

 

 

もし鈴木良太氏が、障害者やひきこもりといった、いわゆる社会的マイノリティに対する罵倒や軽蔑を作品として書くようになれば、表面的にはそれは「けしからんこと」と叩かれるかもしれないが、私はそれはそれで一つの文学的価値を形成すると思う。

たとえば、相模原事件(*2)では元・施設職員であった植松被告が19人の障害者の命をうばい、26人に重軽傷を負わせた。

  • *2. 相模原事件

    2016年7月26日、神奈川県立の知的障害者福祉施設津久井やまゆり園」で起こった事件を指す。相模原障害者施設殺傷事件。

植松被告は、いまだに後悔や反省の念を示していないらしいから、あれはけっして一時の「錯乱」などではなく、これはこれで彼の「思想」であった、という面は認めなくてはならないだろう。もちろん、その思想に賛同できるかいなかは別次元の問題である。

 

今、もしかりに植松被告がそのような「思想」を抱いたとして、それをあのように殺傷行為というかたちへ発現するのでなく、言葉によって作品化していたら、どんなに違っていたことだろう、と私などは思うのである。

貴重な人命が失われずに済んだ、というだけでなく、その「思想」の問い方としても、植松被告自身にとっても、もっと良い展開が望めたのではないだろうか。

しかし、そうはならなかった。

おそらくその理由の一つは、植松被告にそれだけの言語能力がなかったからである。

 

ところが鈴木良太の場合は、その言語能力を持っている。

そして植松被告と同じように施設職員であり、そしてどうやら植松被告と同じように支援対象者を蔑視しているのだ。

もしそうであれば、彼はいつまでも小ずるく善人づらをして、市民的作家を気取っていないで、生活保護受給者を偽名でネットで攻撃するような、あるいは今回「十年来のつきあいのあるNHKディレクター」とひきこもり当事者活動を軽蔑するような、えげつない自分のなかの闇の部分を作品世界に描けばよいのである。

そのほうが彼の作家人生にとって、はるかに良いであろう。

 

そういった意味をこめて、連載は中止することにした。

『片隅の彼』不買運動に発展してもよいケースであると思う。

 

 

 

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